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第十二話 青い瞳の青年

 水中というのは好き嫌いなく全ての音を飲み込んで真の静寂というものを感じさせてくれる、耳に届くのは時折水底から上がって来る空気の泡の音と自らの呼吸音のみ……最初こそこの静寂がとてつもなく寂しく、怖いものに感じていたが今はどこか落ち着く空間となっていた。


『聞こえるかい修吾君? 準備は出来てるかな?』


「大丈夫です宇垣さん、いつでも始めてください」


 僅かなノイズと共に耳に届いたのは最早聞き慣れた仲間の声、その声を合図に左手のデバイスを操作すると両手足のリングから小さな駆動音が響き始めた。


『よし……現在プールの設定深度は五十メートル、到達目標タイムは三秒二十五だ。今日からは水の設定を通常の海と同じ塩分濃度にしているから今までとは勝手が違う筈だ、まずはその違いに慣れるところから始めよう』


「分かりました……訓練を開始します」


 デバイスを更に設定しリングから発生する推力を上げると途端に体が大きくグラついた……なるほど、確かにこれは慣れるまで少しかかりそうだ。

 バランスを崩さないように体の芯を意識しながら姿勢を制御し……どうにか体がグラつくのを抑え込むと大きく深呼吸をした、頭の中で三つ数え……それまでまっすぐに保っていた体を突如一回転させるとそのまま頭を下にして水底に向けて急加速を開始し、すぐに眼前に現れた水底を素早く叩いた!


「っ……! どうですか宇垣さん!」


『──惜しい! タイムは四秒五十五だ、だが好タイムだぞ! 上出来だ!』


「あー残念、初速が甘かったかなぁ……!」


 水底から少しだけ浮き上がると体をゆっくりと回転させながら水平方向に泳いでいく……このトリトンスーツの扱いにも大分慣れたものだ、今では最高速度を出しても殆ど推力に引っ張られる事無く水中移動が出来るようになった。


『どうする、もう一度やるか? それとも次のテストに移ろうか?』


「次に行きましょう、海水での複雑な動きにもう少し慣れておきたいので」


『分かった、では次のダミーフィッシュを使ったトライデントの訓練に移行する』


「了解、トライデントを起動します」


 宇垣に返事をしながらデバイスを操作し、両腕に巻き付いた柔らかい金属チューブ……『トライデント』を起動する。なんとも仰々しい名前だが平たく言えば腕部一体型のニードルガンだ、拳銃やマシンガンなどの携行兵器が殆ど通用しない事は先の巨大深海魚で分かっているがこのニードルガンのチューブ型マガジンに装填されている注射針とは比べ物にならないぐらいに太い針全てには帆吊特製の麻痺毒が仕込まれている、実弾よりも効果が見込める点もあるが自然生物というのは例え微弱であっても極力毒を避ける傾向にあるので例え襲われても、俺が毒をもつ生物だと認識すれば即刻撤退するのではないかという狙いも含まれている……勿論襲われないのが一番である事には変わりは無いが、武器無しの丸腰で襲われるよりは格段に心強い。


『テスト開始、まずは三十匹のダミーフィッシュを投入する』


 両腕のトライデントがきちんと起動した事を確認していると頭上から差し込む照明の光が何かに遮られて更に暗くなった、見上げてみるとそこには鋭い歯がびっしりと並んだ大きな口を何度も開閉する魚の群れが俺に向かって一直線に突撃してきていた。


「……宇垣さん、何ですかあの怖い魚は?」


『知らん、また帆吊の奴が見たB級映画に出ていたモンスターでも参考にしたんだろうさ』


 俺と宇垣のため息が重なる、帆吊の発明や発想は天才的だとは思うが……どうにも美的センスというものが欠如しているとしか思えない、そう考えるとラブのあのビジュアルは相当な奇跡から生まれたものなのだろう。


「ふつーに怖いんでやめて欲しいんですけど……ねっ、と!」


 両腕を魚の群れに向かって突き出しニードルを連射する、射出された針は次々と魚の体を貫き群れがどんどんとまばらになっていくのが見てとれ……安心からか思わずホッと息を漏らす、以前のテストでは数はもっと少なかったが体が硬質で碌に針が通らず苦戦したのでその時と比べたら今回は随分と楽だ。

 とはいえやはり数が多いし体積が小さいので狙い辛く……なにより動きが速い! 俺のいる場所に辿り着くまでにもう少し数を減らしておきたかったが早々に無理だと判断し、リングの推力を上げてその場を離脱すると魚の群れで出来た黒い影が一瞬で今まで俺がいた場所を飲み込んだ、水底に体を打ち付けた個体もいるようだが……やはりその程度では止まってくれないらしい。


「……くっ!」


 速度を上げれば逃げ切れるがトライデントの精度が落ちてまともに当たらなくなり、かといって速度を下げ過ぎるとあっという間に魚の群れに追いつかれてしまう……それにこのプールは本物の海と違って狭い、幅約三十メートルの深さ五十メートルでは距離を取ろうにも限界がある。

 最高速度を保ちつつ華麗に戦えれば格好良かったのだろうが、今の俺の技量では加速と減速を繰り返しながら一定の距離を保って戦うのが精いっぱいだった。




『残り九匹! もう少しだ修吾君!』


「はっ……はっ……了解っ……!」


 完全に息が上がってしまっている、ヘルメット内のフィルターのお陰で常に新しい酸素が供給されている筈なのに……考えるまでも無い、これはスーツのせいなどではなく俺自身の体力の問題だ。

 更に数匹を串刺しにし、魚の数も見て数えられる程度になった……俺は必死に戦っているつもりだが、きっと見ている方はつまらない戦い方だろう……申し訳なさと恥ずかしさを感じながら目の前に見える残りを一気に撃ち貫く。


「はぁ……はぁ……ふぅー……」


 ようやく終わった……再び水のベッドに横になろうとするがその時、耳元の通信と敵の接近を知らせる警告音が同時にヘルメット内に響き渡った。


『残り一だ修吾君! 油断するな!』


「!?……ぐあっ……!」


 声と同時に背中に激しい衝撃、完全に油断していた俺の体はいとも簡単に吹き飛びプールの壁面に叩きつけられた。

 間髪入れずに振り返り眼前に広がる鋭い牙のびっしり生えた口を前に反射的に両手を突き出すと、噛みつかれる寸前で魚を受け止める事が出来た……が、問題が解決した訳では無い。

 さぁどうする、トライデントを撃つか? 馬鹿言え、運良く魚に当たればいいが自分の腕に当たる可能性の方が高い……腰の接地用アンカーはどうだ? 同じ事だ、自分の手を吹き飛ばす覚悟があるなら撃てばいい。


『宇垣! 今すぐ訓練を中止してください! 修吾が危険です!』


『しかし……! まだ修吾君が諦めている様子は無い以上俺達が止めるのは……!』


 通信から皆の言い争っている声が丸聞こえだ、体力の限界だし止めてくれるなら止めて欲しいが……だが心のどこかで反対の事を考えている自分もいる。


『怪我をしてからでは遅いです! 停止ボタンは……!』


『待って待って琴子ちゃん……あー、あー修吾君聞こえるー? 君のギブアップがあればいつでもその子は止めてあげられるけど……どうかな、もう限界かな?』


「……ふ、ふふっ」


 帆吊の甘やかすような、煽るような言葉に思わず口元に笑みが広がる……そうだ、俺がこれから向かう先にはもっと危険なものがウヨウヨいる……こんな小魚一匹に手こずっている場合ではない。

 改めてまっすぐに魚を見据えてしっかりと魚の上顎と下顎を掴み、残る力を振り絞って乱暴に魚の口を思いきり開く。


「おおお……らぁ!」


 俺の咆哮の後に残ったのは再びの静寂……無理矢理引き千切ったせいで魚の中身が色々とプールに浮かんでいるが、まぁ宇垣が掃除してくれるだろう。


『ふふ、よくできましたぁ。あとはこっちでやっておくから修吾君はプールから上がっていいよー』




『修吾! 怪我はありませんか!?』


「わっ!……大丈夫だよ、このスーツめちゃくちゃ頑丈だからさ」


 プールから出た俺に一番に飛びついて来たのはやはりラブだった、どこか怪我をしていないかとヘルメットを取った俺の顔をペタペタと触って確かめている。

 最初に着た時からこのスーツの耐久性には驚かされたがそれもその筈だ、このスーツの金属だと思っていたパーツは全て巨大深海魚から採取した鱗の一部を加工して作ったもので鱗パーツとボディスーツの間には深海魚の軟骨成分を混ぜた半液体状のジェルが仕込んであるらしい、お陰で衝撃はあっても体にダメージは全く無い。


「……お疲れ様でした、そのトリトンスーツも随分と使いこなせるようになりましたね」


「はい、青海さんの慌てる声のお陰でむしろ冷静になれましたよ」


「んなっ……!」


 顔を赤くして口をあんぐりと開けた青海の顔に思わず吹き出しながら横をすり抜け、プールサイドに設置してあるテーブルセットに腰掛けるとテーブルの上に置いてあった缶飲料を適当に選んで開け、中身を一気に流し込む。

 ──この二ヶ月で青海や他の皆との距離も随分近くなったように感じる、未だに宇垣が名前を教えてくれないのが疑問だがその小さな問題を除けばここの居心地も随分と良い。

 驚異的なのは二ヶ月前に仕込んだナノマリナーだ、低温の水中に居ても体温を自動で調節してくれるし怪我をしても本当に瞬間的に治してくれるだけじゃなく血と一緒に排出されたナノマリナーは自動で体の中へと戻っていくという優れものだ、そして何よりあの機械を引き千切れる程の筋力だ……最初こそ動揺したが今では新しい自分になったような高揚感すらある。


「そういえば青海さん、『天ヶ瀬イサナ』についてあれから何か分かりました?」


「……え?……ああいえ、彼については何も……以前にもお話した通り戸籍自体無いようで、存在そのものがあやふやというのが結論です」


 俺の問いかけに呆けたままだった青海がハッとし咳払いをしてから教えてくれた、この二ヶ月で彼女も随分と表情や雰囲気が柔らかくなった……『私って怖いですか?』と突然聞かれた時は何事かと思ったが、ただ単純に色々と不器用なだけだったようだ。


『巨大深海魚の出現の後は様々な情報が滅茶苦茶になりましたからね……それより以前に投射された六号機に乗り込んで今までマントル海で過ごしているとなると更新も出来ませんし、無理もないかと』


「それもそっかぁ……信号の内容そのままならその天ヶ瀬って人はもう四十近くなんだよね?……そんな人と一年も過ごすのかぁ、俺はてっきりラブか宇垣さんが付いて来てくれるんだとばかり思ってたよ」


『正直に言えば付いて行きたいんですけどね、ですが私は本体から離れすぎると活動出来なくなりますし……宇垣はナノマリナーに適応していません』


 何度か繰り返したこのやり取りの変わらない答えに小さくため息をつく、ナノマリナーの適応対象については帆吊も厳密には分かっていないと言っていた……機械を極限まで使わず生体である事に徹底した代償との事だが、やはり一人となると急に心細くなる。


「……そんな貴方に追い打ちをかけるようで心苦しいのですが……修吾さんの第六号観測所への投射日が決まりました」


 そう言って青海が差し出した封筒は、ここに来てから一番重く感じた。




 封筒を受け取ってからの一ヶ月は驚く程にあっという間に過ぎていった、最後の仕上げとばかりに訓練の内容はハードなものに変わっていったが皆が俺の事を考えて組んでくれたスケジュールだったので特に引っ掛かる事も無く数をこなしていき……たった三ヶ月の期間だったが俺の体は確実に深海に適応していった。


「……今回は怖がらせるのは無しですか?」


「ふっふーん、お望みとあらばー……と、言いたいところだけど今日は無し。修吾君が無事に帰ってきてくれたら嫌という程怖がらせてあげる」


 軽口を叩きながらも俺の体内の状態を表示しているデバイスを見つめる帆吊の目は真剣そのものだ、青海研究所の最深部に建造された一人用としては大型なカプセル型の容器……これが俺をマントル海へと連れて行ってくれる。


「少しキツイかもしれないが我慢してくれ、意識を失った修吾君に怪我をさせるわけにいかないからね」


「大丈夫ですよ宇垣さん、分かっていますから」


 俺の言葉に宇垣が頷くと同時に両腕・両足・腰の辺りにベルトが伸びで一瞬で体がカプセルに固定された……とはいえ俺が横になっているカプセルの中は全体的に柔らかく、ゆったりとした枕のようなものもあるので思ったより居心地は悪くない。


「……ラブ、今日までありがとね。色々あったけど……うん、本当に助かったよ」


 視界の端でフワフワと浮かびながらこちらを黙って見つめる小さな相棒に声をかけると一瞬で飛んできて顔に貼り付いた、このぐにぐにとした感触がしばらく触れないと思うと何だか恋しくなってくる。


『し……修吾の事は私が二十四時間一瞬たりとも見逃さずにモニタリングしていますから……! 向こうでも、貴方は一人じゃないですからね……!』


「うん……ありがとう」


 やがて帆吊の合図にラブが最後まで名残惜しそうにそっと離れ……ゆっくりとカプセルの蓋が閉じられた。


「青海さん、絶対に世界が驚くような情報とか持ち帰りますから……楽しみにしててください」


「……はい、必ずの無事の帰還を信じています」


 絞り出すような声で青海が返事をしたと思ったら、それきり口を固く結んで黙ってしまった。

 カプセルの蓋越しに皆の顔を眺めていると段々と眠たくなってきた……帆吊が鎮静剤の注入を開始したのだろう、俺が眠った後にこのカプセルは投射され……次に目覚める時はマントル海だ。


「座標指定……発射シークエンス……」


 皆の必死な顔を見ながら大きなあくびをし……やがて瞼の重さに耐えきれなくなった俺の意識は深い海の底へと沈んでいった。




 ……何かがぺちぺちと頬に触れる、まだ寝かせてくれと顔を振るが尚も頬を叩くのを止めてくれない。


「……い、おーい」


 聞き慣れない声、低くも無く高くも無く……だがどこか落ち着くようなそのハスキーボイスにゆっくりと目を開くと、そこに居たのは深海を映したかのように深い青に染まった髪と瞳をもつ一人の若い青年だった。


「おっ……起きたかい? まだ寝ぼけてるみたいけど……ふふ、あの世の一丁目にようこそ……なんてね」

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