第三十八話 答えはたった一言シンプルに
最初にナイフが肌に触れた瞬間こそ少しビクリとしてしまったがナイフから伝わるイサナの体温を感じた辺りからは再び体から力が抜け、施術台の上に置かれた枕代わりのクッションに頭を沈めた。
イサナの細い指が軽く俺の顔を押さえ、顎をなぞる様に刃が通り抜けていき……ジェルの取れた肌に空気が触れ、少しひんやりとする。
「……上手いじゃないか、ひょっとして同じような事をした経験があるとか?」
「んー?……あるって言ったら嫉妬してくれる?」
思わず押し黙ると、ナイフについたジェルや毛を拭う為に乾いたタオルで拭きながらケラケラと笑われてしまった。
「ある訳無いでしょ、こんなの魚を捌くやり方の応用みたいなものだし……あとはまぁ、自分の髭を剃る事に憧れてた時期があったからかな?」
「髭剃りに?……そんなにいいか? 面倒なだけだぞこれ」
「それはシューゴがもう経験してるからだよ、僕はこんな体になる前から男らしさみたいなものが無くて……背も小さいでしょ? 運動を始めても続くとは思えないし、ならせめて髭の一つでも生えればと思ってたんだけど……それも叶わなくなっちゃったし」
「イサナ……」
「ああでも今はこうなって良かったと思ってるよ? シューゴのをしてあげるのも何だか楽しいし、ほら……続き、やるから横になって?」
何か声を掛けるべきかと起き上がったが慌てた様子で否定するので再びゆっくりと横になると、剃り残しの確認の為か前屈みになったイサナの細い指が顎を撫で……何か気になるところがあったのか薄くジェルを塗られる。
「そういえば……この海で過ごすと性別が曖昧になるって事はさ、俺にもその内そういう変化が起きるのかな?」
「んー……多分だけど、シューゴには起きないんじゃないかなって僕は思うよ?」
「そうなのか?……何でそう思うんだ?」
「……あー……え、っとね」
妙にハッキリと言い切るので疑問に思い追及するとイサナの手が止まり、少し恥ずかしそうに考え込んでしまった。辺りを見回しながら言葉を選んでいるようにも見える。
「その……前にも言ったよね? エイトの性別が曖昧……というか相手に会わせて変化させる事が出来るって話……覚えてる?」
「ああ、覚えてるけど……それが?」
「ん……だからね? エイトはまだ番となる相手がいないから両性、または無性別なんだけど……僕はその、シューゴがいる……でしょ?」
「……あ」
ようやくイサナが言葉を濁した理由が分かり、視線を上げると恥ずかしそうに顔を逸らされてしまった。通りで俺には変化が起きないと言った訳だ……性別の変化は結局のところ繁殖、つまりは種の存続の為なのだから俺まで女性化しては二人で相手を探す羽目になってしまう。
「な、るほど……よし、理解したからもう言わなくていいぞ……すまん」
「ううん、こういうの恥ずかしがる話題じゃない筈なんだけどね……あはは」
「よし……こんなものかな、どう?」
「おお、随分すっきりとしたよ!……顎が寒い!」
僅かに残ったジェルをタオルで拭き取ると顎の違和感が消え自分でも驚くぐらいにさっぱりとした、ふざけて両手で顎を覆うとイサナが吹き出したので俺も一緒になって吹き出してしまう。
「なぁイサナ? さっきの話だけど……このままここに住んでたら最終的にイサナは完全に女になるのかな?」
「どうなのかな……でも僕が思うに体の変化はこれ以上はあんまり進まない気がするよ、何となくだけどね」
少し考えた後に自分の胸元を押さえながらイサナがポツリと呟いた、科学的でも理論的でもなく自分だけに感じる何かがイサナの中にあるのだろう……もちろんそれを追求しようとも、無粋にも調べてみようなどとは微塵も思わない。
「最初は凄く怖かったよ……だって理由も分からず体も、肌の質感や考え方まで少しずつ変わっていくのが分かって……まるで自分が自分じゃなくなるみたいだった、何日もベッドから殆ど出られない時期もあったよ……自分の体が見たくなくて何枚か鏡を割っちゃったし」
その当時を思い出したのか、体を隠すように自らの片腕を掴むイサナを見て俺はなんて事を気楽に聞いてしまったのかと後悔せずにはいられなかった。人間誰しも大小はあれど自分のどこかにコンプレックスを抱えているものだが、しかしその点を除けば言葉では何とでも言えるが本能的に強い愛着を持っているのもまた事実だろう……そんな長年連れ添った自らの肉体が理由も分からず理解も超えた範疇で変化して行く事に恐怖を覚えない筈が無い、ましてや医者もいないこんな海のど真ん中で一人孤独に……ともなれば猶更だ。
……人の問題においては時間が解決してくれるという言葉があるが、厳密にはそれは問題が解決したわけじゃない。自らが置かれた状況や環境で起きる苦痛や不安や苦悩に対して鈍くなり、麻痺しているだけなのだから……そんなものを本来、解決などとは言わない。
「でも……シューゴがいてくれるならいっそ女の人の体になった方が良かったかな、シューゴだってどうせならその方がいいよね? 今は僕達だけだから良いけど、もし地上に帰るってなったら……ほら、色々あるでしょ? だったら……わっ」
気が付けばイサナを抱き締めていた、勢いよく立ち上がったせいで近くにあった器具を床に落としてしまったらしく耳障りな金属音が静かな室内に刺すように耳に響く。
「……シューゴに抱き締められるのは好き、でもここにいる時だけにした方がいいよ……? 男が好きだとか、色々からかわれちゃうだろうし。僕が言われるのはいいけど……シューゴが少しでも傷つくのは、僕は嫌だな」
「……まぁ確かにイサナとこうなった今でも、男が好きかって聞かれたら俺は絶対に否定すると思う」
「っ……だよね、うん……それでいいと思う。で、でもほら……触ってみて? 胸とかはあんまり膨らまなかったけど、僕の体には柔らかいところが他にも色々あるよ? 二人きりの時なら、全部シューゴの好きにしていいから……」
自分でも何を言っているのか分かっていないのだろう、慌てた様子で俺の手を自らのシャツの下に招き入れ……指先が触れた肌は確かに明らかに男性のものとは違って柔らかく、少し押し込むだけで俺の指を受け入れているのが分かる。
「ね? だから……しゅ、シューゴ……? 顔がこわ……んっ」
こんな時にどう言葉をかければいいかなんて知らない、どう慰めたらいいのかなんて分からない。
言葉にならず胸で渦巻く感情を抱えたままじりじりとイサナに迫り、不安な感情が次々に漏れ出すその唇に自らの唇を押し当てると、俺の胸に添えられていたイサナの両手がそのまま背中へと回っていった。
「……俺は、俺はイサナが好きなだけなんだよ。同性愛とか、イサナの考えてる複雑な理由とか全然分からないけど……男とか女とかそういうんじゃなく、単にイサナが好きだってだけの理由じゃ駄目なのか?」
「だ……めとかじゃ、ないけど……だって僕はこれからどっちになるか分からないし、それにもっと言うならもう僕が人間なのかどうかすら……」
「イサナが深海魚になるかもしれないって?……いやこの場合は人魚、それとも半魚人か? ああもうどっちでもいいわ! 人魚だったとしても構うもんか、それにさっきから色々言ってるけど……イサナの方こそ、一歩引いてるんじゃないのか?」
「っ!……そ、れは」
イサナの青く綺麗な瞳が大きく見開かれ俺の姿を捉える、言葉が続かないのか黙って立ち尽くすイサナの手を軽く握るとビクリと小さく跳ねた。
「何かにつけて普通はとか常識的に……とか色々な人が口を揃えて言うけどさ、知ってるか? 普通って凄い難しいんだぞ? 物凄い数の分母の中で平均的な箇所を決めてそこを普通だの常識だのって言うけどな、その時点でまず普通じゃない人がどれだけいると思う? 俺は考えるだけでも怖いからそれ以上は考えないようにしてる、誰もが求める普通になれる気なんてこれっぽっちもしないからな」
次々に溢れる言葉を慰めのつもりで言ったのだが、ポカンとした顔でこちらを見つめるイサナを見るに思ったほどは通じてないようだ。やはり考え無しに喋るのは不味かったか……一旦言葉を区切り小さく唸りながら考えをまとめようとするが答えが見つからない、小学生の頃からなんとなく分かっていたが……どうにも俺は人に考えを伝えるのが酷く苦手らしい。
「あー……だから、なんだ? 普通ってのは凄く難しい事で、今の時点で俺もイサナもこの海だって普通じゃないから……ここから更に普通じゃない事をしても何も変わらないだろって事が言いたくて、あー……俺の言いたい事、分かるか?」
「……ふふっ」
頭を掻き、毛穴の違和感すらなくなった顎をさすりながら必死に説明していると俯いていたイサナから小さな笑い声が漏れた……その声に思わず動きを止め、イサナの顔を覗き込むように顔を下げると垂れ下がった青いカーテンの隙間から、二つの青い瞳がしっかりとこちらを見つめていた。
「シューゴの言う通りだね……怖がってたのは僕の方だったみたい、踏み込んだのは僕からなのにね?……つまりシューゴが言いたいのは、もっと単純でいいって事だよね?」
「あ、ああ! そういう事……おおぅ」
分かってくれたかと両手に握りこぶしを作りながら返事をすると目の前で膝立ちになったイサナが俺のシャツの中に両手を滑り込ませ、捲れ上がったシャツの隙間から腹部に唇を押し当てた……ひんやりとしたイサナの腕と少し湿った柔らかい感触に思わず背筋がゾクリとなり、我慢出来る筈も無く体を震わせてしまう。
「……あったかい。うん、そうだよね……僕はこの体温を手放したくないもん、誰かに盗られるのも絶対に嫌……そういうまっすぐな感情に従っちゃっていいんだよね……」
何か納得したのか一人で数度頷いてから立ち上がったイサナの表情には先程までの不安に揺れる様子は無く、いつもの俺を誘惑し昂らせる魅力がたっぷりと詰まっていた。
「僕はシューゴが好き、シューゴも僕が好き……他には何もいらない、たった一つでただそれだけ……だよね、シューゴ?」
「……ああ、それだけだよ」
すっかり調子を取り戻したのか目を細め、指先で俺の胸元を弄ぶイサナについさっきのしおらしいのも悪くなかったともふんわりと思ったりもしたが、やはり今のイサナが一番イサナらしくて好きだ……再びゆっくりと顔を近付け、唇を重ねようとするとお互いのポケットに入れていたデバイスから同時にブザー音が鳴り響いた。
「……いきなり鳴るとびっくりするなぁ、えーとこれって何の警報だ……?」
「これは……ああ、エイトが来たみたいだね。海鉄はこの前あげたばかりだから多分シューゴに会いに来たんじゃないかな、シューゴが眠ってる時にも何度か来たんだけど相手してあげられなかったからさ……ここは片付けておくから会いに行って安心させてあげてよ」
「分かった……じゃあちょっと行って来るよ!」
高所から着水して気を失ったあの時にエイトが守ってくれていなければ今の俺はいない、となれば元気になった姿を見せてやるのが筋というものだろう……イサナに一言謝って片づけを任せ、一足先に昇降機へと向かうとボタンを押す寸前に背後から声をかけられた、何事かと振り向くとイサナが少し恥ずかしそうにニヤついているではないか。
「エイトには恩もあるから多少の事は許すけど、浮気しちゃダメだからねー?」
「なっ……しないって!」
扉が閉まり、上昇する昇降機の中で壁にもたれかかりながらクールぶって目を閉じてみるが口元のニヤケが止まらない……外が近づいているからか周囲の気温が少し下がり、自分の頬の熱さを嫌でも実感してしまう……その後、ゆっくりと開くドーム型の天井の隙間から元気な俺の姿を見つけたのか嬉しそうに鳴き声を上げるエイトに駆け寄るとあっという間に触手で絡めとられ、宙吊り状態になっているのを遅れてやってきたイサナに見られて笑われてしまったのは言うまでもない。




