第二十二話 浦島太郎のジレンマ
「おい、寝るならちゃんと部屋で寝ないと疲れが取れないぞ?」
背後からかけられた可愛くない低い声と物言い、そしてデスクに何かが置かれた小さな物音で私は目を薄く開いた。いつ眠ったのかという記憶すらない……錆び付いてしまったかのように硬い関節を無理やり動かして体を起こし、不快な口内とすっかり乾燥してしまった唇から肺に沈殿していた息をゆっくりと長く吐き出す。
「疲れてる訳じゃないんですぅー……コトコニウムが不足してるだけなんですぅ」
「何だその未知の元素は、所長ならもう休んでるから諦めてそのコーヒーで我慢しろ」
「……コーヒー?」
首を傾げつつ改めて自分のデスクを見回すと、呆れたような表情の恵ちゃんの言葉通り私が普段から愛用している量重視の大きなマグカップの中に黒い液体が満たされ、香ばしく芳醇な香りと共に温かな湯気を上げていた。
「……私、紅茶派なんですけどぉ? 駄目だなぁ恵ちゃんは、そういう細かいところを覚えていられるかどうかがモテる男とそうじゃない恵ちゃんの差だよぉ?」
「ほっとけ、お前にモテたところで誰が喜ぶってんだ」
「ぶー……恵ちゃんはモテるモテない以前に、先輩の敬い方から学ぶべきだねぇ」
「安心しろ、所長にはちゃんと敬語を使うようにしてる。それで……どうだ?」
「後輩力なら修吾君の方が断然可愛かったなぁ……まぁお説教は今度にするとして」
寝ている内に奥に追いやっていたキーボートを手前に戻して数回キーを叩くと点けっぱなしだったモニターに四つのメッセージが小さく個別に表示された、話を始めようとするが喉が乾燥しているのか軽く咳き込んでしまう……温かいマグカップを持ち上げて数度息を吹きかけると唇を、更に舌や喉を順番に湿らせていく。
「苦ぁ……恵ちゃん、よくこんなの常飲出来るねぇ」
「そうか? これが大人の味ってやつだろ」
「どちらかというと恵ちゃんの舌がバカなんじゃないのぉ?」
とはいえ口は潤った、改めてパソコンを操作してメッセージの一つを拡大し恵ちゃんにも見やすいようにモニターの位置を調節してやる。
『イサナとの合流に成功、観測所は無事。時間の感覚に齟齬あり、五年しか経過していないとのこと』
「ラブが受信出来た修吾君からのメッセージは三つ……最初のこれが送信されたのは殆ど投射日と同日だね。でも届いたのは送信から二週間後、それも大きな爆弾付きでねぇ」
「時間のズレ……正直、修吾君を疑うわけじゃないが今でも信じられん。電子的なデータがダメージを受けるのは磁場だの何だので説明できるが、あの空間にはそれ以前のもっと根本的な概念までもが揺らいでいたとは……」
「無人機がどれもこれもイカれる筈だよ……時間の流れが常に一定だなんて、私もまだまだ頭が固いなぁほんと……」
メッセージの解析が済んでから何度も見ている筈なのに、何度見ても自分に腹が立ってくる。
悪態代わりの吐息を吐き捨て、背もたれに体を預けて天井を見上げると胸ポケットに違和感を感じた。何かを入れた覚えないのだがと指を突っ込むと私が自分で購入したものとは違う、琴子ちゃんがいつも食べているフレーバーの飴が一粒入っていた、いつの間に入れたのかという驚きと共に嬉しさでイライラがどこかへと吹き飛び、丁寧に包み紙を取ると艶のあるピンク色の飴玉を口に放り込んだ。
「……落ち着いたか?」
「ん……ごめん」
静かにこちらを見つめていた恵ちゃんに軽く頷いて謝ると、改めてモニターに表示されたメッセージの一文字一文字を噛み締めるように読む。
「とりあえず何より良かったのは修吾君が無事な事、観測所や天ヶ瀬イサナの反応についても受信した内容が正確だった事についても素直に喜ぶべき結果だと思う。もちろんこれが全文じゃない可能性もあるけどね」
「……時間のズレについてはどう思う?」
「そっちは正直お手上げ、技術の進化は目覚ましい現代でもタイムマシンは未だに発明されてないもん。素直に計算するならこっちで過ぎた三十年が向こうでは五年……つまり六分の一の速度でしか時間が流れてない事になるんだけど、それだとおかしい点があるんだよねぇ」
「おかしい点?……内容はともかく、文章は普通だと思うが……?」
「おかしいのは無いようじゃなくて……こっち、この二つを比べてみて」
モニターの角度を戻して軽く操作し……次に恵ちゃんに見せたのは一通目と二通目のメッセージを並べて表示したものだ。
「これは一つ目と二つ目のメッセージを初期受信の破損状態から一段階修正した、所謂文字化け状態なんだけど……この二つの違いが分かる?」
「そう言われてもな……どっちも意味の無い滅茶苦茶な文字列にしか見えん」
モニターに顔を張り付くぐらい近付けて睨みつけているが、恵ちゃんはすぐに降参とばかりにため息をついて両手を挙げてみせた。その光景に思わずクスリと笑ってしまい、その事で自分の調子を取り戻せたのが分かりホッと胸を撫で下ろす。
「いい? こういう文字化けって一見何の意味も無くただただ表示がおかしくなっているように見えるんだけど、実はちゃんと規則性があるんだよぉ?」
「……規則性? これに?」
「そ、例えば『あ』という文字に重ねるように『A』とか『1』っていう同じ意味だけど別の表記の文字の書かれたシートが重なってると想像してみて? 本来はそれが正しい順番で重なってるんだけど、これが転移地点のダメージみたいに影響を受けると正しく重なっていたシートがズレちゃうの……これが文字化けの主な原因」
「あー……なんだ、つまりそのシートを直してやれば文字列は直るって事なのか?」
「そう言う事、帆吊先生が百点をあげちゃいましょー」
ケラケラと手を叩いて笑ってみせると恵ちゃんが呆れたようにこれ見よがしにため息をついた、一つ目のメッセージを修正した方に戻し……今度は真剣に二つ目のメッセージを指で叩きながら恵ちゃんを見つめる。
「でもこの二つ目は違う、これこそ本当に規則性の無い状態なの。例えるなら一枚のシートに平仮名も漢字もアルファベットもごちゃ混ぜになった上に一文字一文字ちぎったような……こんな状態は初めて見た、文字化けですらないよ」
「なら……このメッセージは直せないって事か? 一文字も?」
「一応ラブと一緒に頑張ってみるけど……期待薄かな、それよりもこのメッセージの存在の方がわたしは一番不安なの」
「どういう事だ?」
「……今からわたし、変な事言うけど……頭がおかしくなったとか思わないでね?」
もう一度マグカップに口をつけるとコーヒーはすっかり冷めていた、だが修吾君という一人の命を預かっている以上彼が無事に帰還出来るなら苦い飲み物だろうが生ゴミだろうが食べたって構わない……そう思わせる程に私の中の仮説は口にする事自体が重いものだった。
「……約束する、お前は確かに変な奴だが信用には値すると俺は思ってるからな」
「そう……良かった、少しだけ安心した」
手元で小さな音がするので何かと思えば自分でも気が付かない内に手が震えており爪がマグカップに当たる音だった、それに気付いたのか恵ちゃんがわたしの手からそっとマグカップを受け取りデスクの上に置く。
「ありがとう……恵ちゃん」
「その呼び方は止めろと……まぁいい、それで? 何が不安なんだ?」
「うん……あのね? 一通目のメッセージを受け取っただけならマントル海域はここと比べて六分の一の時間しか進まない事になるし、文字化けも解析出来た。これはつまり過去の時間が今のわたし達に追いつこうとして起きたズレだから修正できたの……私達がもう通った時間だからね? でもこの二通目は違う……明らかに私達と違う時間から送られてきた破損の仕方をしているの」
「俺達とは違う時間って、つまり……まさか、未来か?」
目を見開いた恵ちゃんの顔をまっすぐに見据えて頷く、勿論こんな仮説は空想科学の域だし全てが間違っている可能性の方が高いだろう……けれど、それが例え一パーセント以下の確率だったとしても現状有り得てしまうとなると、それは決して無視出来るものではない。
「もし本当にこことマントル海域で六倍もの時間の差があるなら、今すぐにでも回収カプセルを送って修吾君を救助しなきゃならない……こっちへ戻って来た時に体にズレた分の修正が負荷として一気にかかるなら、例え一ヶ月でも相当な負荷になる……だから今なら戻ってもまだ影響は少ない、はず」
「な、なら今すぐにでも回収カプセルを投射しなくては! 得る物は少ないかもしれないが人命を優先するべきだろう!」
「分かってる! でも仮に『今』の向こうが『未来』だったらどうなるの!? 『過去』から引き揚げた彼の時間が進むだけなら老化っていう負荷の形があるけど、未来から戻った時の負荷が若返りなんて確証は無いでしょ!? もっと重篤な症状が出る可能性だって十分にある!」
「だ……だが、判断が遅れると確実な体の負荷がどんどん大きくなっていくだけなんだろう?」
「……うん、はっきり言ってとんでもない玉手箱……開けなければ、つまりマントル海域で過ごし続けるなら地上と比べておよそ六倍の寿命を得られるけど、二度と地上には帰って来られない……私達が送り込んでしまった竜宮城から彼を戻すかどうか、手遅れになる前に決断しなきゃならないの」




