第十四話 深海のパレード
「その……変な事を聞くようだけどさ、イサナって……男だよね?」
何をするにしてもまずはお腹に何か入れようというイサナの案に同意しガス台で沸かしたお湯をカップラーメンに入れながら不意に頭に浮かんだ疑問を問い掛けると、一足先に食べていたイサナが盛大にむせた。
「ゲホッ! ゴホッ!……ああもう、シューゴが変な事言うから変なとこはいったじゃんかぁ……」
「ごめんごめん、それで……どっちなの?」
「男だよ! 決まってるでしょ!」
ソファを手で叩きながらイサナが不満の声を張り上げる、『天ヶ瀬イサナ』という名前だけしか聞いていなかったので万が一ぐらいの確率で同名の別人である可能性もあるかと思ったが……やはり、その線は無いようだ。
お湯を注いだばかりのほんのり温かいカップラーメンを手に目の前の青年を改めて眺める……人の外見をとやかく言うのは悪い事だと分かってはいるが、見れば見る程にイサナには目を惹きつける不思議な魅力があるように思える。中性的というにはあまりにも女性寄りな端正な顔立ちに綺麗に染まった深く青い髪、同じく青に染まった瞳も実に魅力的だが……今はその瞳は俺をジトリと見つめている。
「やっぱり変かな? この髪とか、目とか……」
「……えっ?」
不意に投げかけられた問いかけに思わず変な声が漏れた。先程までの威勢はどこへいってしまったのか、目の前で毛先をいじりながら不安そうな表情を浮かべるイサナはひどく弱々しいものに見えた。
「いや、変とかじゃないし……俺は綺麗だと思うよ」
「っ……そ、っか」
俺の言葉に安心したのかほんのりと嬉しそうに笑みをこぼすイサナが小さく頷き、食事を再開した。それを見て自分の分の蓋を開けると、温かな湯気に混じって魚介の濃い磯の匂いが周囲に広がる。
「それにしても、名前しか分からなかったから勝手に日本人だと思ってたけど……どこの出身なの? それとも、ハーフとか?」
「絶対言うと思った……残念だけどどっちも外れだよ。僕は日本人だし、ハーフでもない……この髪と目は、こっちに来てからだよ」
「そうなの?……こっちに来てから染めたって事?」
ラーメンに息を吹きかけ、冷ます間の何気ない質問のつもりだったが予想外の答えに麺は再びスープの中へと戻っていった……こんな場所に持ち込める物にも限界があるだろうし、それに髪だけならともかく目までとは……理解が出来ず首を傾げているとイサナはゆっくりと首を振った。
「そうじゃないよ、染めたんじゃなく……染まったの。ここに住んでどのくらいの時だったかな……もう忘れちゃったけど、ある日を境にどんどん髪の色が青に染まっていって……気が付けば、目の色もこうなってたんだよ」
「は……? ここで過ごしてるだけで? 何かした、とかでもなく?」
「うん、それに何だか記憶がおぼろげだけど……顔とか、体の感じも前はこうじゃなかった気もするんだ……なんて、さすがに気のせいだよね?」
胸元に手を当てて困ったように笑うイサナに俺は返事が出来なかった。彼の纏う雰囲気や仕草、息遣いまでもが俺の目にはどうにも神秘的に映り……端的に言うと、見惚れてしまっていた。
「……シューゴ? ねぇ、どうしたのシューゴ?」
「んっ……ああいや悪い、ちょっとぼうっとしてた」
「大丈夫? 気分が優れないようなら休んでも良いし、必要ならメディキットを持ってくるよ?」
「平気平気、急に環境が変わったから体が驚いてるだけさ」
心配そうにこちらを覗き込むイサナと目を合わせないように手を振って誤魔化し、すっかり伸びてしまった麺を流し込む……一体俺はどうしてしまったと言うんだ、綺麗な外見である事は最早否定しようが無いが、それでも男に対してこんな気持ちになるとは……。
「そう?……じゃあさ、次は僕がシューゴの事を聞いてもいいかな?」
「俺の? いいけど何を話せば……聞いて面白い話なんて特に無いぞ?」
それでもいいからと興味津々な面持ちで迫るイサナに折れた俺はここへ来る事になった経緯をかいつまんで話した、しかしイサナの興味は研究所に関する事ではなく更にそれ以前の俺の私生活についての事だったらしく、つまらない……本当につまらない事ばかりを話した、どこのコンビニのこんな飲料が美味しかっただの興味で買ったインスタントの激辛ラーメンが辛すぎて腹を壊しただの……ただでさえ特筆する事など無い俺の人生の中で最もつまらない部分だと思っていた話にイサナは次々と質問を投げかけ、心底嬉しそうに笑いながら聞いてくれた。
「はー、笑ったぁ……実はさ、シューゴのカプセルに積んであった食料品の中に気になる物がいくつかあったんだけど……僕も食べてもいいかな? とりあえず一通りはそこに運んだんだけどさ」
イサナの指差すガス台の脇には言われてみれば見た覚えのある頑丈そうなケースがいくつか積み上がっていた、ケースの中身は食料が主だが他にもいくつかの道具類や予備の部品などが入っている。
「忘れてた……もちろんいいよ、じゃあ次に腹が減ったらあの中から適当に……」
すっかりくつろいでしまっていた俺の言葉を遮ったのは下から断続的に響くブザー音だった、周囲が静かだった為によく響くその騒音に思わず立ち上がる。
「な、なんだ!? 何の音!?」
「大丈夫だよシューゴ。それにしても、もうそんな時間なのかぁ……楽しくて時間が経つのが早いなんて久しぶりの体験だなぁ」
イサナがポケットから取り出した小さな黒いデバイスのようなものを操作すると鳴り響いていたブザーが止まり、辺りは再び静寂に包まれた……デバイスをポケットに戻したイサナは深海を見渡せる大きな窓の前に立つとこっちに来るよう俺に手招きをした。
「上で見たオレンジ色の海を覚えてる? ここは朝も昼も夜も無いし時計も正確な時間を表示しない……だから、僕らに今が何時なのかを知る術は無いんだけど……『彼ら』だけは毎日一回、決まった周期で姿を現すんだ。僕らにとってはそれが一日の終わりを告げる夜の帳代わりって感じかな」
「……彼らって?」
「口で説明してもいいんだけど……ほら見て、来るよ」
イサナの隣に立って窓から深海を見渡すが、最初に見た時と変わらず深い闇が広がっているだけにしか見えない……もしやからかわれたのかと視線を窓からイサナへと移そうとした瞬間、低く小さな震動が耳に届いた。機械の駆動音のようにも聞こえるそれは徐々にその大きさを増し……やがて深い闇の中に一つの小さな緑色の光が目に映り、あれはなんだと口を開く間もなく横薙ぎの花火のように次々に窓の前を煌びやかな光が切り裂くような轟音と共に過ぎ去っていく。
「な、なんだこれ……魚!? とんでもない数だ……!」
「『群れ』だよ、でも普通の群れじゃない……よく見て、同じ種類の魚ばかりじゃないでしょ?」
その言葉通り目の前を通り過ぎていく魚はどれも形も違えば大きさもまばらだ、共通点と言えば全員がそれぞれの色に光っている事ぐらいか……パレードのような彼らの光に言葉を失ったまま目を奪われていると轟音が徐々に収まっていき、線香花火のような光を放ちながら水中をふわりと舞うように泳ぐ魚たちを最後に窓は光を失い……窓の向こうは再び深い闇を映した。
「……気に入った?」
自分でも気付かない内に窓に両手をついて深海を眺めていた俺の視界に入り込むように窓に寄り掛かり、小首を傾げながら問い掛けるイサナに俺は黙って頷く事しか出来なかった……心から断言できる、地上で見たどんな綺麗な光景もあの光る深海魚たちの舞いの前では霞んでしまうと。
ふと目を覚まし、二段ベッドの上から下にいるイサナの顔を覗き見ると静かな寝息を立てていた。結局、あの後も話してばかりで観測員らしい事は何もせずに終わってしまった……イサナが言うには周囲の海域は穏やかで、殆どがこんな日ばかりらしい。
結局巨大深海魚の事もこの観測所が何故無事なのかも、地上では三十年が過ぎている事を話題に出す事すら出来なかった……いや、もしかしたらこれで良かったのかもしれない。だってそうだろう? もし真実を話してイサナが錯乱状態にでもなったら碌に話も聞けなくなるし、ここで無事に過ごせるかだって怪しくなる……なんて、自分を誤魔化す為の言い訳を脳内で繰り返し小さなため息をつく。
「えーと……? ああもう、慣れない機種は使い辛いな」
こっそりと隠しておいたマグフォンを手に悪態をつく、食料品のケースの中に一緒に入っていたものだ……市販品ではなく、宇垣が送信専用に改造してある。
マントル海域への転移地点を超えた段階で電子情報は大きなダメージを受ける事は分かっているが、それでもここの信号が研究所に届いた事からも全く届かないわけでは無い……そこで作られたのがこの送信専用のマグフォンだ、難しい説明はよく分からなかったがこれなら安定してメッセージを送信出来る可能性が高いらしい。
ちなみに研究所からここへのコンタクトは全て失敗しているので地上と相互に連絡を取り合う事が絶望亭である事は地上にいる頃から聞かされていた、正直心細いが……思ったよりも平気でいられるのは間違いなくイサナのお陰だろう。
「容量を最小限にする為に文章は簡潔に短く……だっけか、案外難しいもんだな」
『イサナとの合流に成功、観測所は無事。時間の感覚に齟齬あり、自覚のある経過年数は五年とのこと』
「……硬すぎるっていうかなんか定期報告みたいだな、いや定期報告なんだけどさ」
せっかくの記念すべき一回目のメッセージなのだからもっとフランクというか、読んだ皆がガッツポーズをとれるような内容にすべきだろうかなどとしばらく考えたが、一向に良い案が浮かばなかったので諦めてあくび交じりに送信ボタンを押した。しばらく待っても送信失敗のメッセージは出なかったので安心してマグフォンをスリープ状態にするともう一度大きなあくびをして布団に潜りこんだ。
瞼を閉じると先程の群れの姿が瞼の裏に現れ眩い光が舞い踊る。どこか浮かれているのか、これからのマントル海域での生活に胸を躍らせている自分がそこにいた。