第十八話 膝の温もり
「な、何年って……どうしたんだ、なんで急にそんな」
「ん」
イサナの体温と匂いに動揺しなりながらも何とか誤魔化そうとする俺の目の前に掲げられたのは先程渡した俺のマグフォン、それがどうしたのかとぼんやりとホーム画面を眺め……不意に背筋が寒くなる、俺というやつはどこまで間抜けなのか。
──今や子供でも持っているマグフォン、そのホーム画面には誰のものにでも現在時刻と日時が表示されているではないか!
「この日付、下の機械のモニターに表示されてるものと随分ズレてるよね? 最初にシューゴが僕の年齢を聞いた時も変な反応してたし……ねぇ教えてよ、今は本当は何年なの?」
「そ、れは……」
観測員としての期間中、青海さん達とは連絡がつかない。つまり現場で起きた事についての判断は基本的に俺に一任されている……任務の事を考えるならイサナとは良い信頼関係を築くべきだ、その為に今の本当の日付を教える事ぐらいなんでもない事のように思えるが……本当の事を知ったイサナがどんな表情を浮かべるのか、想像するのが怖い。
結局彼についての情報は地上で得る事は出来なかった、出身地はもちろん家族構成なども……人間にとって三十年という年月は早いようで大きい、兄妹ならまだ探せるかもしれないが親御さんに関しては下手をすればもう……。
「……本当に知りたいか? 誤解しないで欲しいんだが、俺はイサナがショックを受けるだろうから言わなかっただけでお前を騙そうとか、そんなつもりは……」
「大丈夫……分かってるよ、僕もシューゴが悪い人だとは思ってないから。それに覚悟も出来てるよ、百年以上経ってても驚かない、車が空を飛んでいたら少しはびっくりするかもだけど」
「……残念ながら車はまだ飛んでないな、フロントガラスにナビが表示されるやつなら知ってるけど」
カラカラに乾いた唇を舐め、ゆっくりと息を吐く……誰かに何かを伝えるのにこんなに緊張した記憶なんてあっただろうか、自分でも無意識でこの事実が重い事である事を理解していたようだ。
「……三十年だよイサナ、君とこの観測所が投射されてから……地上では約三十年が経ってる」
「っ……!」
イサナの息を呑む声が聞こえ、背中に回された手に力が入るのを感じる。
「そっか……三十年かぁ……じゃあ、あいつはもう死んでるかな……」
「あいつ?……あいつって?」
返事は無い、しばらく沈黙が続いた後にのそりと起き上がったイサナの顔を枕元のオレンジ色の照明が照らす。
「この観測所って見ての通り有人化も視野に入れて作られたものだけど、本来は無人観測所として投射される予定のものだったんだ……なんて、シューゴならもう知ってるかな?」
「うん……聞いてるよ、三十年も前に投射された無人観測所にも関わらず生体反応……つまりイサナの反応に加えてこの観測所が無事に残ってる反応を受信したから、俺がいた研究所に任務が回ってきたんだからね」
「なるほどね……ふふ、貧乏くじを引かされたってわけだ?」
「まぁ、確かにここへ来る前に聞かされた内容がとんでもなくて驚きも怒りもしたけど……でも今は違う、今はここに来て……イサナに会えて良かったと、本当に思ってるよ」
照明に照らされたイサナの表情が困ったようなものから驚いたような顔に変わり……短く吐き出された息と共に再び困り顔に戻った。
「……僕はね、青海所長の近所に住んでいたただの子供だったんだ。特に交流がある訳でも無く、時折すれ違いざまに挨拶をしたり、少し話をしたりする程度で知り合いという程でもなくてね……ただまぁ、僕の家は近所で有名だったから所長も事情ぐらいはなんとなく察していたんじゃないかな」
「……有名って?」
「よくある話だよ。妻に逃げられた男と逃げそびれた息子……酒に溺れて暴力に怒鳴り声、それが僕の家だったんだ」
今度は俺が息を呑む番だった、思わず起き上がり視線で話の続きを促すと薄く笑ったイサナがぽつりぽつりと言葉を紡ぎ続ける。
「助けてくれようとした人はいたよ、でもその人と父親が言い合いをした日の夜は暴力が激しくなるだけだったし……施設に入る事を提案された事もあるけど、守ってくれるのは数年……どこかでバッタリ出くわした僕にあいつがどんな当たり方をするか想像するだけで怖くて、結局僕は僅かな勇気すら出せなかった」
当時の年齢からするに中学生か小学校高学年……いや、そんな父親がいては学校もまともに通えてはいなかっただろう。
もしイサナがもっと幼かったならば通報などで助かり、今頃違う人生を歩んでいたのかもしてないが……その年齢まで逃げなかったという事実が足枷のように絡みつき、逃げると言う意思そのものを鈍らせていたのかもしれない。
「その日は雨でね……何をやっちゃったんだったかな、お酒の銘柄を間違えたのかタバコの銘柄だったのか原因はもう忘れちゃったけど……土砂降りの雨の中、僕は靴も履かせてもらえないまま家から出されてずっと扉の前に座り込んでいたんだ……そこにたまたま通りかかったのが、青海所長だったんだ」
「じゃあ……イサナはそこで深海とか、観測所の事を?」
「最初はなんの冗談かと思ったよ、どこにも逃げられないなら深海に逃げ込もうなんてさ……空を飛んで逃げたいって思った事はあったけど、海に潜ろうなんて思った事は無かったからね」
喉の奥で笑いながら遠くを見つめるイサナの瞳には三十年前の光景が広がっているのだろう……その瞬間、間違いなくイサナの前には蜘蛛の糸が垂れ下がったのだ……世間からすれば人体実験の哀れな被検体のように映るのだろうが、糸を垂らした所長も追い詰められたイサナが糸を掴む事も……一体誰が責められよう。
「そういえば……シューゴはどこの研究所から来たの? 三十年も経ってるなら……所長も、亡くなってる?」
「……ああ。イサナの言う青海所長は既に亡くなってるけど、俺が来たのは青海研究所で間違いないよ。今は娘さんが立派に所長を勤めてるんだ」
青海前所長が実験失敗の数年後に自殺している事を伝えるべきか迷ったが……イサナには一切の隠し事をする気にはなれず、全てを話すという決断を下した。
自殺という結末にはさすがに驚きを隠せない様子だったが、自分の実験の顛末や前所長自身の責任感の強さを考えれば……と納得したようだった、滲む彼の目の端を見て思わず目を逸らしてしまう。
「きっと娘さんがある程度大きくなるまで耐えてたんだろうね……その間に何か、新しい支えが見つからなかったのは本当に残念だな、僕の事も殺してしまったと思わせちゃったみたいだし……想像する事しか出来ないけど、ずっと背負い続けてたんだろうな……僕を救ってくれてありがとう所長さん、それと……力になれなくて本当にごめんなさい」
小さく手を合わせ、祈り続けるイサナの呻くような声を聞きながら俺はただ唇を固く結ぶ事しか出来ない……何も出来ないもどかしさに居心地の悪さを感じ始めた頃、不意にイサナがその体を寝転ばせて俺の膝の上に仰向けに倒れた。
「ね、その娘さんがシューゴをここに投射したって事は……目的はお父さんの無念を晴らす為?」
「前提というか根幹はそうだと思うけど……今は深海の事が知りたくて仕方ないってのが一番にきてるって言ってたかな」
「あはは、所長も似たような事言ってたかな……親子揃って研究者なんだね」
「だな、俺もそんな所長達に触発されちゃったから何も言えないし」
膝の上で嬉しそうに笑うイサナの笑顔は心からのものに見え、思わずホッと肩の力が抜ける。前髪が目にかかってしまっていたので小指で乱れた髪を直してやるとくすぐったかったのか、イサナが目を閉じて僅かに体を震わせた。
「でも……それなら余計にシューゴが来てくれて良かった、来てくれなかったら僕はずっと届かないデータを送り続けてるだけだったろうし」
「確かにデータは届いてなかったけど……それでもイサナはここでエイトと二人で深海魚たちと地上を間接的に守ってくれてたじゃないか……せめて俺から礼を言わせてくれ、本当にありがとう」
「ふふっ……シューゴにそう言ってもらえただけで僕の五年間は無駄じゃなかったって思えたよ。それに本当は五十近いおじさんを想像してただろうし、シューゴにとってもここにいたのが僕で良かったんじゃない?」
「そこはマジでそう思う、おっさんと二人きりで暮らす事を考えたらイサナみたいな……」
茶化すように両手を広げて鼻で笑い、視線を下げるとニコリと笑いながらこちらを見つめるイサナと目が合った……途端に言葉が出てこなくなり、ゆっくりと両手を下げる。
「僕みたいな……何?」
「あ……いや」
膝の上で小首を傾げるイサナを表そうと脳裏に浮かんだ言葉は……どれも男性に対しての言葉としては相応しくないものばかりだった。勢いとはいえそんな言葉を勢いで言いそうになっていたのかと思うと急激に顔が熱くなるのを感じ、膝の上に寝転がるイサナを押しやるようにどかすと背を向けて横になった。
「……何でもない! さぁ、明日から何をするのかは知らないけど忙しくなるだろうしイサナも早く休みなよ!」
「えぇ?……はーい」
少し間があった後に俺のベッドの照明を消し、素直に梯子をおりていったイサナが何を考えていたのかは分からない……ただ言えるのはイサナの小さな寝息が聞こえるくらいに辺りが静寂に包まれても俺は膝に残った感触がどうしても忘れられず、寝付けなかったという事だけだ。