第三十七話 ジェリー・ジェル・クリーム
「スーツに巨大深海魚の一部を使ってる!?……ホントに?」
「ああ、まぁ俺も話に聞いただけだけど……わざわざ嘘つく理由も無いし、多分本当だと思う」
「……信じられない。鎧みたいなダイバースーツだとは思ってたけど、それ以上の代物だったなんて」
「だからこそあの島に飲み込まれても助かったんだろうな、酷い目に遭った事は話したろう?……よし、とりあえずはこれでいい。しばらくは不便だろうが我慢しろよ?」
「ん……ありがとうシューゴ」
例の魚のヒレでパックリと切れた傷口を消毒して清潔なガーゼを当て、薄く包帯を巻いただけだが思ったよりも綺麗に出来て良かった……血は既に止まっていたが、傷がすぐに治らないところを見るにイサナの体内にも注入されているであろうナノマリナーは既に殆ど機能していないようだ。
以前地上で帆吊から教えられた事がある、純機械製のナノマリナーは俺に注入された生体のものよりも治癒能力や稼働力に秀でているが生命力は無いので定期的に補充してやらないといずれ体内から殆ど抜け出てしまうらしい、対して生体ナノマリナーは能力的には機械に一歩劣り短時間で極度に消耗すると一時的に休眠状態になるなどの欠点が増える代わりに宿主……つまり俺が生きて栄養を摂っている限り完全に停止する事は無く常に一定量まで自己増殖するので補充も必要無いらしい、そういえば摂取した栄養を分け与えている関係で通常よりも多くの食事が必要になるとも言っていたのだったか?……だがそれだって命が止まる事に比べたら安すぎるデメリットだ。
「もちろん覚えてるよ、砂利のミキサーに高度からの着水……普通のダイバースーツなら間違いなく死んでるよ」
「それも酷い死に方で、な。今も生きてるのは間違いなく俺の体のナノマリナーと……あのスーツのお陰だ」
椅子に座ったまま振り向き、金属で編まれたトルソーに装着された状態で佇むスーツに目を向ける……こうして改めて見るとなんだかスーツから生命力のようなものを感じる気がする、とはいえ今回分かったスーツ自身の再生能力といい耐久性の強化といい……地上ではそんな話は聞いた事が無い事を踏まえると、もしかしたら帆吊達にとっても想定外の現象なのかもしれない。
「……あのスーツに使われてるのってさ、多分レドの一部だよね?」
「ああ、地上に現れたのはレドだしな。詳しい話は聞いてないから分からないけど……あの培養してるエイトの鱗みたいなものを加工したんじゃないか? 軍のミサイルが当たった時とかに取れた皮とかかもしれないな、軽微とはいえダメージはあったみたいだし」
「じゃあ再生能力も自己強化もレドの能力みたいなものだったのかな?……何にでも襲いかかってたのは他の深海魚の能力を取り込もうとしてた、とか?」
「かもしれないな……仮にそうだとするとあのスーツは日々成長するスーツって事になる、とんでもない逸品だとは思ってたが……いやホントにとんでもない一張羅を貰ったもんだな」
「あはは、買おうとすれば目玉が飛び出るなんてものじゃない金額かもね?……でも僕としては安心してシューゴを送り出せるから、嬉しい誤算だけど」
「っ……まぁ、な」
俺の巻いた包帯をもう片方の手で押さえながら目を細めて笑うイサナに思わず胸が高鳴る……あの時、浮島に飲み込まれた時俺は一度死を覚悟した……苦しむぐらいなら終わってもいいと。だが、残されたイサナがどんな表情を浮かべるかを考えるともう二度とそんな考えは持たないだろう……今の俺なら例え這ってでも生きて帰る道を選ぶと心から誓える。
「ん……?」
ふと脳裏に疑問が浮かぶ、そういえば俺の任期の残りは約八ヶ月だが地上との時間のズレを考えるとどうなるんだ?……以前話したように地上では約五倍の時が流れているとすると、残された時間は二ヶ月か三ヶ月足らずという事になるのだろうか……?
「……シューゴ? どうかした?」
「え……? あ、いや……なんでもないよ」
帰りたくない、ここでの生活は好きだし何よりイサナがいる……二人分の回収カプセルが用意できるなら話は別だが研究所の事情を考えると一度は俺だけで帰還する必要があるだろう、今ある情報だけでも十分に価値はあるだろうし観測員の報酬もたんまりと出る筈だ……だがカプセルの投射に必要なのは金銭的な問題だけというわけでも無いだろう、ここへ帰るにしても果たして何ヶ月後になるのか……そんな心の中で悶々と渦巻く不安の種に思わず考え込んでいるとふと俺の顎に何かが触れた、ハッとして顔を上げると先程よりも覗き込むように顔を近付けたイサナが俺の顎に指を這わせていた。
「そういえば……これ、結構伸びてきたんじゃない?」
「なにが……ってああ、髭か。言われていれば確かに……あんまり気にしてなかったな」
自分でも顎を触ってみると確かにまばらに伸びた髭がチクチクと指に当たる。俺は元々髭が濃い方ではないし鏡を見れば本数を数えられる程しか生えない、とはいえここへ来てからずっと放置していたので随分伸び伸びと生え揃ってしまっている、いつもはピンセットで引っこ抜いたり適当に剃刀で剃ったりしているが……。
「……ちなみにここに剃刀とかシェーバーとかは?」
「ふふっ、あると思う?」
クスリと笑ったイサナが俺の手を掴み指先を自分の顎に触れさせると驚く程に滑らかだった、いつまでも触っていたいと思えるその感触に手が離された後も顎の骨に沿って指を這わせたりしていると、くすぐったかったのかイサナは身をよじって小さく息を漏らした。
「もう……触りすぎだよシューゴ」
「わ、悪い……あまりに良い触り心地だったから……」
「ふふ、嘘だよ。シューゴに触られて嫌な訳ないでしょ?……それよりどうしよっか? 刃物といえば包丁かナイフかハサミぐらいだけど……」
「包丁……ナイフか、うーん……」
映画とかであればナイフで髪を切ったり髭を剃るといったワイルドなシーンを見た事はある、あるにはあるが……真似したところで自らの顔をズタズタに切り裂く未来しか見えない、確かに今の俺ならその程度の傷は難なく治せるが……だからといって痛い思いをしたいとは微塵も思わない。
「……いや、別にこのままでも困らないし放っておけばいいんじゃ……」
最後まで言い終わらない内にイサナに手を握られた、笑みを浮かべて爛々と輝くその瞳には子供のような好奇心と……ほんの少しの嗜虐心が浮かんでいた。
「あのー……イサナさん? この台は一体……?」
「元々は深海魚が捕獲出来た時の為に用意した解剖台なんだけどね、結局ここの酸素濃度って地上と大きく変わらないから台に乗せる前にみーんな死んじゃってたんだよ。だからこの台に乗ったのはシューゴが初めて、安心した?」
作業室の奥から大きな台を引っ張り出してきた時には何かと思ったが、余計な事は聞かなければ良かったと酷く後悔している、深海魚を傷付けない為か台の上には体が沈み込むほどの柔らかいマットが敷いてあり背中が痛くなるような事は無いが、代わりに背筋は芯まで冷え切っているのは言うまでもない。
俺が怖がっている事などお見通しの筈だが宥める言葉の一つも口にせずに枕元に立つイサナが取り出したのは一本の小さなナイフだった、刃はよく研がれているのか光を反射してキラリと光っているが手持ちの部分や先端が歪に丸みを帯びた妙な形をしている。
「シューゴ、これ何か分かる?……触ってみて?」
刃部分に気を付けながらナイフを差し出され、何が何だか分からないままにナイフを受け取るとすぐにそのナイフの異質な点に気が付いた……まずハッキリと分かるのは大きさは医療用のメスよりも一回り大きい程度なのに明らかに重い事、そしてしばらく握っていても触れている部分が一向に温まらない点だ。
「なんだこれ……冷たいっていうか、熱を吸われてるみたいな……」
「不思議でしょ? もう少し握ってみて……どう、分かる?」
「分かるって何が……ん?」
何かを感じ視線を落とすと今度はナイフから手に熱が伝わっていくのを感じる事が出来た、最初に持った時に感じたずっしりとした重さも消え、今ではむしろ手に馴染むような気がする。
「なんだこれ……ナイフを持ってる筈なのに、まるでナイフの先端までが俺の手になったみたいな……」
「これが以前僕達が回収した海鉄の持つ性質だよ、エイトや深海魚たちはこれを食べる事で頑丈な鱗とかを手に入れてるんじゃないかな? 海鉄だけでもこの鋭さと頑丈さだもん……これと彼らの体が合わされば、そりゃミサイルだって弾くよね」
「……確かに、それはそれとして……イサナさんはこれからこの海鉄のナイフで俺の髭を剃ろうって?」
「うんっ、シューゴも感じたでしょ? そのナイフの手に馴染む感触、包丁や普通のナイフを使うより安全そうだと思わない?」
言葉を失いながら海鉄のナイフを穴が開く程見つめてみる……が、反論の言葉が見つからない。
ナイフを持てば持つ程分かるがこれが如何に鋭かろうと指先で顎をなぞるのとさほど違いがあるようには思えない、そう思わせるだけの不思議としか言いようの無い安心感がそこにはあった。
「分かった、分かったよ……お手柔らかに頼む」
「ふふっ、任せて?」
小さく響く機械の駆動音以外殆ど音がしない静かな室内、解剖台……もとい施術台の上で改めて俺が横になったのをイサナが確認すると近くの保冷庫の中から一本の瓶を取り出し、適当な平たい容器の中に瓶の中身を注ぎ入れた。
「……それは?」
「本来はクラゲなんかの毒を抜くための塗り薬だよ、ほら……ゼリー状でぬるぬるしてるからジェル代わりにいいかなって」
そう言って容器から薬を少量掬い上げたイサナの手から半透明で半液状の物体が溢れて再び容器へと零れ落ちていた、照明の光を反射してぬらぬらと光るイサナの手が普段よりも蠱惑的に見える。
「さ……それじゃあ、いい?」
返事代わりに頷くとイサナの手が顎や口の周りを這い回りゼリー状の薬が塗られていった。ゼリーから漂うエキゾチックな香りは嗅ぎなれない匂いではあったが決して嫌いな匂いではなく、そのお陰かやや力の入っていた体から段々と力が抜けていくのを感じる。
俺がリラックスしてきたのを感じたのかやがてイサナは海鉄のナイフを手に取ると、鋭く光る刃をそっと俺の肌に当てた。




