第一話 予期せぬ訪問者
少し考えてもみて欲しい。世の中に生物ってやつは一冊の図鑑じゃ収まらない程の種類がいるが、果たして人間ほど変化を求める生物は他にはいないのではないだろうか?
大人へと成長する体や精神の変化やいつも通る道に見た事の無い店が出来るなど、目新しさに対する欲求……まぁどの変化を嬉しいと感じるかは人それぞれだ、事実として俺は見た事の無い店が出来ている事に気付いたとしても通い慣れた店で飯を食う、俺が好きな変化はもっと小さいものだ。
故に乗り慣れた電車に乗って見慣れた会社に向かい、その中にあるいつものオフィスのいつものデスクに座り愛用している鞄から飲み物を一つ置き、最早クセになっているため息をつく。
ここへ来る途中に買った飲み物のカップには『新発売』と書かれたシールがデカデカと貼ってあるが、表記されている名前やプリントされている果実の絵からも味は容易に想像できる、だが……それでいいのだ、俺が求める変化なんていうのはこのぐらいがちょうどいい。
「塩見君!……ああ良かった、もう来ていたか!」
「……課長? どうされたんですか?」
何やら焦った様子でオフィスに飛び込んで来たのは俺の上司だった。呆ける俺の近くまで辿り着く頃には体力が尽きたのか激しく肩で息をし、額には脂汗が滲んでいる。
課長は物腰も柔らかいし話しやすく、物事を円滑に進める場面を何度も見ていただけにこんなにも焦っている様子は初めて見た。まさか、気付かない内に何か大きなミスでもしてしまったのだろうか……飲み物のカップに突き刺したストローを濡らす事も忘れ、朝から何とも気が滅入りそうだが混乱していても始まらない、恐る恐る席から立ち上がり……課長の次なる言葉を待つ事にする。
「……落ち着いて聞いてくれ塩見君、君に会いたいという人達が来ている」
「……はい? 私にですか?」
とにかく早く応接室に向かえという課長の今までに感じた事の無いプレッシャーに押し出されるようにオフィスを飛び出してしまったが……一体何が起こっているんだ? 百歩譲って人事部にでも呼び出されるのであればまだ分かるが、呼び出し先が応接室という事は外部の人間だ。それも課長をあそこまで焦らせる人物?……駄目だ、いくら考えても身に覚えが全く無い。
「よぉ塩見、聞いたぜー? 警察からの呼び出しだって?」
「アホか、んな訳無いだろ……」
「だろうなー、お前にそんな度胸があるとは思えねーわ! はははっ!」
「いっ!……つぅ」
通路をすれ違った同期がゲラゲラと笑いながら背中を叩いて去っていった、警察だなんて縁起でもない……身に覚えも……無い筈……だ。
「いやいや、まさかね?……いやいやホント、勘弁してくれ……」
オフィスを出た時よりも幾分重くなった足を引き摺りながらも何とか応接室の前まで辿り着くと服装を直し、深く深呼吸すると生唾を飲み……意を決してドアノブを握った。
「失礼します、お待たせ致しました」
今作れる全力の笑顔を浮かべながら入室すると目に飛び込んできたのは二組の男女の姿、スーツを着た大柄な男性は腕を組みムスっとした表情で椅子に深く腰かけたままこちらを見ようともせず、対照的に女性の方は薄いセーターにジーンズという随分とラフな格好だが、羽織った白衣と二人が揃って腕に付けている青い腕章が異質さを際立たせている。
「貴方が塩見さん? 突然ごめんなさいね、驚いたでしょう?」
「はい……ええとあの、本日はどのような……?」
「ええ、ちゃんと説明しますのでまずはどうぞ……お掛けになってください」
女性に促されるままに向かい合う形で椅子に腰かける、本来はこっちが応対する立場の筈だがあっさりと主導権を奪われてしまった、今なお沈黙を守り続ける男性の威圧的な迫力は言わずもがなだが女性の方からも底知れぬ迫力を感じる……長い髪を一束にまとめて流すように胸元に垂れ下げ、外を歩いていれば男性ならば誰もが視線を向けてしまう程の美人だがこの場においては具体的な正体が掴めない分、彼女の方が男性よりも格段に不気味だ。
「ふぅ……こういう場所に来るとつい気を張っちゃって駄目ですね、塩見さんもどうぞ楽にしてください……飴、食べます?」
「あ、どうも……」
周囲を包む息苦しい膜を貫くように小さくため息をついたかと思うと女性の纏う雰囲気が弾けた、完全に面食らった俺は休憩中の同期のように笑顔で差し出された飴を何も考えずつい受け取ってしまった。
どうしたものかと手の中で飴をコロコロと回転させながら考えるが、結局答えなど思いつかなかったので諦めて肩から力を抜き包み紙を開けると中に入っていたピンクの飴玉を口に放り込む。
「この飴、昔からお気に入りなんですよ。煮詰まった時とかに無意識に何個も食べちゃうくらいで……ああそれよりもまずは自己紹介ですよね? 私は青海といいます、それとこっちは部下の宇垣です」
「……どうも」
ようやくチラリと視線を向けて口を開いた男から出た声はその見た目通り低く響くものだった、その一言を発したきり再び口を閉ざしたのを見て青海がクスクスと笑い始めたので思わず首を傾げてしまう。
「緊張してるだけですよ、なので塩見さんもどうか気を楽にしてください」
「はぁ……と、ところでお二人はいったいどのような……?」
悪い人では無さそうだが相変わらず正体が掴めない、何よりあの課長があそこまで慌てるような相手だ……しかし腕章を付けるような人達なんて、今時どこの学校の生徒会だと……いや待てよ、青い腕章だって?
「どうやら気付いて頂けたようですね、無理もありません……知識としてはあっても実際に相対するとなかなか気付いてもらえないもので」
俺の視線で気付いたのだろう、青海がニコリと笑うと足元に置いていたのであろう鞄を拾い上げると何枚かの書類を取り出して目の前に広げた、その中の一つを拾い上げて見てみるが色々な事がびっしりと書かれているので即座に内容は飲み込めない……が、書類全ての下部に書かれた同じ名称が彼女らの正体を現していた。
「改めて……私達は深海観測所日本支部の者です、塩見さん……厳正なる検査の結果、貴方は次の観測者に選ばれました」
応接室を出た俺は二人を引き連れたままオフィスに戻ると、簡単にデスクの片づけを行った……とは言っても既に仕事用の書類やファイルは無くなっていたので鞄と荷物をまとめただけだ、今朝買った飲み物は既に温くなっていたので俺と同じくイマイチ状況を飲み込めていない同期にあげる事にした。
脇に青海、後方を宇垣に固められつつ会社中の人の視線を一身に浴びながら外に出た俺達を迎えたのは堂々と道路に横付けされた黒い高級車だった、これが仮にパトカーなら俺の姿は犯罪者そのものだっただろう。
「どうぞ塩見さん、頭をぶつけないように気を付けてくださいね?」
「ありがとうございます……」
一足先に駆け出してドアを開けてくれた青海に礼を言いつつ車に乗り込み、座席に腰掛けると想定外に尻に当たる感触が固かった。誰でも知っている高級車なのだからてっきり体が沈むぐらい柔らかいのかと思ったがそうでもないようだ。
「……正直なところを言うと塩見さんには助かりました、私は迎えに出たのは初めてですが他の研究所の者から聞いていた話だと逃げ出したり、延々と粘る人も多いようなので……」
車内は向かい合うように座席が設置してあり、俺の向かい側に座る青海は困ったような笑みを浮かべた、曖昧に笑顔で返すが俺だって逃げられるものなら逃げ出したい……そうしないのはただ単に俺が臆病だっただけだ。
そういえば宇垣が乗り込んで来ない、不思議に思っている内に周囲を確認するように立っていた宇垣が車の前方に乗り込み、やがてゆっくりと動き始めた……てっきり俺の拘束役かと思っていたが。どうやら彼は運転手だったようだ。
「さて……目的地までは結構時間がありますので、それまで少し振り返りでもしましょうか?……既に義務教育の中にも組み込まれましたし塩見さんがご存じの事ばかりだと思いますが、まぁこれも一応規則なので、私に怒らないでくださいね?」
「構いませんよ、いつかこうなる覚悟はしていましたし」
嘘だ、心の準備なんて出来ていないし早鐘を打つこの鼓動が聞こえていないかずっとヒヤヒヤしている……逃げ出さなかったのも強がっているのもただ美人の前で格好つけているだけだ、主体性に乏しいと通信簿に書いた学生時代の担任の審美眼は間違いなく正しい。
「では……塩見さん、今の地球上の人口は何人かご存じですか?」
「ええと……以前見たニュースか何かでは約40億人ほどと」
「その通りです、よく覚えていましたね」
こんな小さな事でも面と向かって褒められると嬉しいが少しむず痒い、少し車内の雰囲気がほぐれたところで続けられた青海の話は今を生きる人間であれば誰でも知っている事だった。
──およそ数十年前の出来事だ、当時から問題視されていた海面の上昇問題だったがある時を境に急激に加速し島国を皮切りに徐々に陸地を飲み込み始めたのだ、俺が子供の頃には既に世界地図が変わっていたので親から話を聞いた程度だが当時の日本の形状は今とは大きく違うらしい。
海面の上昇は陸との割合が八割を超えても止まらず、九割に届こうかというところでようやく収まりをみせた、第二波を恐れた世界中の国民や事態を重く見た世界が次に取った手段は海上に新たな陸地を作るというものだった、世界中の技術者やら大きな船がいくつも集まり太平洋のど真ん中でどんどん組み上がっていく新たな地上を当時の人達は一種の娯楽のように画面越しに完成を待ち望んでいた……『奴』が現れるまでは。
それまで一体どこに潜んでいたのか……人類の新たな希望をあっさりと打ち砕いたのは異様に巨大化した深海魚だった、鮫とも鯨とも違うどの図鑑にも載っていない化け物……地上の人間を直接襲うような事は無かったが、サイズに関わらず航行する船や付近を飛行するヘリコプターや飛行機を襲い続ける深海魚に人類は成す術がなく……結果、実質的に海という一つの生活圏を失った。
「当然、軍隊も出動しましたが機関銃や戦闘機のミサイルでも深海魚に決定的なダメージを与える事は出来ず被害は膨らむばかり……あれこそ正しく怪獣と呼ぶに相応しいと、当時は様々なメディアで取り上げられていました」
「ええ、今でも少し調べればネット上ですぐに画像や動画が見られますし僕も授業で散々習いましたよ」
「……塩見さんはどちらでしたか? 獰猛で巨大な深海魚を見て怖いと思いましたか? それとも最近の多くの若者のように格好良いと感じましたか?」
「僕は……正直よく分かりませんでした、それが凄惨な出来事であった事は理解していましたがよくあるB級映画でも見ているかのような……現実味が無いって言うんですかね」
「なるほど……無理もありません、現在ではグッズなども販売されていますし一つのジャンルといいますか……沢山の種類がある娯楽の中の一つにカテゴライズされている感は否めませんしね」
納得しつつも不服そうに頷く青海だったがすぐに顔を上げてただし、と付け加えると大きく体をこちらに乗り出した。
「今回塩見さんが観測員として選抜された事からも分かるように深海魚は実際に出現しました、そして……再びその脅威がいつ私達を襲ってもおかしくないのです」
「……だから、俺が選ばれたんですもんね」
海という世界を一瞬で支配し、圧倒的な力で暴れ回った深海魚だったがその終わりは何ともあっけないものだった。
深海魚の出現から漁船の類は勿論、軍艦ですら出航を躊躇っていた時にどこかの出世欲に塗れた報道ヘリが単身で深海魚の潜む海へと向かって行ったのだ、すぐにヘリの存在に気付いた深海魚がその長い体を駆使して海面から飛び出してヘリを噛み砕き……異変が起きたのはここからだ、通常であればヘリを派手に食い散らかしながら再び海に戻る筈が海面からピンと体を伸ばしたまま動かなくなったのだ。そしてしばらく空を見上げながら餌を求める金魚の如く大きな口をパクパクと開閉を繰り返したと思うと、不意に海面へと倒れ込み、海底へと深く沈んでしまったのだ……それから今日まで深海魚が出現したという記録は無い。
その後、深海魚襲撃の第二波に備えて急いで作られたのが深海に沈められた複数の海洋観測所だ。
建設当初こそ海軍や海のスペシャリスト達が観測員として観測所の中で過ごしていたのだが、様々な事故や深海魚の攻撃と思われる要因で生きて帰ってきた事例は殆ど無く……生きて帰った者も五体不満足だっただの精神錯乱状態だっただのなんていう根も葉もない噂がネット上で溢れている。
当然そんな噂が嘘にしろ本当にしろ、誰も観測所に行きたがる筈も無く年々志願者は減り続け……苦肉の策として国がとった方法が観測員を特定の条件を満たしている国民の中から選抜するというものだった、猛反発の中で強引に可決されたその法案のせいで一年に一度国民の中から各研究所所属の観測員が選ばれ……今回は不幸にも俺が選ばれてしまったという訳だ。