第十五話 エイト
「それにしても……巨大深海魚かぁ、まさか地上がそんな事になってたなんてね」
「ああ、お陰で沢山の人が死んじゃったし世界の地形も大きく変わったよ。今は復旧も進んでるし、徐々に持ち直してるけどね」
朝はソナーを眺めておきたいというイサナの言葉に従って缶詰のスパムを焼いて挟んだだけの簡単なサンドイッチを手にソナーやマリンドローンの操作盤のある下に降りているのだが、これが意外と大変だった。サンドイッチの乗った皿を手にどうやって梯子を降りるのかと思案している俺の目の前でイサナは器用に片手で降りて行き……負けじと真似して降りてみたはいいが結局イサナの倍以上の時間がかかってしまい、息を切らしている俺を見たイサナに大笑いされてしまった。
ソナーにドローンの操作盤、更には爆雷関係のあれこれと大きな機械が中央の通路を挟んで立ち並ぶその部屋は圧迫感があり、窮屈さを感じる反面ほどよく煤汚れた大きなソファなどが置かれていたりと、なんだか秘密基地のようで妙に子供心をくすぐる落ち着く空間が広がっていた……自由に座ってというイサナの言葉に従い俺はソファに腰掛け、脇に佇む機械から飛び出た金属板をテーブル代わりに。イサナはソナーの前に小さな木製の椅子を持って来て腰掛けると、膝の上に皿を乗せて食べ始めた。
「歯の無い大きな口にマンタのような大きなヒレ……シューゴの言う特徴からすると、地上に現れたのは多分……『レド』だね」
「レド?……それって深海魚の種類か何か?」
「ううん、そうじゃなくてレドは……僕が勝手にそう呼んでただけ、彼女の口は暗闇で真っ赤に光るんだ。だからレド、いい名前でしょ?」
「彼女って事は……あの深海魚って雌だったのか、っていうか……やっぱりあの深海魚は元々ここにいたのか?」
「うん、レドはね? 凄く獰猛で他の深海魚と争ってばかりだったけど……同時にとっても優しい母親でもあったんだよ、違う種類の深海魚でも親や群れからはぐれた子供の深海魚を自分の大きな口の中で育てて……一人前になるまで守ってあげるんだよ、成魚の深海魚に対しては敵対心剥き出しだからレドに会いに戻ってきちゃった元子供に対しては怒って攻撃しちゃうんだけどね? それでも殺したりはしないから、ちゃんと自分が育てた子だって認識はしてるんだと思う」
まるで動物のドキュメンタリー映画の感想のように話すイサナに俺の食事の手は完全に止まっていた、確かに地上にも獰猛な動物もいるし相対したら絶対に俺は負けるだろうという生き物は多い……だが巨大深海魚は別だ、あれは生き物という枠組みを完全に超えており俺達人類にとっては最早台風や津波などの災害とさほど変わらない。
「……シューゴ、どうしたの? もうお腹いっぱいになっちゃった?」
「いや……そのさ、今教えてくれたレド……みたいな滅茶苦茶デカい深海魚って他にもいるのか?」
「いるよ、僕が知ってるだけでも数種類……僕が知らない子達も、この海にはきっといるだろうね」
分かっていた、いや……分かっているつもりだった。驚きは隠せなかったが、それでも手に持ったサンドイッチを落とさなかった努力を誰でもいいから褒めて欲しい。
巨大深海魚は『いる』のだ、『いた』という過去形ではなく……きっとこの足の下に広がる海に俺の想像もつかないものが、間違いなく。その事実に前に恐怖が全身を支配しかけたが、サンドイッチを食べ終え手についたパンくずを舐め取っているイサナを見ていると地上でも抱えていた大きな疑問が顔を出す。
「なぁ……イサナは、というかここはどうして無事なんだ? それに、レドはどうして地上に?」
「あはは、質問攻めだねぇ。焦らなくても順番に答えるよ、どっちからがいい?」
困ったように笑うイサナを見てようやく俺は身を乗り出していた事に気が付いた、ハッとして一言謝ると少し考える……やはり問題としてはここで止める事が出来ず地上に巨大深海魚が現れてしまった事だろう、考えを固めると改めてイサナを見つめ、口を開いた。
「……じゃあレドが地上に現れた理由についてから聞きたい、深海とは言っても俺が見た限りじゃここには海面があるし空もあった……それなのに、どうやってレドは地上の海に現れたんだ?」
「竜巻だよ、竜巻海流とでも言うのかな……僕が説明するより、直接見た方が早いかも」
そう言って席を立つと俺の腰掛けるソファの脇に膝を乗せ、手を伸ばして奥にある壁と一体型の棚の中を漁り始めた。
「ちょっとごめんね、えーっとどこにやったかなぁ……」
ここでもない、そこでもないとイサナが移動するに従って膝が動き……やがて俺の膝とくっついたがイサナに気にする素振りは無く、ふわりと香る俺のものとはまるで違うその匂いに胸の鼓動は勝手に早まっていく。
「んー?……あった、これだ!」
「そ、そう……良かったね」
一枚のデータディスクを手にニコリと笑うイサナに俺はソファのひじ掛けに仰向けに寄り掛かりながら弱々しく笑った。
俺の様子に小首を傾げるイサナだったが、ソファに膝立ちのまま同じ棚から取り出したのであろう小型の投影機にデータディスクを挿入し、映像が流れ始めると俺の膝の上に投影機をそっと乗せて悪戯っぽく笑みを浮かべた。
「ふふ、動いたら落ちちゃうから動かないでね?」
「わ、分かったよ……それで、これが竜巻海流ってやつか……デカいな」
投影機は短い映像を繰り返し流していた、名前を聞いて脳内でイメージしたものよりも遥かに巨大な竜巻が次々に海水を吸い上げ、天へと押し上げていく……轟音と共に記録されたそれは今までに見たどの災害映像よりも威力と迫力が伝わってくるものだった。
「この竜巻は時々、何の前触れもなく起きるんだ……ただ、起きる範囲は決まってるらしくていつも同じような場所で起きてる。いつもは昨日見たような群れの魚が吸い上げられていくんだけど……多分、僕が知ってる場所とは違うところで起きた竜巻にレドは巻き込まれたんだろうね」
「……他の小さい魚も竜巻に飲み込まれて、地上に?」
「だと思うよ、だから地上の生態系も人間が気付かないぐらい少しずつ……少しずつ変わってる筈だよ、もしかしたらいずれここの海と混ざり合う日もくるかも……まだまだ遠い話だろうけど、さ」
「そ、っか……参ったな」
思わず目元に腕を乗せて唸っていた、研究所の皆が優秀である事は最早疑いようは無いが今聞いた内容だけでも規模が大きすぎる……仮にこの情報を持ち帰れたとしても、何かしら対処のしようはあるのだろうか?
「ちなみに、イサナはこの竜巻が起きる場所を何ヵ所知ってるの?」
「残念だけど僕が知ってるのはこの一ヵ所だけだよ、この観測所の望遠カメラを使って沖合五十キロぐらいの距離で撮ったんだったかな……撮れたのは偶然だし、時々確認してるけどここ以外では規模も頻度も分からないかな」
「仕方ないか……じゃあ俺達はこの竜巻に今後も注意しようか、見せてくれてありがとう」
「うん……ところで、僕も一つ聞いてもいい?」
俺の膝の上に乗った投影機を拾い上げてディスクを抜き取りながら首を傾げるイサナをポカンと見つめ返す、寄り掛かっていた手摺から起き上がり……頷く。
「もちろん、なんだ?」
「シューゴ以外にさ、ここへ来た人っているの? もしくは、今後来る予定があるかどうか……分かる?」
「ああ……」
思わず喉の奥から絞り出すように呻く、すっかり頭から抜け落ちていたがイサナはあくまでもこのマントル海域の『漂流者』なのだ。最初に俺を救助隊と勘違いしていたようにここから出たい、帰りたいという気持ちが無い訳が無い。
「……いや、地上でここの事を知っているのは俺と他の研究所の皆だけだ。追加でここへ誰かが来る予定も無い」
──イサナがここに来てから地上では三十年が経っているんだよ、その一言が言えれば何でもない事の筈だったのに苦しい言い訳をしているかのようで変な罪悪感が胸を締め付ける。嘘をつきたくも、真実を突きつけるような事もしたくない俺の中途半端な返事を受け……しばらくの沈黙ののち、イサナの口から漏れたのは安心したかのような吐息混じりの声だった。
「そっか……良かった」
「良かったって……ガッカリしたとか、そういうのは無いのか?」
「あるわけないよ、もう五年もここにいるんだから殆ど住んでるようなもんだし……それよりシューゴが近くに落ちてきてくれて本当に良かった、もし回収できないような遠くだったら……今頃シューゴは、生きてないだろうし」
「生きてないって……それってどういう……?」
罪悪感を誤魔化す俺の言葉を受け流しつつ投影機とディスクを棚に戻し、ソファから立ち上がりながらこちらを見つめるイサナの顔には悲し気な笑みが浮かんでいた。
彼を追って起き上がろうとするも俺の上半身はイサナの手によって優しく押し戻され、両足を挟み込み拘束するかのように覆い被さるイサナの吐息がかかるくらいに唇がぐっと耳元に近付き、思わず背筋に電気が走ったかのようにぞわりと全身を震わせてしまう。
「ね……もう一つの質問の方も、知りたい?」
「も、もう一つ? て……いうか、近いって……!」
押し返そうとイサナの肩に手を置くがそれもなんだか拒絶しているようで悪い気がして力が入らず、そんな俺の心情を知ってか知らずか耳元に直接、滑り込むように小さな笑い声が響く。
「シューゴの匂いはなんていうか……濃いね、暑い日の熱気みたい」
「なんだよそれ、よく分かんないけど絶対良い意味での表現じゃないだろ……臭いなら、早く離れなって」
「臭くないよ、僕は好きだな。自分以外の人の匂いって……ここじゃ嗅げないからさ」
ぼそぼそと囁かれる声に耳がむず痒くなりながらもハッとする……三十年という数字に囚われてばかりいたが、五年もの間一人っきりというのは十分すぎる程の孤独だ……であれば多少距離感が狂うのも仕方ないかもしれないし、初対面から異様に優しく接してくれたのもそのせいだったのかもしれない。
「俺もこんな近くで人の匂いを感じたのは久しぶりだよ、まぁ電車とかで嗅ぐ人の匂いが良い匂いだった記憶なんて無いけど」
「確かに、それはそうかも」
クスクスと笑うイサナの声に俺の口元も思わず緩む、今ここに漂う香りは俺とイサナと機械たちの鉄っぽい匂いだけ……だが決して不快ではない、むしろ……のぼせかけた考えを首を振って振り払うと、気分を落ち着けるように深く深呼吸をする。
「ところでもう一つの質問って……ここが深海魚に襲われずに残っている理由だよね? 教えてくれるの?」
「……うん、シューゴには何でも教えてあげるよ」
体を起こした事で頬が若干赤らんだイサナの顔が視界に映った、やや距離が離れてホッとしたとはいえ俺の腰辺りに馬乗りになっているような姿勢なので、これはこれで心の中で沸き上がるものがある。
「そこ、爆雷の操作盤なんだけど……一から八までの数字が書いてあるの、見える?」
「ん、ああ……レバーが並んでるやつだよね? 分かるよ」
イサナの指先を視線で追うと横に長い長方形の機械に八つのレバーが並んでおり、レバーの上部にはボタン、そして更に上にはそれぞれの番号が刻印されている。
頷いてみせると満足そうに笑ったイサナが俺の上から降り、八つのレバーの内一番右のレバーを下まで下げた……すると、レバーの上の八のボタンが緑色に点灯したではないか。
「爆雷の発射の仕方は簡単だよ、こうやってレバーを下げて……光ってるボタンを押せばそれだけで発射出来るんだ、間違えてレバーを下げちゃっても上に戻せば再びロックもかかるしね」
その言葉通りもう一度レバーを上に戻すとボタンの光が消えた、確かに操作自体は単純なようだ。
「さ……やってみてシューゴ? レバーを下げて、八番の爆雷を発射してみて」
「は……いや、深海魚もいないのに無駄に撃つのか? さすがにもったいないような……」
兵器の効きが深海魚に対して薄い事は分かっているが、それでも供給が見込めない今の状況で資源を無駄にするべきではないと視線で訴えるが、イサナは笑みを浮かべたまま近くに来るよう手招きを繰り返している。
「大丈夫、この八番だけは特別でね……他は緊急時用の閃光爆雷が装填されてるんだけど、この八番は違うものが装填されてるんだよ」
「違うもの……? 何が装填されてるんだ?」
「主に金属ゴミかな、空いた缶詰だったり削り取った錆をまとめたものだったり……だからほら、怖がらないで?」
怖がらないで、その言葉が安い挑発なのは百も承知だが気が付けばゆっくりとソファから立ち上がっていた。もちろん腹を立てた訳では無い、今のはただイサナが俺に行動を起こす理由をくれただけだ……その証拠に立ち上がる俺を見つめるイサナの視線は心底嬉しそうだ、悪戯が成功する直前のようにわくわくとしているようにも見える。
覚悟を決めるとレバーに手をかけ、下ろした。再び点灯したボタンに指を伸ばし……最後の確認とばかりにチラリとイサナの方を見ると、俺の視線に答えるように笑顔のまま頷いた。
「っ……ええい、もうどうにでもなれ!」
ボタンを押し込むと観測所内に炭酸飲料を開けた時のような空気の抜ける音が響き……すぐに聞こえなくなった。
「……今ので、終わり?」
とんだ肩透かしだ、緊張していた俺が馬鹿みたいじゃないか……別段楽しい訳じゃないが自分を奮い立たせるために笑ってみせると不意に観測所内が小さく揺れ、思わずよろめく。
「な、なんだ……?」
「来たね……さ、上に行こう? 会わせてあげる」
「上? 会う?……誰に?」
よろけた俺の手を取って支えてくれたかと思うと、そのまま梯子の方へと歩き出したイサナに訳が分からず質問を繰り返す俺に彼は嬉しそうに笑ったまま『行けば分かる』と返し、するすると梯子を上っていった。
到着を知らせる無機質なベルが鳴り響き、開かれた昇降機の扉の向こうは俺が知っている屋上とは様子が一変していた。最初に目が覚めた時は野ざらしだった筈なのに今はドーム状の屋根が周囲を覆っており地面に埋め込まれたライトが点々と明かりを放ってはいるが、それでも薄暗い。
「……見せたかったのって、この屋根か?」
「あはは、まさか。さすがのシューゴでも心の準備ぐらいは必要かなって」
「心の準備……?」
不穏なワードに首を傾げる俺に笑いかけるとイサナがブザーを止めた時と同じ黒いデバイスを取り出し、操作した。すると暗かった天井から外のオレンジ色の光が差し込み始め……その眩しさに思わず手で目元を覆う、屋根を開いたのかとも思ったがそれにしては風が無いしよく見れば空に格子状の黒い線が見える。
「これってあれか、研究所のと同じ外のカメラで撮影した映像を内側に映してるって……言、う」
最後まで言葉を紡ぐ事は出来なかった。一度見た外の景色の中に明らかに異様な存在がこちらを見つめている事にようやく気が付いたからだ。
「あ……あ」
正面に四つ並んだ淡く緑色に光る眼、竜のような形状の頭部から生えた二本の角の間では時折電気が音を立てて走っており……体色は色鮮やかな青と緑が入り混じり、首元から水面から突き出した尾の先端に至るまでフリルのようなヒレがついており、それはまるで着物を着こなしているかのような優雅さを醸し出している。
何より異様なのはその胸部だ、縦に三つ二列にならんだそれらは指が異様に長いが人の手のようにも見える……アレは魚と言っていいのか疑問は尽きないが、こちらを静かに見つめるビルよりも遥かに大きなソレは間違いなく……巨大深海魚の一種だった! あまりの衝撃で動けなくなっている俺と巨大深海魚の間に割って入るようにイサナが立ち、にこやかな笑みを浮かべて両手を広げてみせた。
「紹介するよシューゴ、この子の名前はエイト……僕やここが今日まで行き残っているのは、この子が守ってくれていたからなんだよ」