第四十話 匂い立ち、咲き誇り
「それで……どうでした?」
「んー? 概ね思った通りだったよぉ、肉の表面はすぐに酸化しちゃったけど細胞数は一向に変化なし……どれもこれもびっくりするぐらいに同じ動きを延々に繰り返してる、ただし皮付きの部分だけね」
「つまり……トリトンスーツにも使われているあの巨大深海魚の皮が時間の流れから内側を守っているって事ですか?……そんな事があり得るなんて、正直に言えば信じがたいですね」
「だよねぇ、殆どオカルトの世界だもん。信じがたいのは私も同じ……でも、今回ばかりは良かったんじゃない?」
「そうですね……って、どこ触ってるんですか!」
所長室の奥にある琴子ちゃんの自室の鏡台に座る彼女が髪を乾かし終えるタイミングで後ろから抱きつくと、何とも可愛らしい悲鳴を上げた。
「えー分かんなーい、ねぇねぇ今私がどこ触ってるか教え……うっ?」
「帆吊さん……貴方が何故ここに呼ばれたのか、まだ分かっていないようですね?」
「ご……ごめんなさい」
昼間にも腹部に感じた固い感触と琴子ちゃんの冷たい声に言葉を詰まらせながらも謝るとすぐに小さな笑い声と共に固い感触が離れた、いつの間にあの時のスタンロッドを取り出したのかと焦っていたが琴子ちゃんの手に握られていたのは……一本のリップだった。
「び、びっくりさせないでよぉ……それにあの時の事については本当に恵ちゃんが独断で調べてたのを聞きだしただけで……!」
「ええ、知っていますよ。宇垣からも同様の報告を受けていますし」
「でしょー? だから私は悪くな……え、知ってるの?」
脊髄反射で答えたはいいものの内容に違和感を感じて顔を琴子ちゃんの方に向けると、ポカンとするわたしの顔が余程面白かったのか吹き出し、声を上げて笑い出してしまった……そんな彼女を見ていると徐々に理解が脳に追いつき、負けないくらいに声を上げて再び琴子ちゃんに迫った。
「ひっどい! 騙されたよぉー……私はこんなにも琴子ちゃんの為に動いてるのにぃ……!」
「ええ、それも知っていますよ」
「……えっ?」
両手をゾンビのように前に突き出し、わざとらしくよろよろと迫っていくと不意に琴子ちゃんの顔から笑みが消え、その視線がまっすぐにわたしの胸を貫いた。思わず動きを止めて宙に投げ出した腕を当ても無くぶらぶらとさせていると琴子ちゃんがその両手を掴み、自らの頬に添えた。
「なーが自分の時間の殆どを私に使ってくれている事も、色々な事を考えてくれている事も知っています……それに、普通とは違う感情を私に抱いている事も」
痛みを感じる程に胸に言葉が突き刺さり、舌がどんどん乾いていくのを感じる……誤魔化したくとも言葉が出ず、目の前の彼女の目や唇を交互に見るのを止められない。
「そ……そーんな魅力的な事言われたら渚ちゃん狼になって、キ……キスしちゃうぞー? なーんて、あっはっはー!」
やっとの思いで琴子ちゃんの頬から手を剥がし、背中を向けてわざとらしく笑ってみせる……今ならまだ誤魔化せる筈だ、普段のスキンシップだけでも私が彼女に入れ込んでいる事はバレバレだろうが今ならまだスキンシップの激しい女同士の友情という形に出来る筈だ、それでいい……筈だ。
「すればいいじゃないですか、私が一度だってなーを拒絶した事がありますか?」
再び胸が高鳴り、心臓の早鐘に合わせて体が震える。
質の悪いロボットのようにギシギシという音を全身に響かせながら振り向くと、琴子ちゃんは依然鏡台の椅子に座ったままこちらを見つめている、怒りでもなく軽蔑でもなく……ただただ静かにこちらを見つめるその瞳の前では、私の心の奥底まで透けて見られているかのような気分になってしまう。
「だ、だって私が据え膳とか言った時は嫌がったのに……!」
「……貴方、それでもし私が頷いたらそれはそれで嫌でしょう? なーはそんな私で本当にいいんですか?」
「それは……きゃっ……!」
目を細めてジトリと私を見つめながらゆっくりと迫ってくる琴子ちゃんに一歩、また一歩と後ろに下がると背後にあったベッドに気付かずに躓き、そのまま倒れ込んでしまった。慌てて腕を突いて体を起こそうとするが寸前で胸の中央に琴子ちゃんの手がそっと置かれ、たったそれだけの事で私の体は息をする事すら忘れてしまったかのようにピクリとも動かせなくなってしまう。
「どうしたんですか? 普段あれほど饒舌な貴方が今は随分と大人しいですね……いつもは何かにつけて抱き着こうとするのに、少し反撃されたらされるがままじゃないですか……ホント、なーは少し……いいえ、かなりヘタレなところがありますよね」
「こ、琴子ちゃ……」
胸に置かれた手にほんの少し力が込められただけで私の体はあっさりとベッドに沈みこみ、無抵抗な腰元を挟み込むように琴子ちゃんが跨り、そのまま包み込むように琴子ちゃんの体が覆い被さった……耳元に彼女の吐息がかかり、思わず両脚を擦り合わせてのぼせそうな気持ちを必死にこらえる。
「貴方が勇気を振り絞るのをいつまでも待つつもりでしたが……どうやら私の方が先に限界みたいです、まさかとは思いますけど……本気で貴方の想いが一方通行なものだと思ってた訳じゃないですよね?」
息が苦しい……張り裂けそうな胸の鼓動が全身に鳴り響き、空気を吸っても吸っても肺が満たされている気がしない。
「……これでも色々考えたんですよ? 最初は貴方を傷付けず、且つ友人としての関係も壊さない方法が無いか必死に考えて考えて……でもある時ふと思ったんです、どうして私は断る方向で考えているんだろう……って。それから今度は断る理由を探してみて……どうなったと思います?」
「わ、分かんないよ琴子ちゃん……もう私、よく分かんなくなっちゃってる……!」
耳元でゆっくりと囁かれる琴子ちゃんの声に私の頭はすっかり蕩けてしまっていた。下腹部は痛いほどに脈打ち……きっと今の私の顔は、とてもじゃないが他人に見せられたものではない状態になっているのが自分でも分かる。
「そんな理由なんて初めから無かったんですよ、そして気が付けば……私の中の最も深いところに、貴方がいる事に気が付いたんです」
「え……それ……って?」
私の唇に琴子ちゃんの指が乗り、爪で弄ばれている……くすぐったい、気持ちいい。
今までに嗅いだ事の無いくらい濃い彼女の香りに頭がくらくらする……気持ちいい、もっと全身で私に乗って欲しい……苦しくてもいいから、苦しくして欲しいから。
「──大好きですよ、なー……愛しています」
「っ……!」
私の中に燻っていた大きな気持ちを縛っていた紐が一斉に切れる音がした。恥ずかしくて言えなかった事、拒絶されるのが怖くて言えなかった事……いつもいつも中途半端な自分に嫌気がさしていた気持ち……気が付けば逆に琴子ちゃんを押し倒し、今度は私が彼女に覆い被さっていた。
「い……いい、いいんだよ……ね? だって琴子ちゃんも好きって言ってくれたし……我慢とか、もうしなくても……!」
自分でも信じられない程に息が荒くなっているのが分かる、だが止められない……押し倒されながらも笑みを浮かべる彼女の胸元に手を伸ばし、寝間着のボタンを外そうとすると不意に私の腕が掴まれた。
「あっ……ご、ごめん琴子ちゃん……! お願い、ごめんなさい許し……んっ……!?」
ただ手を掴まれただけなのに拒絶されたと思い、一瞬で膨らんだ不安を謝罪という形で一気に吐き出そうとすると言葉を紡ぎ切る前に押し当てられた、柔らかい感触によって口が塞がれた。
「ん……映画とかで見た事はありますけど、やはり上手には出来ないものですね……ですが、これで少しは落ち着きましたか?」
「……ちゅー……した?」
「ふふ……なんですかその可愛い言い方は? はい、ちゅーしましたよ」
自分の唇を押さえながらポツリと呟くとクスクスと笑いながら琴子ちゃんが頷く。何度も夢見た事だった、しかし叶ってしまえば実にあっさりとしており……すぐに乾き始めた唇の感触にどうしようもなく寂しくなってくる。
「……もっかい」
「ああもうほら待ってください、貴方の抱える欲望はぜーんぶ私が受け止めますけど……その前に、ちゃんと貴方の言葉で私をどう思ってるか聞かせてくれますか?」
「あ……えと、その……す、好き……」
「はい……それだけですか?」
ここまできて何を恥ずかしがっているのか、何を躊躇っているのか……頭の中に浮かぶ言葉は無限にあれど一向に動かない唇に焦れて、苛立っているといつの間にか私の寝間着替わりに着ているルームウェアの下に入り込んだ琴子ちゃんの両手が体の至る所に触れ十本の指が、彼女の桜貝のような薄い爪が、縦横無尽に這い回り始めたではないか!
「こ、琴子ちゃん!? くすぐった……ひぅ!?」
「ふふっ……なーはここが弱いんですか? これは良い事を知りました……他にも貴方の事、私に教えてくれませんか? 私は貴方の事なら何でも知りたいんです」
変な声が漏れ、反射的に涙目になりながら自らの指を咥えて羞恥に耐える私を見る琴子ちゃんの視線からは私が最も恐れている感情は欠片も見受けられなかった……好かれている、私は間違いなく愛されている。そう確信するとこれまで固く結ばれていた唇がそっと開き、今度は溢れ出す言葉が止まらない。
「あ……好き、大好き。ずっと見てたい、ずっと傍にいたいずっと傍にいて欲しい……私に触れて欲しい私を嫌わないで欲しい、私だけの琴子ちゃんになって欲しい……!」
「……はい、私は貴方だけのものですよ。その代わり……貴方も私だけのものですけどね」
これまで隠してきた欲望を溢れさせながら震える手を伸ばすとその手に琴子ちゃんの指が絡み、抱き寄せてくれた……もう我慢なんて出来る筈もなく少し乱暴だったかもしれない、と隣で眠る琴子ちゃんを見ながら眠れない夜を脳内反省会を繰り返して過ごす事となった。




