第四十七話 ハングドマン
「くっそ、姿勢が崩される……!」
海に飛び込んだ瞬間から感じた事の無い水の流れに体が軽々と持って行かれ、上手くこのスーツが扱えなかった時のようにグルグルと回転してしまう……まっすぐに吸い込むような水の流れであれば流れに乗るのはそう難しい事では無いが、今回のように不均一な竜巻だとどうしても湾曲した流れになるので全体的な水流がどうしても捉えづらい。
『落ち着いてシューゴ! 速度を上げなくてもかなりの速度で竜巻には近付いて行ってる、ある程度近づくまでは姿勢を制御する事に集中して!』
「で、でものんびりしてたらエイトが……!」
『分かってる、でもそれでタイミングを逃して渦に掴まったら一瞬で持っていかれるんだよ!?』
「っ……! 分かった、速度を少し落として……うおっ!?」
デバイスを操作しようと片手を伸ばした瞬間何かにぶつかり、体が大きく回転する……何事かとぶつかったものを視線で追うと、数匹の深海魚が必死に逃げていくのが見えた……どうやら逃げそびれた深海魚がまだ近くに残っていたようだ。
『どうしたのシューゴ! 大丈夫!?』
「ああ平気だよ、逃げ遅れた深海魚がいたみたいでちょっとぶつかっただけ……」
そこまで考えてハッとする、いきなりだったとはいえあのエイトが竜巻に飲み込まれる等という事があるだろうか? あの謎の機械に掴まった事といい、まだ疑問が残る。
「イサナ! エイトの様子をもう一度確認してくれないか?……何か普段と違う様子は!?」
『ま、待って! 今確認するから……』
話に聞いただけだがイサナによればエイトはレドよりも強い、それにあの島亀から木をもぎ取って無傷で帰って来た……更には放電能力という強力な能力を持ちながら俺に掠めもしないという技量の高さ、それらを持ち合わせながらあんな鉄屑に後れをとる理由なんてそうそうあるものではない……!
『見えた……! 一瞬だったけど、数匹の深海魚の稚魚を抱えてるのが見えたよシューゴ! だから放電出来ないんだ!』
「くっそ……やっぱりかよ!」
思わず音が鳴る程に奥歯を噛み締める……となると先程俺にぶつかったのはエイトが守っている稚魚の親という事か、圧倒的な力の前に逃げ出すというのは決して恥では無いし生物の本能としては至極正しい……だがエイトは強力な生物であるが故にその判断が遅れてしまったのだ。
「あんのお人好しめ……ぜってぇ助けるからそんな紐っきれに負けんじゃないぞ……!」
『シューゴ、そろそろだよ! 準備して!』
「了解……にしても、でっけぇなぁ……!」
狂ったようにかき混ぜられる風と水、海面は勢いのせいか白く泡立ってしまっており四方八方から撒き散らされている水飛沫も合わさって視界が悪い……目の前に立ち塞がる竜巻も、そこから辛うじて体を覗かせるエイトも、何もかもスケールが大きすぎる。
『今だよ、潜行を開始して!』
イサナの合図に合わせて体を捻じり、水中に深く体を沈める……目の前にいるのは化け物と化け物、ただり一つは大事な友達だし一つは所詮意志を持たない自然現象だ……圧倒的ではあるが、絶望的ではない。荒れ狂う海流に合わせて姿勢を整える事にも慣れてきた、あと俺に出来るのは目を閉じてゆっくりと息を吐いて心を静め……イサナの合図だけに集中する事だけだ。
『シューゴ、今!』
その声が耳に届いた瞬間目を大きく開くと同時にデバイスを操作し、スーツの推力を一気に最大にまで引き上げる。あんな化け物相手に小細工など弄するだけ無駄だ……一気に飛び出してエイトの拘束を解き、離脱する!
「……エイトぉぉ!」
大声を張り上げながら海面から飛び出す、想定よりも高くは飛べなかったが……十分だ! エイトの体に巻き付くクレーンのような機械のどこかにでも刺されと射出した二本のアンカー、一本は空を切ったが一本は深く突き刺さり、俺の体は轟音を上げる竜巻の目の前で宙吊りになった。
「……ああそうだよ、助けに来たんだ。そんな顔するなよ……怒ったのか?」
アンカーを巻き取りながら上昇していると頭上から先程までのものとは違う小さな鳴き声が聞こえ、顔を上げるとエイトの四つの瞳が俺の姿を静かに捉えていた。
安堵と心配、そして小さな怒り……複雑な感情の入り混じった視線を受けて尚大きく右腕を上げておちゃらけながらもしっかりとガッツポーズを決めてみせると、呆れたようにエイトが再び小さな鳴き声を漏らす。
『まずはエイトの胸辺りのワイヤーを切ってあげて! それで動きの制限が大分楽になる筈だから!』
「了解、こんなタコ糸なんざすぐに切ってやるからな……!」
そう言って左の太ももに括り付けていたホルダーケースから大きなナイフを一本取り出した、イサナが事前に作っておいてくれた新たな装備……以前俺の髭を剃るのに使った物よりも大きくて鋭い、海鉄製のナイフだ。
エイトの肉に食い込むワイヤーの一本を掴むが、それだけで頑丈そうな事は掴んでいる手から伝わってくる……だが所詮ワイヤーは細い金属の糸を束ねたもの、引き千切るのは難しくとも時間をかけて一本一本を切断するぐらいならば何という事は無い。
時間は無い、だが心が焦りに満たされないようにワイヤーを次々に切断していく……それに合わせてエイトも再びもがき始め、半分程になったワイヤーではエイトを押さえきれなくなったのかナイフで切るよりも早く引き千切れていく。
「よし、いいぞ……このままいけば……うわっ!」
一瞬の気の緩み、切断したワイヤーからすぐに手を離してしまったせいで勢いよく弾けたワイヤーが肩を掠め、鋭い痛みが走る……思わず仰け反ってしまった体は足場代わりにしていたクレーン部分から離れ、荒れ狂う海に向けてゆっくりと落下していく。
『……シューゴ!』
耳に届くイサナの声が随分遅く聞こえる……どうやらあまりの衝撃に脳の処理が追い付いていないらしい、だが僥倖だ……この隙に次の手を考えられる、どうすればいい? どうすれば助かる?……クレーン部分はどうだろう?……ダメだ、ワイヤーを数本切断したせいか安定感を失いかけていて狙いが定まらない。
……段々と景色が加速してきた、もう時間が無い……もっと大きくてアンカーを突き立てやすそうな箇所は……グルグルと思考を巡らせ……これしか無いと狙いが定まった瞬間、俺の心は無力な自分への怒りで満ち溢れた。
「……エイト、ごめん……!」
射出した二本のアンカーの狙いの先にあったのは……いつも俺を持ち上げるあの触手の中の一本だ、一番触れた経験のある箇所だから硬質でない事はよく分かっている……。
想定通り鋭い二本のアンカーは拘束から解放されかけていたエイトの触手を貫き、その痛みからかエイトは今までで一番の大声を上げた。
『シューゴ、無事!? どうなったの!?』
「……エイトにアンカーを突き立てた、すまん……もしエイトを怒らせたら、俺のせいだ」
通信の奥でイサナの息を呑む音が聞こえた、アンカーの巻き取りを開始し恐る恐る顔を上げる……もしあの時見た様な怒りの色に変わっていたとしてもおかしくない、次の瞬間には投げ飛ばされているかもしれない……しかし俺の視界に映ったのはアンカーを突き立てた触手を折り畳み、アンカーが抜けないように握りしめながらこちらを見つめるエイトの姿だった。
『……僕ね、最初にエイトと出会った時に……凄く怖くて、思わず照明弾を撃っちゃったんだ』
「え……」
照明弾と言えば遭難した時に自分の居場所を伝える為に使われるもので武器としてのイメージは無いが撃ち出すのは高温の火の玉だ、殺傷目的で使われる事は殆ど無いが直接当てれば相手に大怪我を負わせる事は出来る。
『照明弾は当たったけど、エイトは怒る素振りも見せずに僕が落ち着くまで静かに待ってくれたんだ。その後空っぽになった銃は食べられちゃったけどね、だから何が言いたいかっていうと……エイトはそのぐらいじゃ怒らないよ、だって……シューゴがエイトの事を助けようとしてる気持ちは痛いほどに伝わってる筈だから』
再びクレーンの上に降り立ち、謝りながら突き刺さったアンカーを触手から引き抜くがエイトは穏やかにこちらを見つめるだけで怒る素振りは見せない……ワイヤーは大分切ったが今のやり取りで時間がもう無い、上を見上げると空中には不自然なクレーンの切れ目が見えている……どうやら空中の転移地点は思ったよりも低いらしい。
……クレーンの大元をへし折るしかない、ワイヤーの大半は切れている今ならエイトへのダメージは最小限に出来る筈だ……だが支えを失った俺が竜巻に飲まれてどうなるかは……分からない、だが悩んでいる時間すら勿体ない。落下の際にナイフを落としてしまったのでアンカーを引っ掻けてバランスをとりつつクレーンの上を移動していく、今度こそ落ちないように慎重にクレーンの関節部分まで辿り着くとアンカーを両手で握り思いっきり振り上げる。
「このっ! このっ! こんのぉ!」
二度、三度と思いっきり関節部分にアンカーを突き立てる、スーツを切り裂くには至っていないが手袋の中で手のひらがズタズタに裂けては治っているのが感覚で分かる……それと同時に、今までに感じた事の無い筋力が両腕に宿っている事も。
「俺の友達を! 離せぇぇ!」
怒号を挙げながら振り下ろした渾身の一撃はとうとう関節部分を破壊し、拘束が完全に解かれたのかエイトが海へと落下していく……それと同時に俺の体も海へと投げ出されるが……宙ぶらりんになったままいつまで経っても落ちない、どういう事かと逆さまになったまま上を見ると俺の右足に切断されたワイヤーが歪に絡みついており、しかもあろう事かそのまま俺を上へと引きずり込もうとしているではないか!
『シューゴ、どうなってるの! ここからじゃよく見えないよ!』
「ワイヤーが足に絡みついて取れないんだ!……くそ、届かない!」
アンカーを闇雲に振り回してみるが絡みつくワイヤーには届かない、そうこうしている内に右足首がずっぷりと空に喰われてその姿を消した。
「足が! 俺の足が!」
『シュ……い……』
痛みは無い、しかしどんどんと消えていく自分の体にパニックになっていると竜巻のせいかイサナの声が途切れ途切れになっていく。
──喚き散らかし、暴れまわり……本当に自分から出たのか疑わしくなるほどの金切り声にも近い悲鳴と共に、突然電源が切れたかのように何もかもが聞こえなくなった。




