第五十一話 夢と慈愛とまどろみと
一体どこで夢が途切れたのか、ゆっくりと目を開くと再び医務室の無機質な天井が視界に広がった。
『おはようございます修吾、よく頑張りましたね』
天井から降り注ぐ光を遮ってラブの顔が俺を覗き込んだ。起き上がって返事をしようとするが体の感覚が鈍く、喉も乾いているのか声も上手く出せずに激しく咳き込んでしまう。
『まだ動こうとしてはダメです、今もまだ修吾の右半身の神経は私が制限していますから無理に動こうとすると怪我してしまいます……かなり体力も消耗している筈なので、今は休んでください』
……という事は手術は終わったらしい、無事に成功したのだろうか? 妙に霞む頭でぼんやりと考えているとラブが頷いて肯定した。
『はい、手術は無事に終わりました。帆吊さんは報告の為に席を外していますが、すぐに戻ってきますよ』
まるで心を見透かされたかのように返事をするラブに目を見開いて驚くと、それはもう愉快そうに目の前の顔がクスクスと笑ってみせた。
『忘れたんですか、今私と修吾は神経が直結しているんですよ? 全部完璧に……とは言えませんが修吾の考えている事は電気信号を通してある程度は伝わってくるんです、あの空間で修吾のイメージしたものを共有できたのもそのお陰なんですよ』
言われてみればあの明晰夢……と言ったか? あの空間で俺達は意識だけの存在なのだったか、改めてとんでもない経験をしたものだと実感し……同時に沸々と子供のような悪戯心が湧き上がった。
『……?……!?』
勝ち誇ったように笑うラブの動きが一瞬止まり、次の瞬間には目に見えて狼狽しだしたではないか……ここから出る事が出来ず外の情報に疎いとは聞いていたが、思っていた以上に初心だったようだ。
『なっ……なんて破廉恥な……! さ、最低ですよ修吾!』
ぷりぷりと怒るラブが可愛くて咳き込みながらではあるが思わず笑ってしまい、その際にラブの左腕が半液状化し俺の胸元に張り付いているのが見えた……どうやら思っていた以上に物理的な直結だったようだ、しかし不快感などは無くアレのお陰で痛みを感じずに済んでいるのだとすればありがたい事だ。
『……もう、酷い事をしたと思えば今度は優しくするんですから……別にもう怒ってませんよ、男性がそういうものだという知識は……一応その、ありますから』
仲直りの握手代わりに軽く頷き合うと咳き込まないように細く息を吐きつつ、ベッドに深く体を沈めた……ラブの言う通り思った以上に体力を消耗してるようだ。思考が鈍っていくことに抗えず、酷く眠い……。
『構わず眠ってください、今は何も考えず回復に専念しましょう……問題は順番に一つずつ、一つずつ解決していきましょう。修吾、すっかり言うのが遅れてしまいましたが……おかえりなさい、貴方が無事で本当に良かった』
そっと頬に触れたラブの右手はひんやりとしており、俺の体温がラブの手のひらに伝わるのを感じていると……不意にぷっつりと意識が途切れた。
熱い、喉が渇く……水──干からびてしまったかのようにカラカラの口を開けて水を求めていると、そこに少しずつ水が流し込まれた……美味しい。
『起こしてしまいましたか、少し熱が出てしまっただけですから心配しないでください……私がずっと傍にいますからね』
体が熱い、なのに芯は冷えているかのような妙な不快感……ここはどこだろう? 周囲は薄暗く、すぐにどこか分からなかったがラブが研究所で俺達が過ごした自室のベッドの上だと教えてくれた。
『沢山汗をかいてますね……温かいものが体に触れますが、びっくりしないでくださいね?』
そう言ってラブが俺の額や首、体や脇の下などを丁寧に温かい濡れタオルで拭いてくれた……心地いい。べっとりと体に張り付くほどに汗をかいていた衣服を脱がされ、ひんやりとした空気が全身を撫でまわしていく……もっとしてくれと目でせがむとラブは嬉しそうに笑い、俺の全身を触手で持ち上げベッドのシーツや枕を交換しつつ背中まで拭いてくれた。
『……それにしても、短い時間でしたが修吾は少し変わりましたね。プールで訓練していた頃はあちらの海に入る事に対して酷く抵抗していたのに、話を聞く限りもう何度も潜ったんでしょう?』
……そうかもしれない、最初に潜ったのはウツボとドローンで格闘している時だったか? 思えばあの瞬間から既に抵抗なんて無かった気もする。
『う……ウツボ? え、修吾のイメージしているそれは……本当にウツボなんですか?』
ラブが驚くのも無理はない、俺達が格闘したあの魚は顔がウツボに似ているというだけで大きさは全然違う化け物だ、味に関しても違うのかもしれないが……如何せん本物のウツボを食べた事が無いので比べようがない。
『これは……俄然元気になった修吾から話を聞くのが楽しみになりましたね』
ああいくらでも話してあげるとしよう、あの海で過ごした楽しい日々と……驚きの日々、そして……。
──俺の体力はラブの想定を超えて消耗していたらしく、まともに動けるようになるまで結局二週間もかかってしまった。
「ううん!……あー、あー……おぇっ」
洗面所の前で顔を洗い、久しぶりに声を出すと喉の筋肉が固まってしまっていたのか思わずえづいてしまった。
『大丈夫ですか修吾? もし気分が悪いようならもう少し様子を見ても……』
「平気だよ、もう十分休んだし……さすがにそろそろ体を動かさないと鈍っちゃうしね」
普段の小さなウミウシサイズで近くを飛んでいたラブからタオルを受け取って顔を拭くと幾分か気分がさっぱりした、鏡を見ながら自分の頬を叩き気合を入れる。
「よし……っと、ラブもこの二週間本当にありがとな。お陰で随分調子が戻ったよ、でも多分まだ迷惑かける事もあると思うから……その時はまた頼むよ」
「当然ですよ、何か出来る事があればいつでも言ってください。迷惑どころか、声を掛けてくれない事の方が寂しいんですからね?」
「ははっ……頼もしいパートナーだ、さて……それじゃあ行こうか、皆は所長室に?」
「はい、既に全員揃ってますよ」
朝独特の清涼感に満ちた空気に響く一人分の足音、以前は三ヶ月も過ごし研究所内の景色にはすっかり慣れたつもりだったがしばらく離れていただけで何となく自分の居場所では無いような気がしてくるから不思議なものだ、迷いなく歩を進めて所長室の前に立ち……ああマズいな、早くなる動悸や脈打つような手の感覚からも自分が少し緊張しているのが嫌でも分かってしまう。
『大丈夫ですよ修吾、この先にいるのは全員貴方の味方ですよ……ああいえ、一人はただの変人ですが』
「一人?……ああ、ええっと……滝谷さんだっけ?」
あまり顔を直視していなかったのでぼんやりとしか思い出せないが、俺を迎えに来た人が確かそんな名前だった筈だ。
……こんな物言いをするという事はラブの知り合いなのだろうか? いや、今にして思えば青海所長もおじさんとか何とか言っていた気もする。
「ふぅ……こっちで何が起きたのかも興味が出てきたよ」
扉を開き、こちらを向いた皆の表情に安堵の色が浮かんでいるのが分かり一気に心が軽くなる……さぁて、何から話を始めようか。




