第四十九話 時に溶ける
『無事で良かったです修吾! 怪我はありませんか? どこか痛いところはありませんか!?』
「もがっ……! ま、待ってラブ……鼻と口を塞ぐのはやめて、ホントに痛いところ無くなっちゃうから……!」
研究所に足を踏み入れた瞬間顔にラブが張り付き、人体に存在する呼吸器を全て塞いだ。もにゅもにゅとした肉厚のゴムのようでありながら温かみもあるこの感触は気持ち良いが、さすがに息はしないとちょっとマズい。
「そーだよー、修吾君が完全な皮膚呼吸を会得して帰って来たならともかく、そうじゃないみたいだしねー?」
「ぷはっ……それはもう人としてのステージをいくつか超えてますよね、便利そうではありますけど」
「……ミミズ人間になるぐらいだったら私は水中で呼吸出来る方がいいですけどね……それより、お元気そうで何よりです」
帆吊にラブを引き剥がしてもらい視界が開けると廊下の奥から青海と宇垣が歩いて来るのが見えた、以前から青海はクールな印象だったが……何だか以前よりも雰囲気が柔らかくなっている気がする。
「お久しぶりです青海さん、お陰様で元気ですけど……何でミミズ人間なんですか?」
「ご存じありませんか? ミミズやヒルは皮膚呼吸で酸素を通過させているんですよ、ちなみに人間も皮膚呼吸は行っていますがその割合は一パーセントにも満たず、呼吸といっても皮膚の表面に酸素をいきわたらせる程度です。他にも……」
「……所長、その話は後にしたらどうだ? こんなところで立ち話もなんだろう」
「……失礼しました。いけませんね、どうにも最近話が長くなりがちになってしまって」
宇垣に窘められ青海が困ったように軽く頭を下げた、話の内容は面白いが今度から話を振るタイミングには気を付けた方が良さそうだ。
「とりあえず……修吾さんには疲れているところ申し訳ありませんが、すぐに帆吊さんとラブの二人による検査を受けてください」
「え? それは構いませんけど……報告が先の方がいいのでは?」
「もちろん報告は聞きます、ですがそれよりもまずは修吾さんの健康状態を確認する事の方が最優先です。帆吊さん、お願いします」
「任せて琴子ちゃん、はーい患者さん一名様ごあんなーい」
伝えたい事はそれこそ山ほどあるのだが有無を言わさず俺の両手を一本ずつ掴む帆吊とラブによって医務室への道を引っ張られていると、背後から再び青海に声を掛けられ足が止まる。
「そういえば修吾さん、明彦おじさ……滝谷さんはどこです? 姿が見えませんが……」
「滝谷……? ああ、あの人なら研究所の入り口まで俺を送った後に取りに行く物があるとか言ってどこかへ向かわれましたよ?」
「取りに行く物……? そうですか……分かりました、引き留めてすみません」
「あ、そーだ琴子ちゃん。報告は所長室に直接送るから、すぐに見られるようにしといてねー?」
「分かりました、待機しておきますね」
俺の手を引っ張りながら帆吊が青海に向けて大きく手を振ると青海もまた小さく手を振って返した、以前であれば所長と呼べと訂正していた筈だが……それどころではないと流しただけだろうか?
「はーい、ちょっとチクッとするからねー」
『私を見てください修吾、そう……次は右に、そして左を見てください』
医務室に入るやいなや診察着に着替えさせられ、簡易的なベッドに寝かされた俺は二人によって様々な検査を次々に受ける事になった、今はというと採血されながら目にライトを当てられている。
「……ラブのその姿って久しぶりに見たよ、水中じゃなくてもなれるんだね」
『ええ、小さい方が小回りが利きますし何かと便利なので気に入ってますが……やはり道具を使うとなれば人型の方が適していますからね』
ライトを棚に戻しながら振り向いたラブがクスリと笑った、プールでのスーツの実験の時に見たラブの人型形態……全身の鮮やかな青色は変わらず、目元も髪を模したヒレによって隠れているので口元でしか表情を判断できないが何度見てもこの姿は美しいと思う。あの海で過ごして様々な外見の深海魚を見た事でいわゆる異形をすっかり見慣れた気でいたが両手足のように器用に操る体から生えた細い触手はともかく、明らかに豊満に膨らんだ胸部などここまでハッキリと女性型を表現した生物はあの海にはおらず耐性がつかなかったのか以前と同じくイマイチ彼女を直視出来ない。
『ほら目を逸らしちゃダメですよ修吾? 私の方を見て、私の手を握ってください』
「手をって……これは何の検査なのさ」
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか……いや、あの悪戯に歪んだ口元を見るに俺の気持ちなどお見通しなのだろう、羞恥に耐えながら握ったラブの手は人肌からざらつきを取り除いたかのような滑らかな手触りをしており、何故か隙間を埋めるように細かく握り返してくる。
『色々です。修吾の体を流れる血流に詰まりなどの異常は無いか、各臓器は正常に動いているか……調べる道具も機材もありますが、修吾だけは私自身の体で調べたかったので』
「っ……そ、そう」
少し逸らした顔の前にわざわざ覗き込むようにラブの顔が現れ、思わず胸が高鳴る。髪の形に似せられたヒレはウネウネと蠢き、妙に艶めかしく思える。
『あ……ふふっ、体の反応は正常なようですね』
嬉しそうに笑い声を漏らすラブに何の事だと首を傾げたが、そういえば今の俺の体の変化は筒抜けなのをすぐに思い出した。思わず手を引っ込めそうになったが、まだ検査が終わってないから駄目だと放してくれない。
「血液に異常なーし、すこーし血中酸素濃度が低いけど誤差の範囲内だねー。ラブ、そっちはー?」
『こちらも特に問題ありません、以前少し高めだった血圧も下がっていますし……むしろ健康になったぐらいです、向こうでの栄養状態が良かったんでしょうか?』
ラブの言葉を受けて深海魚を料理するイサナの姿が目に浮かんだ、ゲテモ……独特な外見の深海魚を食べる事に抵抗があったのは一口目だけで、あの生活の中で口にした料理はどれも美味しかった……今、イサナはどうしているだろうか?
「じゃあ……やっぱり問題があるのはソコだけかぁ」
『そうですね……修吾、ここをどうしたか記憶にありますか?』
「ん、ここって……? 痛っ……!」
ラブの手がほんの少し右肩に触れた瞬間全身に刺すような激痛が走った、反射的に起き上がり左手を肩に乗せるがジクジクとした痛みがいつまでも尾を引いて残っている……何かで怪我でもしたのかと顔をそちらに向けるが、よく見えない。
「はい修吾君、鏡だよ」
「ありがとうございます、怪我をした記憶なんて無いんですけど……っ!?」
帆吊から手鏡を受け取り自分の肩の様子を見て言葉を失った、ほんの一部ではあるが灰色と赤が混じったような気味の悪い色に変色しているではないか!
「これ……どうなってるんですか?」
「んー、そうだねー……はっきり言っちゃうと、完全に壊死してるね」
「は……!? え、壊死って……腐ってるって事ですか?」
『厳密には壊死は細胞などが死亡している状態なので腐敗とは違いますが……放置すれば腐敗菌に感染するのも時間の問題でしょう、今回の場合原因が原因なので一概には言えませんが』
俺の肩を観察した帆吊とラブが頷き合う、どうやら俺の肩は相当に酷い状態のようだ……ラブに宥められながら再びベッドに横になるが、自分の体が壊死しているという経験した事の無い事態に脳がパニックを起こしてしまっている。
「……とにかくすぐに切除するよー、ナノマリナー達が拡大を抑えてる今なら傷口周辺を抉り取るだけで済むだろうし。再生するまではしばらく右腕を動かすのに不便するだろうけど……右肩ごと切断するよりはマシでしょ?」
「あまり修吾を怖がらせるような事は言わないでください、大丈夫ですよ修吾……心配しなくても私達が絶対に助けますからね」
理解が追い付かない、追いつかないが……右腕を失うなんてのは嫌だと何度も頷くとラブがそっと抱き寄せ、自らの胸元に俺の顔を沈ませる。背後で器具を準備しているのであろう金属音が聞こえてきたが……俺には意識を失うその瞬間まで、そちらを見る勇気は無かった。




