第三十六話 進化するスーツ
「ん……くぁぁ……」
大きなあくびをしながらしょぼくれた目を何度か瞬きし、最早見慣れた天井を見つめる……ここには時計が無いので今が何時かなど分からない、一応は仕事という名目で来ているので本来は同じテンポでの生活を意識するべきなのだろうが……そもそもこの海には昼や夜という概念が存在しないので不規則な生活になるのは仕方ないと言えるだろう。
故にどちらかが先に起きて、食事を準備している音でもう一人も目を覚まして目を擦りながら一緒に同じ物を食べ……思考がハッキリしてきた辺りでその日の気分や状況で研究や作業を開始する、大雑把ではあるがそれがここでの生活だ。
「……腹、減ったな」
誰に向ける訳でも無くボソリと呟き小さく悲鳴を上げる腹を押さえる……どうやら今朝のご飯係は俺のようだ、寝癖でボサボサの髪をかき上げながらもう一度大きなあくびをして体を起こし……心臓が跳ねた。
「び……っくりしたぁ、イサナ……いつからそこに?」
「んー……多分十分ぐらい前からかな? シューゴの寝顔見てた」
二段ベッドに掛かった金属製の梯子へと視線を向けるとそこに居たのは嬉しそうにこちらを見つめるイサナだった、楽な姿勢ではないだろうに……まさか、俺が起きるまで本当にずっと見ていたのか?
「そんなもん見て何が面白いんだよ……あぁびっくりした、寿命が縮まったわ」
「ふふ……それは大変だ、お腹空いたんだよね? じゃあシューゴはそこで待ってて、何か作ってくるよ」
目を細めて笑い、俺の腹を指先で軽く数度叩くと返事を待たずに梯子から降りて食糧庫の中を確認しに行ってしまった……そんなイサナを見て俺も自然と笑みが浮かび、再びのそりとベッドの上で横になる。
……元々世話焼きな性格ではあったが、関係が進展してからというものイサナのそんな性格に更に拍車がかかったように思える。べったりという程では無いが何をするにも一緒にやる機会が増え、最初こそ悪い気がしていたが今はこうして素直に任せる事も増えてきた。
いつも勘違いしそうになるがイサナは男だ、華奢だし良い匂いだし海の影響で髪や瞳は綺麗な青に染まっているしあの少し掠れたハスキーボイスで囁かれると堪らなく……。
「……バカか俺は、何考えてるんだ全く……」
このままではいつまでも悶々としてしまいそうなので短く息を吐いて体を起こし、ベッドの縁に手をつきながらイサナを眺めてみる……髪を短く結び、せっせと朝ご飯を作っているその背中を見ても俺の中に嫌悪感のようなものは一切浮かばない、それどころか今すぐにでもその体に触れたいとすら思ってしまう。
「僕の気持ち、分かった?」
「うっ!?」
ハッとして改めてイサナを見るとそれはそれは悪戯な表情を浮かべてこちらを見つめていた、少し視線を逸らせばいつも食事を摂っているテーブルの上には既に朝食の準備が出来ているではないか……いや待て、今俺は一体どのくらいイサナを見つめていたんだ? 困惑している俺の目の前に再び梯子を上ったイサナの顔が迫り、そのまま言葉を交わす事無くどちらからともなく唇を重ねる。
「ん……ご飯食べよ? 見せたいものもあるし」
「うん……ん? 見せたいものって?」
「ふふっ内緒、食べたら一緒に見に行こう?」
唇の感触の余韻に浸る暇も無く首を傾げる俺に笑いかけるとさっさと梯子を降りていってしまった、何が何だか分からないが急かすように鳴り続ける腹がうるさいので今は寝癖でボサボサの髪を直して美味しいご飯にありつくとしよう。
「ん、下に行くのか?」
「うん、前に僕の作業場を見せてあげるって言ったでしょ? それに見せたいものもそこにあるからね」
食事をとり、少し休んだ後で昇降機に乗り込んだ俺の目の前でイサナは下へ向かうボタンを押し込んだ。
言われてみれば以前話題に上がった事はあったが、結局その後の浮島の一件でうやむやになってしまっていたんだったか……一人で納得して壁に寄り掛かると暫し静かに響く昇降機の駆動音に耳を傾ける。
「……何でエレベーターの中って黙っちゃうんだろうな?」
「さぁ……研究してみる? その時は僕を助手にしてよね、博士?」
「助手にするのは構わんが、どう考えても深海研究とは畑違いもいいところだな。俺達の強みはこの海を知ってる事なんだし、それを生かす方向の方がいいだろ?」
「ふふっ、確かにね。なら……マントル博士?」
「……響きがイマイチだな」
にわか研究員二人で笑っていると昇降機はすぐに目的地に辿り着き、到着を知らせるベルの音と共に開いた扉の向こうから漂う少しツンとした油の臭いが鼻をついた。
「うお……すげぇ、研究室みたいだ」
「みたい、じゃなくて一応は本物の研究室だからね。最初は何が何やら分からなかったけど説明書もあったし五年もいじれば一通りは使えるようになったよ」
真っ先に部屋に足を踏み入れた俺の視界に映ったのはどれもこれも見た事の無い設備ばかりだった。何本も連結された試験管を延々と揺らしているものだったり、等間隔で並んだ銀色のカプセルからは冷気が漏れていたりと目を引くものばかりだ……嬉々として部屋を見回していると壁際に設置してある大きなガラス製の筒が目に留まった、近くまで歩み寄り中を覗いてみると筒の中ではDNAの螺旋構造のような形の容器がやはり硝子で作られて入っており、中には緑色の水が半分程溜まっている。
「イサナ、これってなんだ?」
「それは晴雨予報グラス……ストームグラスとも言うんだけどね、例の竜巻海流が起きると気圧が下がって中の水位があがるんだ。ここにいると外の変化にはなかなか気付かないからね、それを見て判断するんだよ」
「なるほど……うおっ、これは……?」
ストームグラスから視線を外して別の方を見ると目に飛び込んで来たのはゲームでしか見た事の無いような培養器だった、サイズは六十センチほどだろうか? モンスターを入れるには少々小さいが三つ程並んでいるその中には大きな魚の鱗のようなものが時折中で発生する泡に合わせて揺らめいている。
「エイトの鱗だよ、時折新しいものに生え変わってるみたいだから今にも取れそうなのを数枚拝借して調べてるんだよ。といっても僕に専門的な知識は無いし、ここの設備じゃ恐ろしく頑丈な事ぐらいしか分かってないけどね」
「これがエイトの……道理であの魚に襲われなかった訳だ、刃が通らないってあいつらも分かってたんだろうな」
「そうだね……僕が見せたいものっていうのも多分それに関係していてね?……こっちだよ」
首を傾げる俺の横を通り過ぎたイサナに付いて行くと、やがて金属で組まれたトルソーに丁重にソレは保存されていた。
「トリトンスーツじゃないか、これが見せたかったもの?」
「うん、よく見て……何か気付かない?」
「え?……うーん?」
数歩前に歩み寄り上から下まで眺めてみるが特に変化があるようには見えない、ヘルメットを軽く叩いても叩いているこっちの手が痛いぐらいだしボディ部分も少し触っただけでも繊維が複数編み込まれているのが分かり、相変わらず頑丈そうだ。
「……何か変か? 傷一つ無いし新品同然の……あ」
ようやくイサナの言っている意味が分かった、再びスーツに向き直り自らの腹部を押さえて記憶を蘇らせながらボディ部分の至る所に触れてみるが……見つからない、あの魚に切り裂かれた部分が綺麗に修復されているではないか!
「当然だけど僕にそのスーツを修理する技能は無いよ、何で出来ているのかも分からないし……ただ分かっているのはシューゴを治療するために脱がせてここに置いておいたスーツが昨日見たらすっかり直っていた事と……これ」
呆然とする俺の前でイサナは分厚い手袋を着けると近くの大きな冷蔵庫のようなものから一本の大きなヒレのようなものを取り出した、冷凍されていたせいか少し変色しているがその刃のようなヒレには見覚えがある。
「それって……あのハイエナ魚の?」
「うん、結構前に採取したものだけど見ての通り鋭さは失われてない……ちょっと見ててね?」
水で満たされた大きなバケツの中にヒレを少し浸すとあの時見たものと遜色無い程生気に満ちた姿に戻った……数度鋭さを確認したイサナがヒレを手にトリトンスーツの前に立つと大きく振りかぶり、腹部に向けて勢いよく振り下ろした!
「っ……つう……!」
「イサナ!」
手袋を着けているとはいえ手にかかる衝撃が凄まじいのかイサナの表情は一瞬で苦悶に満ちたものに変化した、慌てて駆け寄るとイサナはヒレを床に手放しゆっくりと手を開くと……なんとハサミでも切れなさそうな分厚い手袋は僅かにだが裂け、引き抜かれたイサナの手からは血が滲んでいるではないか。
「イサナ!……大変だ、救急箱は!?」
「大丈夫……これぐらい自分で何とか出来るから、それよりアレ……見て」
手を押さえながら指差した先にあるのはトリトンスーツだった……そして今度はその異常にすぐに気が付いた、なんとあの鋭いヒレを突き立てられたにも関わらず全くの無傷だったのだ。
「嘘だろ……あの時は俺の腹ごと切り裂いたのに」
よろよろとスーツに近付きヒレを突き立てられた部分を手でなぞってみるが傷どころかどこに刺さったのかすら分からない、イサナの腕力の可能性もあるがそれにしたって全くの無傷というのはどう考えてもおかしい。
「びっくりだよね……シューゴはこのスーツの事って何か知らないの?」
「……多分原因は分かる、けど俺に教える為とはいえさすがに無茶しすぎだって。まずは手当てをして、それから説明するよ」




