第四十八話 帰還者
……寝苦しい、家の薄い布団よりも気に入っていたあのベッドの感触も匂いもしない。
耳をすませば僅かに聞こえるイサナの小さな寝息も聞こえない、何も感じない……ただただ居心地が悪い。
「──っ!」
意識が覚醒し起き上がろうとするが体が上手く動かない、椅子のようなものに座っていたようだが暴れた拍子に落ちてしまい全身を強く床に打ち付ける。
『……落ち着くがいい、私の声が聞こえるか?』
突如頭上から降り注ぐ声にハッとして顔を上げるが、そこにあるのは壁に埋め込まれた無機質なスピーカーだけだった……それにしてもここは何だ、壁や床のみならず天井にまで白い座布団のようなものが埋め込まれた妙な部屋だ。
『もう一度聞く、私の声が聞こえるか? 私の言っている事が理解出来るか?』
心の中で舌打ちする、状況が全く掴めないというのに頭上から降り注ぐ男の声は焦っているのか興奮しているのか考える暇を与えてくれない……トリトンスーツが脱がされていないのは僥倖だが手足に手錠なんかとは比べ物にならないぐらいに頑丈そうな枷、敵かどうかは分からないが少なくとも味方では無さそうだ。
……とにかく今は時間が欲しい、芋虫のようにぎこちなくではあるが頷くと頭上から満足そうな唸り声が聞こえた。
『よろしい、では問いかけを続ける……君は人間か?』
「……は?」
思わず声が出た、何を言ってるんだこの男はと憤慨しかけたが徐々に記憶が今の状況に追いついてきたお陰で何となくではあるが理解出来た。
あの時……マントル海域でエイトに絡みついていた機械は粗雑ではあるが、明らかにエイトを……巨大深海魚を捕えようとしていた。しかし代わりに釣れたのが俺だったものだから声の男は俺が新種の深海魚かどうか疑っているのではないだろうか?……そう理解した瞬間ふつふつと笑いが込み上げてきた。
『……何を笑っている?』
「くく……いやすみません、俺はれっきとした人間ですよ。ほら、ヒレも角も無いでしょう?」
『角……? まぁいい、それより本当に君はただの人間なんだろうな?』
「見ての通り人間ですよ、何なら好きなアニメの話でもしましょうか? それともゲームの方がいいですか?」
『……少し待て』
それからしばらくは俺が動き回っても反応は無かった、動き回って……とは言っても手も足も縛られているので転がる程度しか出来ないが。
とりあえず会話の感覚的にあの男は警察やそういうお堅い職業の人間ではないだろう、それから俺に対する殺意も今のところは無さそうだ……言葉が通じているのは不幸中の幸いだが、それより問題は本当に地上に帰って来てしまったらしいという点だ。
拘束は解いたのでエイトと稚魚たちはきっと無事だろう、備えもしたので観測所も無事だろうがイサナはきっと心配している筈だ、何とか連絡をとれる方法があればいいのだが……そんな事を考えていると頭上のスピーカーから衣擦れのような音が聞こえてきた。
「あのー、とりあえず手足のコレ外して貰えます? 動きにくくて仕方ないんですけど」
『……今はこちらの質問に答えなさい、解放はそれから検討する』
「……はーい」
帆吊の口調を真似て会話の主導権を握れるか試してみたがどうやらこの方法は俺には不向きだったらしい、あの距離が近いようで掴みどころの無い会話術は個人的には尊敬しているのだが……やはり付け焼刃では通用しないか。
『ではまず君は何者だ? 名前は? 何故あそこにいた?』
「……名前は塩見修吾、ま……第六号観測所の観測員です」
矢継ぎ早の質問に少し考えた後に本名と役職を素直に明かした、沈黙を貫く事も考えたが……それでは一向に話が進まないどころか状況が悪化する可能性すらあると考えたからだ。自分の持つ情報に勝手に価値を付けるなとは会社員時代によく言われてきたが……まずは少しずつでも信頼を得る事が最優先だ、それにこの拘束さえどうにかなればスーツの力で脱出も可能かもしれない。
『何……? では君は青海研究所の職員なのか?』
「……青海研究所をご存じなんですか?」
『無論だ、そもそも……いや、今はその話はいいか』
どうやらご同類だったらしい、世の中に有名な研究所は数多くあるが青海研究所の知名度なんて末端も末端……何故ならそもそも世に出るような研究をしていないからだ、今この瞬間も日常を送る一般市民は海が二つある事すら知らないのだから。
マイクを切ったのか再び沈黙が続き……不意に手足の拘束具が音を立てて外れた。
「これは……信用してもらったと理解していいんですかね?」
『ああ、青海研究所にも今頃は連絡がいっている筈だ……もう一つ聞かせて欲しいのだが、私達の鹵獲機を壊したのは君か?』
「あのクレーンみたいなやつの事ですか? それでしたら壊したのは俺で間違いありません、叩き折りました」
『……叩き折った、だと?』
鹵獲……やはりあのクレーンは巨大深海魚を捕える為の兵器で間違い無かったようだ、何の為になどと野暮な事は言うまい……俺が壊した犯人だと分かって怒るかとも思ったが、以外にもスピーカーから聞こえてきたのは喉を鳴らす笑い声だった。
『そうか……君には色々と聞きたい事があるが今はまず療養しなさい、話はそれからだ』
「あ、あの! 一ついいですか?」
『ん……なんだ?』
話を切り上げるような雰囲気を感じたので思わず声を上げた、今得られる情報は出来るだけ得たいと声を上げたはいいが……上手い質問が出てこない。
「あの……貴方の名前を教えてもらえますか? 次に会っても声で判断出来る自信が無いので」
『ああ……私は周防清隆という。この周防研究所の所長を務めている者だが……君にはあの研究所を譲渡した人物、と言った方が分かりやすいかもしれないな?』
「……なるほど、お噂はかねがね」
以前聞いた話だ……青海所長が論文で賞を取った事をきっかけに目をつけ、あの研究所を渡す取引を持ちかけた男……そもそも公開されていない筈の転移地点に何故鹵獲装置とやらを落とせたのか疑問だったが、これで合点がいった。
「やぁ災難だったね修吾君、ともあれまずは無事で良かった。僕が研究所まで君を送るよ」
俺を迎えに来たのは滝谷と名乗る少し胡散臭いオッサンだった、何度思い返しても記憶に無いので警戒していると困ったように笑いながら掲げたマグフォンの映像通話画面には、研究所の皆が映っていた。
どうやら迎えに来たこの男は青海のお父さんの古くからの友人らしい、口を揃えて手が離せず迎えに行けなかった事を詫びる皆に気にしないでと繰り返し返事をしていると最後に画面にラブがべっとりと張り付き、なんだかそんな雰囲気が妙に懐かしくなり思わず吹き出してしまう。
矢継ぎ早に俺を心配する言葉を繰り返すラブを何とか宥めながら周防研究所から出て滝谷の運転する車に乗り込むとすぐにエンジン音が車内に響き渡り、ふと窓の外を眺めると車の速度に合わせてあの海では見られない景色が次々に流れていく。
「噂の修吾君に会えて嬉しいよ、きっと帰ったら休む暇も無く質問攻めに遭うだろうね」
「噂の?……よく分かりませんが、久しぶりに皆に会えるのは嬉しいです。ほんの三週間かそこらなの……に」
その時ふと気になって滝谷に今が何月なのかと問いただすと、俺がイサナと出会ったあの日から約二ヶ月半が経過していた。




