第二十五話 移動する島
「何恥ずかしがってるのさ、早く着替えないと風邪ひいちゃうよ?」
「や、だから着替えだけ渡してくれたら自分で着替えるって!」
「えー? でもびしょ濡れだから脱ぎ辛いでしょ、いくらでも手伝うよ?」
「だー! 大丈夫だから、ズボンに手をかけるな! パンツを掴むなって!」
静かな駆動音だけが響くカメラ小屋の中で俺の情けない悲鳴が響き渡っていた。肌に貼り付いた衣服の僅かな隙間にイサナの細く骨ばった指が上へ下へとするりと入り込み脱がそうとしてくる、勿論濡れた服を着続けるのは気持ち悪いし着替えたいのは山々だが、同性とはいえ目の前で着替えるのはさすがに抵抗がある! 明らかに自分とは違う良い匂いと少しひんやりとした指の感触に反応しないように必死で耐えている事情を知ってか知らずか笑みを浮かべたままのイサナに抵抗を試みるも虚しく俺の衣服は脱がされていき……最後の一線とも言える一枚の布だけは死守しようと前屈みになっていると、心なしかイサナの吐息が荒くなっている事に気が付いた。
「カ、カメラの反応調べるんだろ? 服さえ渡してくれりゃ勝手に着替えるからさ!」
「大丈夫だよシューゴ、別に急いでる訳じゃないし……ほら、僕に任せて?」
更に一歩イサナが近づき、ふわりと香っていたイサナの匂いが更に濃くなった。俺の腰を掴むイサナの両手を握ってはいるが情けない事に心のどこかで期待している自分もおり、全く力が入ってない事が自分でもよく分かった。
「……あ、シューゴの匂いが濃くなった」
「っ……!」
限界だった、同じ想いが嬉しいというまるで乙女のような思いが胸を高鳴らせ血流が一点に集まるのを感じる……しかし同時に柔らかなイサナの髪が鼻先に触れ、込み上がった衝動を抑える事が出来ず盛大に撒き散らす。
「びっ……くりしたぁ、おっきいくしゃみが出たねぇ」
「悪い……我慢出来なかった」
「ううん、僕こそごめんね? この中の服なら多分サイズが合うはず、パンツはここには無いから気持ち悪いかもしれないけどそのまま履いちゃって大丈夫だし……部屋もすぐに暖めるから、待ってて」
くしゃみをしてからのイサナの行動は早かった、タンス代わりの資料棚から大きなタオルを用意し濡れた衣服を手早く壁に掛けて作業着のようなものが入った衣装ケースを取り出し、最後にデバイスを操作して暖房をつけ……俺はというと用意された椅子に腰かけてタオルで体を拭きながら、小屋中を忙しなく歩き回るイサナを眺める事しか出来なかった。
「そういえば……望遠カメラは何を捉えたんだ? さっき反応してたろ?」
「え? ああそうだったね、すっかり忘れてた」
あとは何を用意しようと立ったまま考え込んでいたイサナに声を掛けると本当に忘れていたのか驚いたような声を上げてカメラの操作盤の方へと顔を向けた、小屋の中はさほど広くなく奥にこそ望遠カメラの物々しい機械が鎮座しているがそれ以外は大きな棚や雑多な物が散乱しており少し埃っぽい、カメラ小屋というより半ば物置として使っていたのだろう。
「ええと、反応のあった座標は……っと……え?」
デバイスを見ながら操作盤に座標を打ち込み、少しカメラを操作するとイサナの手が小さく漏れた声と共に止まった。
「……イサナ? 何か見えたのか?」
少し大きめの作業着に袖を通しながら声を掛けるが返事が無い。どうしたのかと思い数歩近付くと勢いよくイサナが振り向き、画面を指差している。
「……島が、島がある。この五年間、陸地なんて見た事無かったのに……」
「なるほど……小さいけど、確かに島だな」
「大きさは直径三キロぐらいかな? あんなのがあったなんて……今まで気が付かなかったよ」
「つっても見た感じ島に生えてる木はかなり大きく育ってるぞ? それでも今日まで気付かなかったなら……あの島、まさか浮かんだままここまで流されてきたのか? 何でもありだな、この海は……」
カメラに映った島をなぞるように指差すとカメラが遠いせいで分かりづらいが青々と育った木々が見える、恐らくエイトが持って来た木もここから持って来たものだろう。
浮島、なんて言葉はあるがあれは沼や湖の隅に折り重なるように植物が溜まっているだけだったり光の加減で水面に浮いているように見える一種の蜃気楼だったり……要するに人工的に造った場合を除いて、水面に島がそのまま浮いているなどあり得ないのだ、だがそれも全て地上での話……改めてこのマントル海域の異常性が計り知れないものなのだと嫌でも実感させられる。
「イサナ、あの島までの距離はどのくらいだ?」
「大雑把にだけど……ここからニ十キロぐらいかな、同じ高さには例の距離の曖昧さは殆ど影響が出ない筈だから」
「じゃあ全力で飛ばして……あー?……十分ぐらいか」
「十五分だよ……いや待ってシューゴ、まさかあの島に行く気!?」
「え、だってあそこにあるものとか調べてみたいだろ?……違うのか?」
勢いよく振り向き声を上げるイサナの反応が予想外で俺の方が面食らってしまった、事実としてあの果実だって進んで調べようとしていたではないか。
「そりゃ、興味が無いって言ったら嘘になるけど……でもシューゴ、この海で十五分も泳ぐんだよ? それも、何事も無ければね? エイトの縄張りがどこまで届いてるのか厳密な距離は僕にも分からないし、前みたいに小型深海魚の襲撃を受ける事だって……」
「おいおい怖がらせるなって……俺だってこの海が危険な事は分かってるけどさ、でもだからって何もしなかったらそもそもここに来た意味が分からないだろ?」
言われなくても分かっている、この海には先のウツボどころかエイトのような巨大深海魚だって間違いなく潜んでいる……しかもエイトのように友好的な事の方が珍しいであろう事も分かっている、しかし同時に今だからこそ行けるという確信も俺の中にはあった。
「それにエイトがあの木をこっちに持って来たばかりだし、今まで縄張りを荒そうとしたり奪おうとしたやつは出てこなかったんだろ? あの島がどっちに流れてるのか分からないし、これ以上遠ざかりでもしたらそれこそ手が出せなくなっちまう」
ここでの生活は楽しい、しかし本音を言ってしまえばここ数日は目新しいものが無く地上に送るメッセージの内容に困っていたのだ……ただただイサナとの生活を送るだけならば危険を冒す必要など無いが、研究所で待つ皆への貢献を考えれば行くという選択肢しか無いとすら思える。
「……ふぅー……分かった。下からトリトンスーツを持ってくるよ、ついでに替えのパンツもね」
長く息を吐き出したあとでゆっくりとイサナは頷いた、最後はいつもの調子で笑ってみせてはいるが何か沢山の事を考えているのは一目で分かったが敢えて何も言わず、頷き返す事にする。
「ん……スーツの質感が少し変わったか?」
「乾かすついでに排水剤を吹きつけておいたんだ、これで前より水に足をとられる事が無くなってスムーズに移動できる筈だよ。水から出たらすぐに乾くしね」
俺の疑問にイサナが自信満々といった様子で答えた。以前のスーツは光沢のある爬虫類の皮膚を思わせる外見をしていたがその排水剤とやらを塗布した事により表面からは光沢が消え、今はカーボン素材のような無機質さを感じる……いわゆるパワードスーツっぽさでいうなら、こっちの方が俺の好みに近い。
「おお……ありがとう、イサナ」
「どう致しまして……それよりも本当に気を付けてよ? 少しでも危険だと思ったらすぐに戻って来て、約束してくれなきゃここから出さないから」
「分かってるよ、通信チェックワン……ツー」
「……通信良好、ワン……ツー」
小屋の扉の前に立ち塞がるイサナに向けて通信するとイサナの返事がダブって返ってきた、尚も心配そうな表情を浮かべるイサナに大丈夫だと言い聞かせて滑りの悪い手で頭を撫でてやり、小屋の外に出るとまっすぐに堤防の方へと歩を進める。
「探索時間は移動時間を含めて五十分、収穫が少なくても絶対にこの時間以内に戻って来て……いい?」
「分かった、タイマーをセットして……それじゃあ行って……ん?」
左手のデバイスを操作して時間を設定し、飛び込む為に駆け出そうとするとスーツの裾がイサナに捕まれている事に気が付いた……こちらを見つめるその表情は相変わらず不安そうだ。
「……大丈夫だって。俺、ここでのイサナとの生活好きだからさ。また今夜もあの群れを見ながら飯を食べようぜ、な?」
「……ん、分かった」
そっと手が離れ、浮かべたその笑顔から心配の二文字が消える事は無かった。しかしその事がより俺の胸を強く温め、絶対に帰るという使命感へと変わっていくのを感じる。
「よし……行ってきます!」
僅かに胸を燻る恐怖感を振り切るようにダッシュして海に飛び込むと全身をひんやりとした感覚が包み込んだ、そんな冷涼感に浸る事無くデバイスを操作すると島へ向けて全速力で海中を滑るように移動を開始した。




