第三十九話 解体・解体・解体!
「信っじられない! 巨大深海魚の痕跡どころか巨大深海魚そのものがいて未だに研究が全っ然進んでないなんて!」
青海深海研究所の一室に私の怒声が響き渡る、向かいには困ったように笑う滝谷……普段なら割って入ってくる恵ちゃんも今回ばかりはと腕を組んだ姿勢のまま何も言わず、傍に立っている。
「いやぁ……それは面目ないと思ってるよ? でも僕達にも色々事情ってやつがあってね? なかなか自分のやりたい事が出来るとは限らないんだよ」
「でもそれってご自分の研究所を持たれないからですよねぇ? 琴子ちゃんは異例にしても滝谷さんは仮にも博士なんですし、やりたい研究をやろうと思えば出来た筈ですよねぇ?」
「それはっ……!……いや、君の言う通りだね。誠一郎の元で働き続け、いざ僕が上の立場になったら義理を返すという名目で色々な研究所を右往左往……いいように使われているのは分かっていたつもりだったんだけどね」
一歩、また一歩と詰めよると困ったように頭を掻きながら下を向く滝谷を見て小さなため息が漏れてしまった、本当ならもっと文句を言ってやりたかったが……こうも素直に謝られては言葉が続かないというものだ。
「それで帆吊……何から手をつける?」
「問題はそこ、ホントどこから始めたらいいのよこれー……」
恵ちゃんの言葉に振り向くと、そこには大型の深海魚でも乗せられるように大きめに作った解剖台の上でもはみ出す程に大きなドス黒い肉の塊……殆ど化け物とはいえ巨大『深海魚』と言うからには魚肉に分類されるのだろうが、目の前に佇むそれをいくら眺めていても一向に食欲は湧かない。
「なぁ……ここまできてなんだけど、本当に解剖する気かい? 君達の目の前にあるそれは希少も希少な逸品なんだよ? 適切なところに売り込めばとんでもない額になろうってもんだ、上手く使えば深海研究の権威として居座る事だって出来るだろうに」
「滝谷さん……今はこの肉塊をどうするか考えているので、手伝わないなら黙っているか琴子ちゃんのいる待機所に行ってくれますか?」
「……たくましいねぇ君達は、はいはい分かったよもう何も言わない。それじゃあ僕は琴子君のところにいるから、お手柔らかに頼むよ?」
返事をせず、再び振り向いて意味深に笑ってみせると今度は滝谷が大きなため息をつく番だった。
今私達がいるのは勝手知ったる私のフィールド……捕獲した深海魚の細胞を培養したり、時には死んでしまった深海魚を解剖したりもする個人的な趣味も兼ねた専用の研究室だ。
意外と知られていない事だが既存の……つまりは普通の深海に棲む深海魚すらその生態や特性がハッキリ分かっていないものは多い、本来は琴子ちゃんや滝谷のような本職の専門家がこの巨大深海魚の肉の解剖を担当するべきなのだが、この異例中の異例の更に異例なこの肉に未知の毒が含まれていて二人共が倒れるような事態になっては今後に関わるので何とか説き伏せて部屋の隅にある強化ガラスに守られた見学用の小部屋に移動し、カメラでこっちの様子を見て指示を出す事にしてもらっている。
「さぁて、始めるよ恵ちゃん。とりあえず触った感じは……うげ、なにこれぇ気持ち悪ぅ」
薄いゴム手袋越しに肉塊に触れてみると表面の皮は固いがそのすぐ下にはコラーゲン質なブヨブヨとした何かが詰まっており、お世辞にも良い感触だとは言えない。
「その気持ち悪い物質がクッションになってとんでもない耐久性を実現していたみたいだな、俺達の使った皮や鱗からは採取できなかった血液が少量漏れ出していたから調べてみたんだが……血中にクロムに似た物質が多分に含まれていた」
「クロム? クロムって……あのサプリメントの?」
「ああ、どちらかと言えば毒性の無い三価クロムに近い性質を持っているな。三価クロムは有機ヒ素と同じく自然界に多く存在している毒性の薄い物質だが、あくまでもそれに近いってだけでそのままって訳じゃない……もしかしたらコイツが生きてた頃は血中で毒性の高い六価クロムやもっと別の猛毒に変化させる事も出来たのかもな? 長い尻尾の先には大きなトゲもあったようだし、サソリみたいな戦い方を得意としていたのかもしれない」
「はー……図体だけでも潜水艦より大きいのに、わざわざ毒を持つ必要なんてあるってのー?」
「さぁな、修吾君のメッセージを見た限り最低でもあのサイズの巨大深海魚があと二匹はいるんだろ? ならもっといたっておかしくない……俺達からすりゃ過剰な武装でも、向こうで生き残るためには必須だったのかもな」
「やだやだ、怪獣戦争になんて巻き込まないでよねぇーっと……そろそろ本格的に切り始めるよ。恵ちゃん、そこのナイフ取って」
この肉塊を解体するにあたって研究所内のあらゆる刃物や切断に役立ちそうなものを用意したが……果たしてどこまで通用するのやら。
「……一応言っておくが無理に突き立てようとするなよ? 死んで時間も経っているし耐久力は落ちているだろうが、それでもお前の腕力程度じゃ弾かれて怪我するのがオチだぞ」
「わーかってますっての! ほら、さっさと寄越す!」
「はいはい……」
手をひらひらと振りながら要求すると深くため息をついた恵ちゃんから分厚い刃をもつナイフが手渡された、ずっしりと重く手に馴染むとは言い難いが切れ味は良さそうだ。
『帆吊さん、何があるか分かりませんので……十分に気を付けてくださいね』
「分かってるよ琴子ちゃーん! 頑張るから見ててねー!」
『な、ナイフを持ったままふざけない!』
声が聞こえた瞬間ぐるりと振り返り小部屋に向けて大きく手を振って返事をすると、琴子ちゃんがため息をついているのが見えた。ちなみにラブは本人の希望で修吾君からのメッセージの受信に備えて別の部屋で待機している、とはいえこの部屋のカメラを通して見えてる筈だが反応が無いという事は彼の方に重点的にメモリを割いているようだ。
「さぁーって……その中、見せてもらいましょーかぁ?」
まずは普通に刃を皮に当てて何度か前後させてみるが……傷一つついていない、続いて先端を押し込むように力を込めるが刃先が少し沈んだ程度で裂ける様子は微塵も無い。
「くぬぅ……恵ちゃん、次!」
その後も糸ノコや医療用のメス、果てはマイナスドライバーや魚の神経締めに使うピックなどとにかく鋭利なものを次々に試してみるが、全て固い皮と衝撃を飲み込む皮下のコラーゲン状の物体に阻まれほんの先端すら刺さる事はなかった。
「はぁ……はぁ……もう、なんっなのコイツ……だんだん腹立ってきたんだけど……!」
苛立った末に力任せに肉塊に向けてビンタするが勿論効果がある筈もなく、わたしの手がじんわりと痛むだけだった……そんな私を見かねたのか、恵ちゃんが横に移動するよう手で指示を出しているのが見えた。
「……仮にこいつで切れても細胞を殺してしまいそうで躊躇ってたんだが、ここまでの耐久性となると仕方ないな……」
「恵ちゃんそれってまさか……フロストカッター? 何でそんなの持ってるの!?」
恵ちゃんが持って来たゴツい道具箱のようなところから取り出したのはフロストカッターだった、大きなダマスカス製の回転ノコギリと刃の脇には二つの噴出口のついたこれまた大きなタンクが備え付けられている……タンクの中には液体窒素が入っており、対象を凍らせながら切り裂く事が出来るという何とも凶悪な解体道具だ。
「緊急時用という名目で……俺の趣味で買った、パイプの切断などに使おうと思ってたんだが……初出動がまさか巨大深海魚の肉を切る為とは」
『それについては後でお話がありますが……帆吊さん、私はああいうのには明るくないのですが……どうなのですか?』
「純粋な切れ味だけなら他にいくらでも鋭い道具はあるけど、あれの刃にはダマスカス鋼っていうとにかく硬くて丈夫な材質が使われてるから刃こぼれの心配はまず無いと思うし、凍らせてしまえばあのブヨブヨした表皮にも対抗できる……はず!」
『……なるほど、つまり帆吊さんの判断としては?』
「もちろんGOだよ恵ちゃん! ぶった切っちゃえ!」
安全の為にゴーグルを装着した恵ちゃんがフロストカッターを起動させるとけたたましい駆動音が部屋中に響き渡った、思わず両手で耳を塞いでしまう程の轟音だが何がそんなに嬉しいのか恵ちゃんの表情には恍惚とした笑みが広がっている。
やがて液体窒素を吹きつけながら回転する刃が深海魚の肉に迫り……双方が触れ合った瞬間激しく火花が飛び散った!
「ひっ……!」
驚いた私は数歩後退ってしまったが、恵ちゃんはぐんぐんと刃を肉に押し込んでいき……突如空気が破裂したかのような音と共に肉塊が大きく左右に裂けた!
「……ふぅ、帆吊……これを見てみろ、お前の言った通りだった」
フロストカッターを止め、ゴーグルを外しながら大きく息を漏らした恵ちゃんの指差す先を覗き込み……思わず片手を固く握りしめガッツポーズを決めて小部屋にいる琴子ちゃんに見せつける。
「やったよ琴子ちゃん! これで修吾君を無事に戻す算段が立てられる!」
私の報告を聞いた琴子ちゃんも滝谷も嬉しそうに笑っている、胸が躍るような気持ちを抑えながらもう一度裂けた肉塊を覗き込むと……そこには薄いピンク色の肉が広がっていた。
修吾君を地上に戻す際に一番懸念している事……それは紛れもなく地上とマントル海域の間で起きている時間のズレだ、急激な老化や逆行はどちらが起こったとしても肉体に計り知れないダメージを負う事になるが……ここで一つの疑問が浮かぶ、では何故この巨大深海魚は地上に現れてなお暴れ続ける事が出来たのだろうかという点と……何故突然姿を消したのかという点だ。
そのどちらもこの肉塊が答えをくれた……この巨大深海魚のもつ驚異的な耐久性と再生能力は私達の既に知るところだが確定的な弱点だけが分からなかった、それ故に踏ん切りがつかなかったがこれでハッキリとした。
「みんな見て……もう酸化が始まってる」
肉塊の切り口を指差すと恵ちゃんが少し顔を寄せ……納得したように頷いた、私の指差した先……綺麗なピンク色だった肉が見る見る表皮のようなドス黒い色へと変色していっている。
「間違いない……巨大深海魚の死因は地上の空気、決して時間のズレによるダメージじゃない! それどころか肉には未だに老化の兆候が見られないって事は……コイツの皮と鱗で出来たトリトンスーツを着た状態なら、少なくとも修吾君だけは無事に帰す事が出来るよ!」




