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第十三話 深海の刻む時

「いいかい? 水を取って来るから、君はそこで大人しくしているんだよ?」


「あ……う」


 上手く呂律が回らない……視界もハッキリしたりぼやけたりを繰り返しているし、耳も水が詰まっているかのようで青年の声がくぐもって聞こえる。


「う……おぇぇ……!」


 カプセルの縁に手をかけて体を起こそうとすると途端に強烈な吐き気に襲われ、堪える暇も無くカプセルの外の床に向けて盛大に吐き散らかしてしまった、視界がグルグルと回って起き上がっていられず縁に置いた腕に突っ伏してしまう。


「わっ……だから大人しくしてって言ったのに、大丈夫? 僕の声は聞こえる?」


 戻ってきた青年が驚きの声を上げながら俺の背をさすってくれた、どうにか頷いて答えながら目の前で吐くのはまずいと思い何とか堪えようとするが依然として酷いめまいは続き、逆流する胃の内容物は次々にと上がってきている。


「いいから、大丈夫だから全部出し切っちゃいな……変に我慢すれば辛い時間が伸びるだけだよ」


 背中に触れる柔らかな感触と共に耳元で囁かれる優しい声色に思考能力の殆どを失っていた俺は素直に従い尚も盛大に吐いた、吐瀉物は床を汚すだけじゃなく彼の服にもかかったかもしれない……それでも青年は俺が落ち着くまでの間、時折俺の口に水を注ぎ入れつつずっと傍にいてくれた。




「……本当にごめん、全然我慢出来なくて……」


「いいって、僕が大丈夫って言ったんだからさ」


 吐き疲れた俺は気が付かない内に眠ってしまっていたようだ、目を覚ますと周囲にはあれほど盛大に撒き散らした吐瀉物の跡は無く、おぼろげな記憶とは着ている服の違う青年が俺の眠るカプセルの傍に折り畳み式の椅子を置いてこちらを眺めていた。


「気分はどう? まだ吐き気とかどこか痺れたりとかそういうのはある?」


「いや……もう大丈夫、かな。しっかし……まさかここまでキツイとは、聞いてた以上だ」


「聞いてた以上?」


「ああ、カプセル酔いだよ」


 カプセル酔い、ナノマリナーを注入された俺の体は深海の水圧にも単身で耐える事が出来るが猛スピードで投射されたカプセル内の急激な圧力の変化で到着直後は心身に異常をきたす事があると帆吊に教えられてはいた……多少気分が悪くなる程度だと思っていたが、まさかここまでとは……。


「……? とにかく、じきに夜になる。ここは冷えるからね、動けるようなら下に行こう。手を貸そうか?」


「ま、待って……その前に、ここは一体どこ?……それに君は……?」


「え?……ねぇ君、本当に大丈夫かい? てっきり救助隊か何かだと思ってたんだけど……事故にでも巻き込まれたの?」


 席から立ち上がった青年を慌てて呼び止めると、青年が心底心配そうな表情を浮かべながら首を傾げた。救助隊という言葉に俺も首を傾げそうになったが考えてみれば無理もない、巨大深海魚が出現したのは実験が凍結された……つまり彼がここへ送られてから数年後だ、観測員の事も含めて知っている筈が無い。


「あ、いや……俺は観測員だよ、救助でも警察でもなくて悪いけど……」


「観測員?……ううん、色々と気になるけど詳しい事は下で聞くとして。それならまずはお互いに軽く自己紹介をしようか」


 青年が両手を広げると次の瞬間周囲が眩しいオレンジ色に染まり、思わず片腕で目を庇う……目の前の青年は慣れているのか眩しい光に少し目を細め、どこからか吹き込んだ風に深い青色の髪を揺らしている。


「僕はイサナ、天ヶ瀬(あまがせ)イサナだよ……そしてここは第四号深海観測所、元々は巨大な深海魚の存在や痕跡を発見する為の施設だけど……今は、ここの魚達が『上』に行かないように見張ってる場所って感じかな」


 『上』という言葉に弾かれるように周囲を見渡すと、そこに広がっていたのは夕日に照らされたように明るいオレンジ色に染まった海だった。頬に当たる風はほんのり暖かく、見上げれば広大な空が広がっている。


「……凄い景色だな」


「でしょ? 僕もよくここで考え事をしたりするんだ……それで、僕は君の事を何と呼べばいいかな? 空から来たお兄さん?」


「え、あ……俺は修吾、塩見修吾だよ。呼び方は……天ヶ瀬さんの好きに呼んでいいよ」


 いつの間にか横に立って俺の顔を覗き込んでいた青年……イサナに答えると何がそんなに嬉しいのかニコリと笑った、風に靡く単に染めているだけとも思えない綺麗な髪と同じ色に輝く瞳に思わず目が奪われ、意味も分からず胸が高鳴ってしまう。


「分かったよシューゴ、これからよろしくね。それと、出来れば僕の事はイサナと呼んで欲しいな……あんまり名字で呼ばれるのは好きじゃないんだ」


「ああ……じゃあ、イサナ……こちらこそよろしく」




「それにしても……まさか僕以外に人が来るなんてね、観測員……だっけ?」


 俺が目覚めた巨大なヘリポートのような屋上の隅まで移動すると地面から突き出た昇降機の前に立ち、呼び出す為にボタンを押してイサナがこちらに振り返った、しげしげとこちらを眺められて何だかむず痒いような不思議な感覚だ。


「ああ、説明すると長いけど……目的はイサナのやってる事とそう変わらないかな」


「って事は深海魚の?……シューゴは研究員なの?」


「いや、俺は元々は普通の会社員で今は……あれ、言われてみればどうなんだろう?」


 ふと言葉に詰まってしまった、自分のデスクで新商品の飲料を飲んでいたあの時期が遠い昔のように思えてしまう、ここから帰ったところであの会社に戻る気はもう無いが今の俺の立場はかなりフワフワとしている気がする。

 俺の事については追々考えようと頭の隅に追いやり、ここへ来た理由や経緯をイサナに軽く説明する事にする……地上に巨大深海魚が現れた事、それに伴って深海研究が重要視され俺のような観測員という存在が生まれた事などを順を追って説明していく。


「元々は軍属の人の中から希望者を募ったりもしてたんだけどね……今は一般人の中から観測員を選抜してるんだよ、それで不幸にも俺が選ばれちゃったって感じかな」


「そうなの!?……はぁ、まぁ五年も経てば上も色々と変わるって事かぁ」


「……五年?」


「ん、どうしたの?」


 怪訝そうな表情を浮かべるイサナに何でもないと手を振ると、その時丁度昇降機の到着を知らせる音が周囲に響いた。昇降機に乗り込みイサナがボタンを操作すると昇降機は下降を開始し……しばしの沈黙が俺達を包み込んだ。

 ──一体何が起きている? この観測所が投射されたのは約三十年だ、となれば同時にここに来たであろうイサナは五十近い年齢という事になる……が、天ヶ瀬イサナと名乗るこの青年はどう頑張っても幼い顔立ちも相まって二十代以上には見えない。


「あー……その、イサナって今いくつなの? 随分若く見えるけど……」


「今年で十六だよ、ああそれでさっきから変な顔してるんだ? 上に残ってる写真とは随分雰囲気が違うでしょ、僕?」


「いや、イサナに関する資料は全然残ってなかったよ。だから顔とかは……今初めて見た」


「へぇ……? じゃあ所長が気を利かせてくれたのかな、混乱してるかもしれないけど僕が天ヶ瀬イサナで間違いないよ」


 今十六という事は……イサナの言葉をそのまま受け取るならここに来たのは十一の時という事になる、どんな理由があったにせよ青海前所長は中学生かそこらの彼をこの観測所に乗り込ませたというのか?


「なぁ所長って……青海所長の事でいいんだよな?」


「そうだよ、シューゴと同じ……お、着いたみたいだね」


 浮かぶ質問は尽きなかったが目的地への到着を知らせるベルがイサナへの更なる質問を遮った、開かれた昇降機の扉の向こうには二人でも十分すぎる程の大きさの部屋が広がっている。大きく円形に広がっており半分は二段ベッドや食事用のテーブルセットなどが置かれ、低い階段を挟んだ反対側には広々としたキッチン、調理器具なども揃っており綺麗に整頓されている。


「ここが今日から僕達が過ごす部屋さ、二段ベッドは僕が下を使っちゃってるからシューゴは上を使うといいよ。毛布とか必要そうなものは後で持ってくるね」


 そう言ってイサナが指差した二段ベッドは俺が知っている木製のものとは違って金属が多く使われており非常に頑丈そうだ、既に布団が敷かれているがきちんと洗われているらしく近付くだけで良い匂いが鼻を掠めた。


「……凄い。本当に深海なんだね、ここ」


 他にも寝心地の良さそうなソファに大きめのテーブルやガス台など生活に必要なものが揃っているが何よりも俺の目を引いたのは部屋の側面に嵌め込まれた大きな円形の窓だ、少し触っただけでも分厚い事がよく分かるその硝子窓の向こうでは深く暗い深海がどこまでも広がっている。


「そりゃそうさ、だから残念だけど換気は出来ない。奥にはシャワー室もあるから自由に使っていいよ、下に降りてもいいけど機器のボタンとかは勝手に触らないでね?」


「……下?」


 窓から視線を離してイサナの方へと向き直り、その視線を追うと確かに部屋の隅に更に下へと降りられそうな梯子が伸びていた。


「うん、下にはマリンドローンの操作盤とかソナーとか……あとは爆雷の投射機があるから、下手に触ると危ないんだよね」


「爆雷!?……って爆弾だよね? 他のは多分俺でも扱えるけど……深海魚に効くの?」


「爆弾とは言っても音と光と臭いで近寄らせないようにする威嚇用のものだよ、っていうかドローンとか使えるの? 嬉しいなぁ! 一人だと手が回らなくて大変だったんだよ」


 差し出された手を握り返すとイサナは嬉しそうにニコリと笑った、到着早々分からない事だらけだが……とにかく、ようやく俺のマントル海域での一日目が始まった。

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