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第五話 見慣れない温かな朝の一時

「おはよう修吾君、今朝は何にする? 何でも作るぞ」


「う……宇垣(うがき)さん? 何でそこに?」


 慣れない寝床だが、思ったよりもよく眠れた。ラブという存在もあってか目を覚まして自分の家ではない天井を見ても特に気の重さは感じず、これまで碌に朝食をとっていなかった癖に珍しく主張を始めた腹の虫に従って食堂に向かった俺を迎えたのはワイシャツの袖を捲り上げて厨房に立つ宇垣の姿だった。


「雑用は俺の担当だって言っただろう? 設備のメンテとか装備の製作、あとは昨日のように所長のお守り……ああいや、ボディーガードが主な業務だが手が空いてる時はこうやって厨房に立ったりもしてるのさ」


「そ、そうなんですか……それはまた、大変そうですね」


 まるで便利屋ですね、もしかして青海(あおみ)所長に何か弱みでも握られているんですか?……そんな言葉が頭を掠めたが一瞬で喉の奥へと押し込み、曖昧な笑みで返答した。


「まぁなぁ、でも料理も機械いじりも趣味の延長線上みたいなものだから苦じゃあないさ。だから、遠慮なく食べたい物を言ってくれて構わないぞ」


「そういうことなら……ええと」


 昨日は厨房に宇垣はおらず、既に取り分けられてテーブルに置いてあったものを食べたのでメニューの事はすっかり頭から抜け落ちていた……揚げ物はさすがに重いか、かといって朝からラーメンというのも……。


「……あ、じゃあこのシーフードカレーでお願いします」


「はいよ、持って行ってやるから好きな席で待ってな」


 お礼を言ってカウンターから離れた適当な席に腰掛け、手持ち無沙汰になった俺はテーブルの上に置かれたメニュー表をぼんやりと眺めていた、不思議な感覚だ……一晩経って昨日の出来事が夢じゃない事は分かっている筈なのに、どこかフワフワとした感じがする。


『昨日はあまり朝食はとらないと言っていたと記憶していますが……今朝はどうしたんですか?』


「俺も分からないんだ、今までみたいに仕事場に向かう時間の事とかを考えなくてもいいから……かも?」


『そうですか……ですがきちんと食事をとる事はとても良い事だと思います、それにカレーは栄養も豊富で吸収しやすく発汗作用のあるスパイスなどは……』


 それまで肩に乗って静かにしていたと思ったラブが急にカレーについて語り出すので饒舌な彼女の話を聞きながらつい笑ってしまった、正直話の内容など半分も聞いていなかったが俺が今緊張で震えていないのは間違いなく彼女のお陰だろう。


「驚きました、随分仲良くなったんですね……ここ、座っても?」


「え? あ、もちろんです。どうぞ」


 何故俺が笑ったのか理由を聞き出そうと周りを飛び回るラブの質問を受け流していたせいで青海がすぐ近くに居る事に全く気がつかなかった、ぐいぐいと髪を引っ張るラブを無視して向かいの席を手で指し示すと一つ頷いてそこに青海が腰掛けた。


『修吾はとても良い方ですよ、良い意味で手がかかって一晩中眺めていても飽きませんし……昨晩なんて、彼が蹴り飛ばした掛け布団を二度も直したんですよ』


「ふふっ、それは確かに目が離せませんね」


『ええ、本当に。お世話の甲斐があるというものです!』


 約束したとはいえ、いつラブが昨日俺がこぼした弱音を青海に言ってしまわないかとハラハラしていたがもはや問題はそこだけではないようだ、俺と青海の間をフワフワと飛び回りながら自慢げに話すラブを止めたいが今俺が何を言ってもドツボに嵌るだけだと思うと下手な事は言えず、頼むから黙ってくれとラブを苦々しく睨みつける事しか出来ない。


「お待たせ修吾君、それからこっちが所長のだ」


 喋り続けるラブの言葉を遮ったのは目の前に置かれた温かな湯気を上げるカレー皿だった、シーフードカレーと聞いて誰もが思い浮かべる通り海老やイカなどがふんだんに使われており、一目でかなりボリュームがあるのが見てとれたが何よりも目に留まったのは更に添えられた二本の串焼きだった。


「うわ、すご……宇垣さん、この串焼きは……これも魚ですか?」


「ん? ああ、それはアンコウを揚げ焼きにしたものだ、美味いぞ」


「えっ……アンコウって、あのアンコウですか?」


 驚いて目を白黒させているとそんな俺の反応が余程面白かったのか宇垣と青海に声を上げて笑われてしまった……笑われるのは癪だが、アンコウなんてテレビでは見た事あるが実際に食べた記憶なんて無い。ましてや漁業が極端に制限されたこの時代に深海魚なんて、他で食べようとすれば一体いくらかかるのか想像もつかない。


「深海魚の研究所ですからね、研究用のサンプルという名目で定期的に入ってくるのですが飼育にも限界がありまして……弱ってしまった子や死んでしまった子をただゴミとして処分するのも心苦しいので、こうして調理する事にしているんですよ」


「なるほど……いただきます」


 研究の為に捕獲され、研究所で死ぬ……その事を考えるとかわいそうにも思えてくるが、だからといって俺に何が出来る訳でもない。人間のエゴだ何だという話は遥か隅に置いておき、今は食欲の湧き上がる香りに誘われるがままにスプーンを手に取り、避ける方が難しい具ごと一口分を掬い上げると一気に頬張る。


「んっ……うわ、美味しい!」


 今までに食べた事の無い濃厚さと風味を兼ね備えたそのカレーはごちゃごちゃと考えがちな俺の気持ちを吹き飛ばすには十分すぎる程の美味だった、舌や喉に絡みついて食道の奥に落ちきるまでハッキリと主張し続けるにもかかわらず辛みのお陰か後味はむしろ締まっていて、気がつけば手に持ったスプーンが次を掬い上げていた……アンコウの揚げ焼きも深海魚というものに対して勝手に身が水っぽいというイメージを持っていたが全くそんな事は無く、歯を押し返そうとするほどにしっかりとした弾力を持ち、塩と胡椒のシンプルな味付けがむしろカレーの複雑な味をより引き立たせている。


「宇垣は昔から料理が上手ですからね。それにしても、ふふっ……本当に美味しそうに食べますね」


「あっ……す、すいません」


 思わず夢中になって食べてしまっていた、宇垣がカレーと一緒に置いてくれた冷たい水を流し込み気持ちを落ち着かせようとすると、青海がゆっくりと首を振った。


「いいえ、私も見ていて楽しいのでどうぞ自由に食べてください……宇垣も、そっちの方が嬉しいでしょう?」


「もちろんだ、美味そうに食ってくれた方が作り甲斐があるってもんだしな」


 そう言って隣に座った宇垣が自分の前に置いたのは俺と同じカレーだったがその量は軽く倍近くはありそうな程に大盛だった、ガタイがいいとは思っていたが……やはり食べる量も尋常ではないらしい。


「……分かりました、では遠慮なく」


 豪快に食べ始めた宇垣を横目に俺も食欲のままに食べるのを再開した、そんな俺達を見て青海とラブがクスクスと笑っているような気がしたが、最早気にしない事にする。




「……そういえば結局帆吊(ほつり)さんは来ませんでしたけど、忙しいんですかね?」


 空になったカレー皿を前に膨れたお腹を落ち着けているとふと帆吊の事が気になったので聞いてみる事にした、結局昨日別れたきり今日はまだ会っていない。


「ああ、あの子はいつもこの時間は起きて来ませんよ。今頃はまだベッドの上で布団に包まってるんでしょう」


 体調でも崩してるのかと心配になったがそういう事だったか……ここは一応職場の筈なのに、勝手知ったる家族のような扱いについクスリとしてしまう。


「なるほど……というか帆吊さんもそうですが、宇垣さんとも長いんですか?」


 昨日の一件で青海と帆吊が旧い仲なのはよく分かったが、先程から宇垣が敬語を使わない事も気になっていた。そのせいで目の前の女性がこの研究所の代表である事をいつも忘れてしまいそうになる。


「宇垣は海洋大学での後輩なのでそこまで長いという訳ではありませんが……帆吊さんは実家が近かった事もあり、殆ど物心ついた頃から一緒にいた気がします」


「すごい……! それで今も仲良く一緒の職場って、本当に凄い事だと思いますよ」


『本当ですよね、なのに何を今更恥ずかしがってあだ名呼びを控えているのか……私には理解しかねます』


「べ、別に恥ずかしがっている訳では……! 一応は職場なので、メリハリが大事かと思って……も、もういいでしょう私の事は!」


 大きく首を振って俺とラブの視線を振り切るとそれまでゆっくりと食べていた温かい蕎麦の残りを一気に流し込み、テーブルに備え付けの紙ナプキンで口元を乱暴に拭って立ち上がった。


「十分後に昨日話せなかった説明や補足をしますので片付けたら所長室に来て下さい、道が分からなければラブが教えてくれます……それでは、また後で」


「……もしこの後の青海さんが厳しかったら、全部ラブのせいって事にしていい?」


『一蓮托生ですよ修吾、私と貴方は二人で一人です』


「このタイミングでその良いセリフは聞きたくなかったなぁ……」


 美人の赤く染まった怒り顔もなかなか……と調子に乗った罰だろうか、食堂を後にする青海の後姿を見つめながらほんの少しだけ気が重くなるのを感じ、コップに残った僅かな水を流し込んだ。

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