第五十三話 I・ラブ
彼女の気持ちに気付いていなかった訳じゃない、気付いてないフリをしていたつもりもない。
……いや、嘘だ。俺は彼女の気持ちに気付いていながら気付いていないフリをしていた、彼女が機械だから……プログラムだから本物の感情とは違うと自分に言い聞かせ、その上で彼女の優しさに甘えていた。
──怒鳴られるならまだいい、手を上げられるのも構わない。
……ただ誰でもいいから教えて欲しい。目の前で膝を抱えて黙りこくる彼女に、俺はなんと声をかければいい?
「あ、あー……ここってまたあの明晰夢みたいな空間ってやつだよな? こんなあっさりと送れるものなんだな……驚きだよ、ははは」
「……」
何も無い、以前はあったベッドすらないただただ白が広がる空間で両手を広げて話しかけるが返事は無いし、静かに宙を漂う彼女に声が届いているのかどうかすら分からない。
「俺がここにいるって事は……今頃俺の本体は所長室で眠りこけてるのかな? 倒れた時にたんこぶでも出来てなきゃいいけどなー、なんて」
「……そんな事、私がするわけ無いじゃないですか。修吾は今、私の中にいます」
「ラブの……中?」
首を傾げるとラブが膝を抱えた姿勢のまま指を一本立てた。すると空中に小さなモニターが現れ、恐らくは現在の俺達の様子であろう映像を映し出した。
そこには人型形態のまま普段の二倍ほどの大きさになったラブと、半透明な彼女の肉体に完全に飲み込まれている俺の姿があった……なるほど、確かにラブの中だ。
あの状態で何故呼吸が出来ているのか不思議だが、ここにいる俺に何の不都合も起きていない事を考えると恐らくそういう心配は無いのだろう……とにかく今はそんな事よりも、ラブが再び口を閉ざす前に話し合わなければ。
「あー、えっと……ごめん」
「とりあえず謝ればいいと思っている男性は、基本的に嫌われる傾向にあるらしいですよ」
「うぐっ……何て言えばいいのか……ん? 今『らしい』って言ったか?」
「はい、それが何か?」
顔を上げたラブの表情は悲しみよりも不機嫌といった表情が浮かんでおり、膝の上に顎を乗せてジトリとこちらを睨みつけている。
「ちなみにそれって……どこを参考にしたんだ?」
「適当にネットから漁ってきた情報ですが……『恋人を怒らせた時にしてはいけない謝罪方法』らしいですよ」
思わず膝から崩れ落ちる、つまり今のラブの行動はパターン的に人の感情を真似しただけという事か……助かったと思いつつ複雑な気持ちだ、残念という気持ちもある気がする。
「それは違いますよ? 理解や処理に時間がかかったのは事実ですが……私の中に芽生えたこの感情はいわゆる嫉妬で間違いありません」
「……えっ?」
顔を上げると目の前にラブが立ってこちらを覗き込むようにぐっと顔を近付けていた。
「修吾も見てみますか? 別の資料に書かれていた仲直りの方法らしいのですが……『男性が謝るのを待つ』、問題の内容も分からないのに男性が謝るんですか? 『一度距離を置く』、これはまだ理解出来るのですがせっかく一緒にいるのですから、出来ればこうなる前に解決したいですよね」
次々に目の前に現れては消えていくどこかで見たような恋愛関係の情報が書かれたウィンドウたち、ラブの言いたい事がイマイチ掴めずぼんやりと眺める事しか出来ない。
「……とまぁ真偽はともかくこんな風に色々な感情が存在するという事は事実です、であれば……これらが理解出来ないと思う私の気持ちも感情の一つとしてカウントしても良いと思うんです」
指を一本立てて説明するラブの言いたい事が少しずつではあるが飲み込めてきた、俺だってネットに書かれている事に対して肯定もするし否定もするし理解出来ない事だって当然ある。
それならば例え疑似であっても感情をもつ彼女に対して「ロボットだから理解出来ない」という理屈にはならないという事だ、ハッキリ言って屁理屈だが……屁理屈だって感情が生み出すものには違いない。
「完全に整合するものは見つかりませんでしたが……私の修吾に対する感情は紛れもなく愛情であると私は確信しています、この結論を修吾は認めてくれますか?」
……真っ直ぐすぎる、素直すぎる、純粋すぎる……眩しいとすら思える、彼女に比べたら人間の方がもっと汚く暗い──俺という人間と出会ってしまった事でこんなに白い彼女を薄汚く汚してしまったのではないかとすら思えてくる。
「──ああ、認めるよ。看病してくれた時といい、思えば最初から……ラブは愛情たっぷりだったよ、その名の通りね」
「……良かった」
不安そうだったラブの口元が綻び、細い三日月を描く。
なんだってそんな顔が出来るんだ、なんでこんな何でもない男が認めたぐらいでまるで神様に認められたかのような表情を浮かべるんだ……いつまでも受け身な自分がほとほと嫌になる。
「私……いえ、ラブは正しく修吾の事が好き。でも今の修吾にはイサナさんがいる……恋人、つまりパートナーですよね?」
「まぁ……そういう言い方もあるね」
「でも、最初に修吾のパートナーになったのって私ですよね? やっぱりこれって浮気になるんですか?」
言葉に詰まる、言葉の綾な上に揚げ足取りもいいところだが広義的に言えばそうなってしまうのだろうか?……ああ日本語って難しい、いやパートナーは英語だが。
もちろん最初にラブをパートナー呼びしていた頃はそんなつもりは無かった、それとも無意識の内に誤魔化していたのだろうか?……自問自答が渦を巻きぐるぐると脳内を巡っていく。
「それは……いや、そうなるの……かもしれ……ない」
「ぶっぶー、ですよ修吾。一点マイナスです」
「……は?」
顔を上げるとラブが悪戯な表情を浮かべて笑っていた、何を間違えたのか考えてもすっかり真っ白になってしまった頭では何も浮かばない。
「浮気なんてルールは人間のルールでしょう? 私、ロボットですよ? だから私も修吾のパートナーのままでいい筈です!」
「……すまん、少し待ってくれ。何が何やら……」
頭を抱えて思わずへたり込む、演算処理がラブの方が圧倒的に早いのは確実だがそれにしたって強引すぎる。
倫理観などもそうだが言っている事だけで言えば子供の言い訳のような……そこまで考えてハッとする、そうだ──さっきからラブの言っている事は殆どが感情論なのだ、だから俺には理解出来なかった。
理論的に問題を考える人間と感情論のロボット……あべこべもいいところだ、もはやその境界線すら怪しく思えてくる。
「……『ラブ』は『俺』を好きになってくれたんだな」
「そうです、『私』は『貴方』を好きになりました」
口の端から笑いが零れる、難しく考えていたのはどっちなんだか……まっすぐにラブを見つめ、深々と頭を下げる。
「……すまない、俺はイサナが好きだから……ラブとは恋人関係にはなれない」
人とか機械とかそんな事は関係ない、俺は生まれて初めて俺に対して愛情を持ってくれた相手を振った──締め付けるように胸が苦しい、形が違えばと思わずにはいられない。
「……修吾はいつも私に色々なものをくれますね、痛いものだって……全部全部大切なものです」
顔を上げ、視界に映ったラブの表情は複雑そうな笑みだった。
「知識欲は私の根幹でもありますが……感情というものは複雑すぎていつまで経っても解明出来る気がしませんね」
ラブが再び一本の指を伸ばして空中に新たにウィンドウを一つ表示すると俺の前に差し出した、音は無いがテレビの砂嵐のようなものが表示されている。
「……これは?」
「今修吾からもらった感情のお返しです、少し前に解析が終わったものですが……私の中の嫉妬のせいで隠してしまいました、ごめんなさい」
ウィンドウをラブの震える指で軽く叩くと段々と文字が表示されてきた、次々に内容が判明し思わず握り締めていた両手に力が入る。
「少し私は感情を整理してみます……ですが忘れないでください、修吾の気持ちがどこに向いていようと……私の気持ちはいつも貴方の方向を向いていますから」
「ラブっ……!」
ふわりと浮かぶ彼女に手を伸ばそうとするがその姿はあっという間にどこかへと消えてしまった、宙に浮かんだ手をゆっくりと下ろすと再び視線をウィンドウへと戻す……そこに書かれていたのはほんの一文の、短いメッセージだった……。
『シューゴ、無事? 生きてるよね? 約束、忘れてないよね?』




