第十一話 ただ彼女の為だけに
琴子ちゃんは小さい時から頭が良く、ああいう子を世界は天才と呼ぶのだろうと幼いわたしは子供心ながらに思っていた。
海洋学の権威を父にもった彼女は天才の血を学校の勉強でも遺憾なく発揮し、教室に張り出された成績表に書かれた彼女の名前を一番上以外で見た事が無かった。たまたま家が近かったこともあり、わたし達はよく一緒に遊び、仲もそこそこ良かったと思うが……学年が上がるにつれて引き離されていく彼女との実力の違いに敗北感を覚え始めたわたしは、次第に彼女と距離を置くようになった。
──忘れもしない、小学四年生の頃だ。夏休みの自由研究の発表で私は生まれて初めて金賞を取った。
一瞬、何が起こったか分からなかった……金賞? 金ってなんだ?……一番上だ! 彼女は……銀賞! つまり……私の下だ! その時わたしは生まれて初めての勝利に胸の奥から湧き上がる高揚感というものを実感した、安物の金リボンが貼り付けられた画用紙を力一杯に握りしめて彼女のいる方に向き直った……さぁ見せつけてやろう! わたしだってお前の上に立てるんだ、お前だけが一番じゃないんだ!
『凄いよ、なー! 本当におめでとう!』
『……え?』
何故お前が喜ぶんだ、何故お前がわたし以上に喜ぶんだ……しかし心からの満面の笑みを浮かべながら投げかけられた喜びと称賛の声は、わたしの心に宿っていた黒い影を一瞬で跡形も無く消し飛ばし……気が付けば大声を上げて泣きながら琴子ちゃんに謝っていた、ひたすらに謝るわたしを前に何の事か分からないのか彼女は困惑した表情を浮かべていたのをよく覚えている。
高校に上がって少しした頃、琴子ちゃんのお父さんが亡くなった。
以前からお父さんが研究の何かで失敗してひどく落ち込んでいるという話は聞いていたが、まさかこんな日が来るとは……担任から琴子ちゃんがしばらく休む事を説明された次の瞬間にはわたしは席を立ち、背中に突き刺さる静止の声を無視して学校を飛び出していた。
息を切らしながら琴子ちゃんの家に辿り着いた私は何度もインターホンを鳴らすが返事は無く、不用心にも扉に鍵もかかっていなかった……既に家はもぬけの殻、そんな最悪の展開が脳裏を掠めた私はいても経ってもいられずに靴を乱暴に脱ぎ捨て、飛び込むように家の中に入ると一目散に琴子ちゃんの部屋に向かい……唇を噛み締めながら扉を開いた。
『琴子ちゃ……っ!』
──そこに私の知っている琴子ちゃんはおらず、ただただ抜け殻のようになった彼女がパジャマ姿のまま、ベッドの上に倒れ込んでいた。
お父さんっ子だった彼女にとって最愛の父の死はそれほどまでに心に深い傷をつけたようだ、学の無い私にはチンプンカンプンだったがお父さんの研究の事や深海魚の事を話している時の琴子ちゃん眩しく……私は楽しそうにしている琴子ちゃんが大好きだった、どんな理由があったにせよ彼女から笑顔を奪った彼女の父親を私は許さない……今にして思えばこの瞬間からだったかもしれない、一生を賭けてでも青海琴子を支えようと心に決めたのは。
我ながらあの時の私は今までの人生で一番ウザかったかもしれない……少しでも暇さえあれば琴子ちゃんの部屋に通い、拒絶された日には固く閉じられた扉の前に座って一人で喋り続けた。スカート越しでもフローリングの床は冷たかったし、立ち上がってからしばらくはお尻の感覚が無かった……帰りの電車の中では次に話す話題をひたすら探し、家では彼女が立ち直った時に何でも教えられるようにと親が心配する程に勉強をした。
そんな彼女が一枚のデータディスクを手に私の前に立ち塞がったのは一体何日を過ごした時だったろうか? 早口だったせいで上手く聞き取れず、また内容もわたしには難しすぎて半分も分からなかったが要はお父さんの最後の研究のデータを見つけた、という事らしい。
深海の事も、巨大深海魚の事も本音を言えば私にはどうでも良かった……それは今でも変わらない、ただ琴子ちゃんが笑っていられる世界を守る事が私の人生なのだから。
扉の前に立ち、一度、二度……少し間を空けて三度ノックすると私の大好きな声が聞こえてきた。
「……帆吊さん?」
思わず口元がニヤケてしまった、この研究所でこんな変なノックをするのは私だけだと分かっていても名前を呼ばれるだけで、返事が返ってくるだけで堪らなく嬉しくなってしまう。
「だぁーいせいかーい! 修吾君へのナノマリナーの注入、終わったよー」
勢いよく扉を開いて部屋に入ると琴子ちゃんは隅に置かれた二人掛け用のソファに座って書類を確認しているところだった、二人掛けの筈なのに半分以上が脇に積まれた書類で埋まっている。
「お疲れ様です、拒絶反応の強さはどうでした?」
「それがねぇ、思ったよりも痛みが強そうだったからぁー……鈍化剤使っちゃったぁ」
「えっ……! あっ……!」
琴子ちゃんが慌てて立ち上がったせいで微妙なバランスで立っていた書類の山は大きな音を立てて崩れ落ちてしまった、慌てて書類をかき集める琴子ちゃんに仕方ないと溜め息をつくと私も拾い始める。
「……良かったんですか? その、鈍化剤は使わないと最後まで言っていたじゃないですか……?」
「そーだねぇ……なんでだろー?」
ナノマリナーが血管内を循環し始めてからすぐに彼は気絶したようだったが、その後も激しい痛みが襲っているのか何度も痙攣を起こしていた、ラブはすぐに鈍化剤の使用を提案したが私はすぐには決断できず……だが、最終的には使用してしまった。
鈍化剤……ナノマリナーの性能を一割ほど下げる代わりに対象への定着率を上げる薬だ、彼のナノマリナーへの適合率は八十八パーセントほど……手放しに高いと言える確率ではなかったが、私は例えほんの一割でも任務の成功率が下がりかねないこの薬を使うつもりはなかった……例え長期間の酷い拒絶反応に観測員が苦しむ事になっても、わたしの目的はあくまでも琴子ちゃんの研究が世界に認められる事なのだから。
──でも私は薬を使ってしまった、拒絶反応が一時的なものなのか慢性的なものなのかを判断する前に……だ、正直今でも自分のやった事が信じられないでいる。
「彼の……塩見さんの事を、少しは仲間だと認められるようになりましたか?」
「っ……あっちゃー……いつから?」
書類をまとめ、今度は崩れないように低く積み上げて床に並べ……再びソファに腰掛けた琴子ちゃんが苦笑したような表情でこちらを見つめている。
「さぁ、いつからだったでしょうか……でもある時気付いたんですよ、帆吊さんはいつも無邪気に笑っているように見えますが……その実、他人の事を全然信用していない事に。これでも悩んだ時期もあったんですよ? もしかしたら私の事も……って」
「そんな事無い! わたしはずっと琴子ちゃんの事だけを思って……!」
反射的に大声を出していた、思わずハッとして口元を覆うとわたしを見つめる琴子ちゃんの口元に笑みが広がった。
「分かっていますよ、私は人の心の機微に敏感な方ではありません……むしろ鈍いとすら思いますが、私の傍にはいつも帆吊さんがいましたから……貴方の事だけは分かっているつもりです」
「それは……そんなの、ずるいよ琴子ちゃん……」
胸の鼓動がうるさいくらいに鳴り響いている、大好きな相手にこんな事を言われて嬉しくない筈が無い……まっすぐに顔を見る事が出来ず、ソファに座る彼女の後ろに回り込むがいつもの調子で抱き着く事が出来ず、両肩に手を乗せるのが精一杯だった。
「ふふ……駄目ですよ帆吊さん、それは違いますよね?」
「えっ?……わっ!」
肩に乗せた私の手を後ろ手に掴んだと思うと肩から離し、密着するようにそっと引き寄せた。
鼻先が触れた彼女の首元からはいつもふざけて抱き着いた時よりも濃い匂いがした、腕をピンと伸ばしていたせいで力の抜けた手は完全に琴子ちゃんの胸に触れてしまっているが、それを気にしている素振りは無い……体内の鼓動が更に激しさを増し、彼女に対する愛情がとめどなく湧き上がっているのを感じる。
「……琴子ちゃん」
「はい、なんですか?」
「……大好き」
「……ええ、よく知っていますよ」
彼女に対する想いを伝えたのはこれが初めてではない、そして今と違う言葉を返してくれた事は一度も無いが、これでいい……これが私達なのだ。
「帆吊さんは……鈍化薬を使用した事で塩見さんの帰還率にどのくらいの影響が出ると思いますか?」
「ゼロだよ、影響なんて出ないし……出させない。私と恵ちゃんで絶対に無事に修吾君を帰還させてみせるから」
「はい、信じていますよ。ですが……塩見さんの前で宇垣をそう呼ばないように気を付けてくださいね?」
「……やっぱり怒るかなぁ? 良い名前だと思うんだけどー」
「ふふ……まぁ本人が隠したがっているのでせめて私達は内緒にしてあげましょう、ね?」
口元に人差し指を当て、悪戯っぽく笑う琴子ちゃんに私も思わず笑い返し……頷く。
何も変わらない廊下の筈なのに所長室を出た私には周囲の景色が全く違うものに見えた。
今も手に残る彼女の感触……正直に言えばかなり惜しいが、今の私にはやらなければならない事が沢山ある。
「……さぁて、私の本気を見せて今度はたーっぷり褒めてもらおうかなぁ」
──修吾君、きっと君には自覚なんて無いのだろうけれど……君には私を本気にさせた責任をとってもらわなくちゃならない、理不尽? そんな言葉は聞いてあげない。
君は私に、琴子ちゃんに……この研究所に何か新しい風を吹き込ませる存在な気がする。確信めいた自分の中の直感に思わずニヤリとしてしまう、さて……この明るい未来を掴む為に、何から始めよう? 自分でも気付かぬうちに軽くなっていた足取りから、小気味のいい靴音が通路に小さく響く。