第五十四話 霞む頂
「話はまとまったかな?」
ぼんやりとする頭を上げると滝谷が眉を吊り上げて笑みを浮かべていた、いつの間にやらソファで眠りこけてたらしい。
すぐには質問に答えずゆっくりと辺りを見回してみるが……ラブの姿は無い。
「……多分、俺は酷い事をしているんだと思います」
俺の答えに滝谷が困ったように頭を掻いた、だってそうだろう? 俺は結局ハッキリとした答えを出したつもりでラブの事も傷つけたくないと思っている……イサナに対して負い目を感じる俺のこの想いは間違っているのだろうか。
「偉そうにアドバイス出来るほど僕は経験があるわけじゃないけどさ、悩むのも人生……選ばなくちゃいけないのもまた人生なんだよね、ありきたりな言葉だけどさ」
「そう……ですね」
考えすぎたせいか立ち上がった際にふらついてしまった、滝谷に支えてもらいながら姿勢を正す……人生が選択の連続なんて事は今時中学生だって知っている、でも……二つかもしくはそれ以上の道があって、いざ直面した際の答えが『選択』しか無いのは何故なのだろう? 全ての道を通るように回り道したり道を巨大な一つにする事は出来ないのだろうか? こう問いただす俺を指して人はきっと子供の理屈だと笑うのだろう、誰かが勝手に決めた理屈を崇高だと信じ切って笑う奴らの中に入るぐらいなら俺は子供のままでいい……どちらも大切だと声高に叫べないなら、子供ですらなくてもいい。
「いいかい? 君がそれだけ悩めるという事は重さの分だけ君の周りに素晴らしい人達がいるという事だ、大いに悩むがいい。今手元にあるものこそが最上だと盲信して視野を狭めた大人になんかなっちゃいけない……人は、心から老いていくものだからね」
「……滝谷さんにもそういう経験があるんですか? 好きな人、とか」
ふと浮かんだ疑問をぶつけると滝谷の目が大きく見開かれ呻き声が漏れた、肯定はしないが否定もしない……だがこの場合の沈黙の答えは大抵決まっている。
「はぁ……いいかい? これは僕と君との約束だからね、男同士の約束は絶対に破ってはいけないよ?」
「はい……っ!?」
そっと耳打ちされた滝谷の秘密は俺のぼやけた思考を一気に覚醒させる程のものだった、再び視線を滝谷に向けると照れ隠しなのか顔を背けて髪を掻いた……どうやらそれが彼の癖らしい。
「まっ、もしそうなっていたら琴子君はこんなに優秀にならなかっただろうけどね! ある意味ではこれも青春ってやつさ、はははっ!」
「……私がどうかしたんですか?」
突然の声に心臓を高鳴らせながら入口に視線を向けると青海と帆吊が立っていた、二人を前に滝谷はというと一気に老けたんじゃないかってぐらい顔色が悪い。
「こっ、琴子君!? まさか、今の聞いてないだろうね!」
「……何の話ですか? 私達は今戻って来たところですが」
首を傾げる青海に滝谷がホッと胸を撫で下ろした、関係無い筈の俺まで短く息を吐き出し……そんな俺達の反応に興味を示し、数歩歩み寄る帆吊の瞳だけは悪戯っぽく怪しい色に輝いている。
「なになにー? なーんの話なのかにゃー?」
帆吊の追撃を躱しながら助けてくれと言わんばかりの視線が俺に突き刺さるが、ここで今口を挟んでも事態がややこしくなるだけな気がするので一旦滝谷には孤軍奮闘してもらう事にする。息を整え数歩青海に歩み寄ると、彼女の視線がこちらに向いた。
「……ちょっとお話、というかお願いがあるんですが……聞いてもらえますか?」
「っ……どうして駄目なんですか!」
──数分後、俺は腕を組む青海に食って掛かっていた。
彼女への要望の内容は勿論……俺をあの海に帰して欲しいというものだ。しかしそれは受け入れられず、青海が首を縦に振る気配は無い。
「どういう事ですか! 俺の任期は八ヶ月の筈……まだ残っている筈ですよね!?」
「確かに修吾さんの任期はまだ残っています……ですが、事故とはいえ今回の成果があまりにも大きすぎるんです。こういう風に言うのはあまり気が進みませんが……修吾さん自身の価値が以前と今では段違いなんですよ」
「何をっ……!」
更に食って掛かろうと一歩前に踏み出すと差し出された帆吊の手が視界を遮った、落ち着けと言わんばかりに肩にも滝谷の手が置かれる。
「──いいかい? 僕だって行かせられるものなら行かせてあげたい気持ちはあるさ、でも本来の目的を忘れちゃあいけない。今の君は青海研究所唯一の観測員なんだ、あのマントル海域から生きて戻った世界でたった一人の生き証人……それが君なんだよ、君の経験や言葉には今とてつもない価値があるんだ」
それは俺が報告している最中に気付いた紛れも無い事実だった、自分で辿り着いた結論だけに反論出来る筈も無く……溢れそうになる言葉を飲み込み、押し黙る。
「でもここで一つ、問題が浮かび上がるんだよねぇ」
「……問題?」
「ええ、私達研究者にとっては今の修吾さんの言葉は持ち上げるのにも苦労しそうな分厚い書籍よりも価値がある事を理解していますが、果たしてどうすれば一般市民にも正しく伝える事が出来るのか、です」
──それはまさしく観測員という立場、或いは深海研究の根幹に関わる問題だった。元を正せばどちらも巨大深海魚の再出現、災害の再発を防ぐのが目的だが今の社会で闇雲に声を上げたところで……恐らく青海のお父さん、その二の舞になるのが目に見えている。
「……テレビやネットでは巨大深海魚について研究が進められているとか言ってましたけど、ああいう番組の影響はどうなんです?」
「そりゃ僕らみたいなのがいるんだから日々研究はしているさ、羽虫の歩みよりも遅々としているけどね。分かるだろう? 今の人類にとっては巨大深海魚すら一つのコンテンツに過ぎないんだ、数字が取れるからテレビで放映したりするけど国からの追加資金なんて雀の涙ほどしか出やしない」
「それでも私達は毎回警鐘を鳴らしてるけどねー、修吾君だってテレビで活火山についてとか癌についての番組ぐらい見た事あるでしょ? 見てる時は怖いなぁ、非常時の備えとか気を付けなきゃなぁって思うかもしれないけど……番組が終わって三十分もすればどう? シャンプーの替えを買いに行かなきゃとか、全く違う事考えてない?」
それは、と反論しかけて口をつぐむ……確かに経験が無い訳じゃない、帆吊の言う事も最もだ。正常性バイアス、と言うのだったか? 現実に起こりうる可能性を心の奥底では理解しつつも、どこか自分には関係無いと思い込んでしまう……そんな彼らに真に危機感を感じさせるのは、至難の業と言える。
「もどかしい話ですが人というのは眼前、もしくは問題が発生してからでないと危険視出来ない人が殆どなんです。火山が噴火してから、未知の性質をもつ癌が発生してから……もしくは……」
「……再び巨大深海魚が地上に現れてから、ですか」
「民衆はもちろんだけど、一番厄介なのは高い椅子の上で偉そうに仰け反ってる連中までもが同じような考えを持ってるってとこなんだ。早い話が明確に危険だと、緊急性を求めると分かる証拠を持ってこいって話さ。ホント難しい話を簡単に言ってくれるよな、嫌になる気持ちも分かるよ……これは僕がこの世で最も嫌いな言葉なんだけどね? 『そういうものなんだ、社会ってやつは』」
俺の背中を軽く叩き、滝谷が肩をすくめて見せる……なんて狭くて窮屈で狭量な話なんだろうか、何故平和の為に一番に貢献している彼らがこんな風な思いをしなければならないのか……何故誰も間違っていると思わないのか。
「私達じゃ火山の活動も癌の研究もさっぱりだけど……それでも君なら、あの海の研究に種火を点ける事が出来る。上手くいけば人類の危険を一つ取り除く事が出来るかもしれないってわけ、決して小さくないその可能性を考えれば修吾君の気持ちを踏みつけてでも戻らせたくない私達の気持ち……分かってくれた?」
「……っ」
きっと今の俺は表情一杯に嫌だという気持ちが浮かんでいる事だろう、だが言葉は出ない……分かっているのだ、単純な話で言えば一人が乗った小舟と百人が乗った船のどちらを助けるのか……そういう事だ。
「人類を助ける為に……イサナの事は一旦捨て置け、と?」
「そんな風には言いません、研究の過程で向こうと連絡を取る手段が発見されれば優先的に開発を進める事はこの場で約束します……ですが」
青海の言葉が最後まで紡がれず口がキュッと閉まる。
その行動には開発そのものが難しいであろう事も含まれているが、口にし難い事実も含まれていた……イサナの事だ、今回の発見を公表するのであればマントル海域の映像と共に俺自身がメディアに出る事も十分に考えられる。
すんなり受け入れられるとは思えない、嘘だと非難を浴びる事もあるかもしれない……それに加えてイサナの事も公表すれば好奇の目に晒されるのは間違いない……性別があやふやになった男性なんて民衆の恰好の的だ、外見の美麗さも相まって下種な言葉が山ほど飛び交うのは想像に難くない。
「……どこが、どこがゴールですか?」
過去にも口にした同じ問いを投げかける……俺の言葉に三人は目を合わせるが答えが出ないのか口をつぐんでいる、明確なものは恐らくあるのだろうがそれでは遠すぎるのだろう。
「……ラブ、君はどう思う?」
ぼそりと呟いただけだった、しかし彼女の耳にはしっかりと届いたようで宙に青い水滴が集まり……人型のラブが姿を現した。
『やはり……まずは正しく認知を広める事が最優先だと思います、可能ならば信号が三色であるというレベルが望ましいです。加えて解決すべき問題としては巨大深海魚を地上へ送る原因となった竜巻の発生する原因を根絶するか……転移地点そのものを封鎖する事が一番の解決かと』
「つまり……誰もマントル海域に行けなくすると?」
『はい、ですが修吾が体験したようにあの海の空一面に大小様々な転移地点が存在するとすれば、それは現実的ではありません……結論としては竜巻を伴う異常海流を消す事の方が、一つの区切りとして明確なのではないかと』
力技ではあるがやはりそれしかないかと口元を手で覆って考える、残る問題はむやみやたらとマントル海域への進出を考える者が出ないかという事だが……とにかく止めるしかない、あの海にはエイトのように温厚な深海魚だけでは無いし無理に支配しようとすればエイトは牙を剥くだろう……何でもかんでも支配しなければ気が済まない者が地上の指導者にならない事を祈るのみだ。
「……全部が上手くいったとして、どのくらいかかる?」
『それについては何とも……かかる費用も桁違いのものになるでしょうし、まずは食いつく企業を探すところから始めなければなりませんし……五年、いえもしかしたらもっと……』
思わず表情が歪む、長すぎる……だが迷っているこの時間すら今は惜しい。
「……どうします青海所長、ここの責任者は貴方だ」
その場の全員の視線が青海に集中する……目に見えて彼女の表情が強張っている、しかし一度咳払いし──ゆっくりと頷いた、世界一静かに一世一代の大勝負の幕が上がった瞬間だった。
「聞こえる? 恵ちゃん、今から私達は──」
「僕だ、以前に話した事だが──」
青海が頷くと同時に帆吊と滝谷はどこかへと電話を始めた……たった一言で始まってしまった、急激に遠ざかったゴールを前に早くもがっくりと項垂れると額に柔らかい感触が広がった……いつの間にか目の前にいたラブの胸元に項垂れた拍子に顔を埋めてしまったようだ。
「すまん……少しだけいいか? すぐ起き上がるから」
『もちろんですよ、私は修吾のパートナーですから』
「……はぁ、これじゃあ俺の報奨金もさっぱり消えちまいそうだな」
『ふふっ……かもしれませんね、ですが上手くいけばもっと大きなお金が入るかもしれませんよ?』
「だといいなぁ……その時は思いっきり豪遊してやる、片っ端からコンビニの新商品を買い揃えるんだ……!」
ハイタッチのつもりで掲げた右の手のひらにそっとラブの手が重なった、未知の変化すぎて見通しも何もつかないが……やるしかない、やれる事をとにかくやるしかない……再びのあの日々を少しでも早く手繰り寄せる為に。




