ナイフとガソリン
京アニ放火殺人事件から、やたらナイフと可燃物を持ち歩く奴らが増えて、世はまさに世紀末。
俺も虚勢を張るために肩パットにモヒカン姿になった方が良いのか?
まさかへずまりゅうの方がまだマシな存在に思えるようになってしまうとは。
今や乗用車への給油以外のガソリン販売にエクスキューズめいた規制が課せられ、除雪機用のガソリンを買いに行くにも「除雪機に使います!」と、ちょっとアホみたいに申告しないといけなくなってしまった。
日本の犯罪件数自体は減ってはいるらしいが、一件一件のキルレートは上がってきていおり、どうにも「彼ら」からすれば、俺たちはゲームの雑魚キャラか何かぐらいにしか見えていないようだ。
かと思えば、ナイフに可燃物というちょっとしたフルオプションに、彼らの自己評価の低さが垣間見えるような気もする。
絶対的、徹底的なイニシアチブを取りたい、そんな意図がナイフと炎の煌めきにあるように思う。
彼らを見るに、我々は自分の意思や意図を伝える面でのコミュケーション能力も、他者に嫌われてでも自身の意思決定を尊重する自立心も喪失しているのだろう。
かつて、オルタという男は「良い奴」で通っていた。
けれど「そいつら」からしたら、結局は「都合の良い奴」だった。
俺も誰彼から嫌われたくなかったし、波風を立たせるような真似もしたくなかった。
オマケに最近は勃ちづらくなってるしーーいや、それは違うか。
結局、「そいつら」とは縁を切ったし、なんだかんだで切れた縁もある。
概ねせいせいしてる。プラモ作る時間増えたし。
昔のことを思い出すと、うんざりもするけど。
「オルタ」と「そいつら」に共通していたのは、コミュニケーション能力の無さだ。
コミュニケーションというのも色々あるだろうが、気を遣いすぎるとか、他者との適切な距離をキチンと取れないとか、自分を語ることで頭がいっぱいだったりとか、やるべきじゃない言動をしたりとか、どうにもその辺りで躓いている人たちばかりだったように思う。
「自分、不器用ですから」でハクが付くのは高倉健さんぐらいであって、人間関係においては常にリスクを抱えることになる。
地雷原を全力疾走していれば、そりゃあどっかで吹っ飛ぶだろう。
自分らしさというのは、優れているとか劣っているとか、そういう話じゃない。
けれど、テレビを点ければ羽生さんだとか大谷さんだとかが大活躍し、じゃあようつべを開いてみれば、やっぱり玄人裸足のクリエイターやアーティスト、ゲーマーの超絶技術を映した動画なんかが、ブラウザに所狭しと並んでいる。
そんなのを見ていると、自分がひどくちっぽけで半端で無能に思えてしまう。
最近は、「自己肯定感」を得るためのトレーニングなんかが持て囃されているが、ぶっちゃけ幼少期に親から必要十分な愛情を与えられず、ましてや親の機嫌を伺うような生き方をしてきた人間が、自身の認識を根本から変えるというのは難しい。
それでも、我々はナイフとガソリンを手に取った羅刹修羅の類いにならないように努めないといけない。いや、社会の中で営んでいくなら当たり前以前の話だけれど、その当たり前以前のことすら、難しくなってきているし、これから難しくなっていくのかもしれない。
割とマジで「ファイト・クラブ」のようなシンプルにただ喧嘩をする場所というのは、あってのも良いのかもわからんね。
君、心の中にタイラー・ダーデンを飼いたまえよーーってやっぱあんなヤロウ飼っちゃダメだわ、ウォール街にせっけんの発破仕込んじゃうヤバいヤバい。