第十六話 扉越しの語らい
「ふっ……あぁー」
両腕を伸ばし、首を曲げると疲労を実感させる音が体内で響いた。
椅子を回転させて医務室内をぐるりと見回すが特に目新しいものなど当然無く、一回転して戻ってきた私の視界に映ったのは何の役にも立たないモニターと、筆の止まった殆ど白紙の報告書だけだった。
「ラブー? 何か新しい報告あるー?」
『……特に何もありません』
「そ……っか」
何度繰り返したか分からないやり取りにため息をつき、デスクに置きっぱなしになっているマグカップを手に取り傾けるが、中身が入っていなかった。
再びため息をつき立ち上がると、入口の脇にあるウォーターサーバーのスイッチを押してお湯を注ぎ入れ……そこでようやくティーパックを入れ忘れた事に気が付く。
「……っふぅー……ダメダメ、イラついたって何も解決しないんだから……」
ただのお湯の入ったマグカップをデスクの上に置くと改めてティーパックを投げ入れる、順番が逆かもしれないし味が変わるかもしれないがどうせそんな小さな違いはわたしの舌じゃ分からない。ついでとばかりに懐から細長い緑色のケースを取り出し、中身を一粒マグカップに放り込む……琴子ちゃんのお気に入りの飴のミント味、おかしな味になるかもしれないが多少は疲れや眠気を飛ばす手助けをしてくれるだろう。
「あつっ……」
マグカップに口をつけるが熱すぎて飲めなかった。冷めるまで喉を潤すのは諦めるとして……そういえば最後に食事を摂ったのはいつだったろうか? 今は何時なのだろう?……モニターの隅に表示されている時間に目を向けるが目がかすみ、文字がぼやける。
──修吾君をマントル海域に投射して約二週間が過ぎた、結果から言えば……今回の試みは大失敗だ。
投射から約二時間で修吾君の所持するマグフォンの信号は消え、体内のナノマリナーの反応もキャッチ出来なくなった……二十四時間バイタルサインや精神状況を表示する筈の予定だったデスクの上のモニターは音も立てずに一本の線を引き続け、彼に渡したマグフォンでのメッセージをラブが受信した報告も未だに無い。
考え得る限りで最悪の状況だ……せめて生命の危機であるバイタルサインを検知出来れば彼を回収するためのカプセルを投射出来るが国からの費用で賄えるのは一射だけ、まだ私達に個人で回収用のカプセルを射出できる費用など無い……何も分からないという現状では出来る事は無いに等しく、私達は全員真綿で首を絞められているかのような罪悪感に苦しめられ、研究所の雰囲気は以前よりもどんよりとしている。
「琴子ちゃん……おにぎり作ったんだけどさ、一緒に食べないかなーって……」
『……そこに置いておいてください、後で頂きます』
「ん……そ、っか」
琴子ちゃんは所長室の脇にある自室にこもりがちになってしまった、全員で最善を尽くした結果がこれなのだ……責任感が強いだけに彼女にのしかかる罪悪感は私達の比じゃないだろう、二人分のおにぎりと味噌汁が入ったポットの乗ったお盆をカーペットの上に置き……このまま医務室に戻る気も起きず、扉に寄り掛かるように腰をおろした。
「……あは、何だか昔を思い出すねぇ」
琴子ちゃんのお父さんの死後、落ち込んでいる彼女を励ます為に通った私をすぐに部屋には入れてくれず……あの時もこうやって扉越しに話しかけていたが、あの時と違うのは床が冷たいフローリングではなく暖かいカーペットだという点だ、これならお尻が痛くなる事も無く延々と座っていられるし鳥肌の立った腕を擦る必要も無い。
「そういえば琴子ちゃんスカウトに行ったんでしょ? 修吾君の第一印象とかどうだったの? やっぱり驚いてた?」
『……』
返事は無い、本当に昔に戻ったようだと思わず口元が緩んでしまう。
私はよく喋る方だという実感はあるが話題の提供が上手い訳では無いし、慰めるのが上手な訳でもない……これでも会話術の本を読んで勉強したこともあったが大して身に着かず、結局私に出来る事といえばただひたすらに喋り続けて……例えうざがられても、嫌がられても琴子ちゃんを一人にしない事だけだ。
「……そういえば覚えてる? この前、私達の学年の生徒指導だった先生が結婚したってメッセージが回ってきて……こほっ」
どのくらい一人で喋っていたのだろうか、喉が渇いてむせてしまった……味噌汁以外にせめて水でも持ってくれば良かったと自分の気の利かなさにげんなりとしていた頃、背中を預けている扉越しに別の誰かが背中を預けたような感覚を感じた。
『……帆吊さん、修吾さんは……無事でしょうか?』
「っ……! それは、励ました方がいい? それとも……ちゃんと答えた方がいい?」
『……帆吊さんの言葉で、お願いします』
久しぶりに言葉のやりとりが出来て嬉しさで飛び上がりそうになりながらも冷静に言葉を絞り出す、今琴子ちゃんが欲しているのは安っぽい同情ではなく私の、医者兼研究者としての言葉……少し言葉を区切り頭を回転させ、ゆっくりと口を開く。
「正直……厳しい状況だと思う。無人機と比較してもシグナルの消え方があまりにも突然だったし、マグフォンにナノマリナー……ラブによる生体電気の受信の三つの手段が同時に消えるなんて事が起きるなんて、私達の想定外の事が起きたとしか考えられない。」
『そう……ですか』
扉越しに琴子ちゃんの息を呑む音が聞こえた、私にとっても苦しい事実だが目を逸らす訳にもいかないし……彼へと繋がる糸が完全に断たれた訳でも無い。
「でも、希望はあるよ琴子ちゃん……ほんの少し記録できた修吾君のバイタルサインの中に見た事のある乱れ方をしたものだがあったの、あれはきっとカプセル酔いによる乱れだと思う。だから私の考えでは投射されたカプセルがそのまま深海魚に飲み込まれたんじゃなくカプセルは観測所に回収されて、開かれてる筈……ううん、最悪回収されてなくてどこかの島に流れ着いただけだとしても、修吾君が向こうで目覚めたのは間違いないと思うの」
『では……もう死んでいるという可能性は……?』
「私は限りなくゼロだと思ってる。投射時に座標のズレは無いから単身でトリトンスーツを着て脱出できていれば観測所には辿り着けるだろうし、仮に天ヶ瀬イサナが既に死んでいてもあの観測所の中には食料は残ってる筈……最悪カプセルが破損している事を想定して次の食料カプセルの投射を早めれば生存率は更に上がると思う」
『そ、それではすぐに宇垣に予定を早めるよう連絡しなくては……!』
「私がしておくよ、それよりそうと決まったら体力つけなきゃでしょ?……ご飯、食べよ?」
慌てた様子で立ち上がりマグフォンを探しているのか扉の向こうから響くドタバタと部屋を歩き回る音に苦笑しながら落ち着かせると、手早く自分のマグフォンを操作し宇垣に連絡を飛ばす……こういう急な予定変更に対しての上の腰の重さは異常だ、食料の投射を早めるにしてもすぐに返事はこないだろうが……とにかく今は出来る事をするしかない。
『はい……あ、お味噌汁の匂い……』
「すっかり冷めちゃったけどねー、どうする? 温めなおそっか?」
「いいえ……どうせ熱いと飲めませんし」
そっと開かれた扉から現れた琴子ちゃんは泣き腫らしたかのように目元が真っ赤だった、髪もボサボサで普段大切にしている威厳なんて欠片も無い。
「あはは、ひどい顔だよ琴子ちゃん? 可愛い」
「なんですかそれ……どっちなんですか?」
「んー……大好きかな? 部屋に入ってもいい?」
「答えになってな……もういいです、好きにしてください」
さすがに琴子ちゃんに床で食べさせるわけにもいかずお盆を持ち上げて部屋に入ると、中々素晴らしい惨状になっていた。
気を付けないと踏んでしまいそうな程に散らばった書類とぬいぐるみ……ちなみにこれは修吾君の一件があったから荒れているのではなく、元々彼女は部屋を片付けるのが大の苦手なのだ……これを居心地が良いと言い張るのでわたしが毎回片付ける羽目になっている。転ばないように慎重にお盆を運び、何故かぬいぐるみの乗ったテーブルに何とか隙間を見つけてお盆を乗せると妙な達成感からかため息がもれた。
「さ、とりあえず食べよ? 恵ちゃんには連絡しておいたから後で連絡くると思……う」
食事を摂れるだけのスペースをテーブルにつくり、振り向こうとすると背中に軽い衝撃……一瞬何が起こったのか分からなかったが、腰に回された手と背中に当たる柔らかい感触と共に香る匂いが事実を徐々に明確にしていく。
「こ、琴子ちゃん? 私、するのは慣れてるけどされるのは慣れて無いからドキドキしちゃうなー……なんて」
「……なー、貴方がいてくれて本当に良かった」
それはか細く、小さな声だった。
しかしわたしの背中に押し当てられた柔らかい唇から発されたその声は一瞬で脊髄を走って全身に響き渡り、心臓を強く跳ねさせる。
「そ……その呼び方は恥ずかしいからしないんじゃなかったー?」
「今は二人きりだからいいんです、それより……貴方の鼓動、早すぎませんか? 体も熱いようですし……大丈夫ですか?」
違うんです、それはただ私の中の愛が溢れているだけなんです。具体的にはドーパミンとオキシトシン、それにセロトニンが渦を巻いていて……そんなピンク色に染まった脳内が彼女に伝わる筈も無く、腰に回されただけじゃなく服を遠慮がちに掴むその手、心配そうにこちらを見つめる潤んだ瞳……その全てが愛おしく、私の脳内には壊れたレコードのように一つの言葉が延々と繰り返されていた。
──ああ、なんでもいいから琴子ちゃんとエッチな事がしたい。
「……はい、ああ宇垣ですか。少し待っててください、帆吊さんもいますのでスピーカーにしますね」
『なんだ、もしかして邪魔したか? メッセージの内容は了解したが、別件でこっちも急ぎで伝える事があってな』
今振り向けば少し激しめのボディタッチぐらいなら許してくれるのではないかと期待を込めて両手を広げて振り向いた私に差し出されたのは無機質なマグフォンの画面だった、歪な形をしたイカのような悪趣味な……いや、可愛らしいストラップ付きのマグフォンから聞こえる宇垣の声に舌打ちしなかった事を誰も出いいから褒めて欲しい。
「別にいいですよー……それで急ぎの用って、修吾君の事ー?」
『いや、そうじゃない。今出先で聞いた話なんだが、どうやら周防研究所の奴が所長に話を聞きたいとそっちに向かってるらしいんだ』
「……ちっ」
今度は我慢できなかった、厄日とはこの事か。