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《第七話》楠木さん

屋上の鍵を職員室の前の掲示板に貼り付けて、楠木さんと優希の二人は学校を後にする。


二人の間には初めて会った時のよそよそしさはなく、誰がどう見ても友人同士である。


そして優希との会話に笑う楠木さんは、心からの笑みをこぼしていた。


「ここから家遠いの?」


深夜も深夜。終電などあるはずもなく、始発を待つにも数時間、外で待機するには秋の夜は寒かった。


「ううん、歩いて20分くらい」


楠木さんの家はそう遠くないようでよかった。


夜中に女子高生を一人で帰すわけにもいかないため、優希は家まで送るよと楠木さんに伝える。


「なになに、女の子の家までついてきてなにするつもり~??」


楠木さんはふざけた調子で、身体を隠すように自分自身を抱きかかえる。


「あんまり先輩を弄らない」


落ち着いてきた楠木さんは、屋上で自己紹介をしていた頃の調子で優希を弄ってくる。


優希も始めの頃よりは慣れてきており、楠木さんの横を歩きながら軽くあしらう。


さながら先程まで学校の屋上で泣き叫んでいた二人とは思えない光景だった。


「楠木さんはまだお父さんと一緒に住むの?」


「あの人最近帰ってこないから、ほぼ一人暮らしみたいなもんだよ。だから、今家には誰もいないよ…?」


横から上目遣いで覗き込んでくる楠木さん。


優希としては楠木さんに気を遣ったつもりだったのだが、隙を見せればすぐ挑発してくる。


ここまでくると、脈アリなんじゃないかなんて勘違いしてもおかしくない。


「自炊とかしてるの?」


楠木さんの煽りを無視して優希が尋ねる。


「まぁ多少はね。面倒くさいときはコンビニ弁当とかで済ませる時もあるけど」


楠木さんも優希の反応に期待はしていなかったようで、そのまま質問に答える。


「お金はバイトで?」


疑似でも一人暮らしとなると、経済面は厳しいに違いない。


高校生でそこまで稼ぐには、相当ハードにアルバイトをしないといけないことになるだろう。


「家賃とか光熱費とかはあの人が払ってくれてるから、私はバイトしてないよ。バイトしてまで生きるつもりないしね」


楠木さんは笑いながら言う。


優希としてはさすがに笑える話ではないため、なあなあな反応でそっか、と流した。




そのままの調子で二人は談笑しながら、楠木宅への帰路を20分ほど歩いた。


「わざわざうちまでありがとうございました、優希先輩!」


表札に”楠木”と書かれている家の前で、わざとらしく楠木さんがお辞儀をする。


楠木さんの家は優希の家から歩いて行ける距離で、私立高校の学生同士にしては距離が近いほうだった。


「こちらこそ、僕と友達になってくれてありがとう」


あの場で優希が楠木さんを止めていなかったら、楠木さんは今ここにはいない。


そう考えると、優希はお礼を言わずにはいられなかった。


「もう少しノリが良くてもいいと思うんだけどな」


もうすぐ朝日が昇ろうかというところでこんなハイテンションなのは、所謂深夜テンションというやつだろうか。


昨日から今日にかけて色々なことが起こりすぎた優希は、楠木さんのテンションについていけないくらいには疲労が溜まっていた。


流石に目の前で溜息をつくような男ではないが、疲れが溜まってることを察したのか、


「本当にありがとう。優希君のおかげでいっぱい考えることができたよ」


楠木さんも落ち着いた声で優希に返答してくれた。


「私さ、もう一度会いたいって思える人がいないって言ったじゃん」


「今ではもう懐かしい会話だね」


優希は屋上で話し始めてからすぐ、楠木さんが人間不信で人と関わることが嫌だということを聞かされた。


あの時は過去一で戸惑っていたが、そのことを言われた記憶はしっかりと残っている。


「もう一度会いたい、って思える人ができたよ」


優希を指差しながら、そんなことを言う。


その瞳は真剣であり、屋上にいた時のような儚さは良い意味で、なくなっていた。


そしてそんなことを真っ向から言われた優希はどう反応していいかわからず、視線を逸らしてしまった。


「反応してよ、恥ずかしいじゃん」


すると楠木さんは拗ねたように、ふんっとそっぽを向いてしまう。


「ごめん、なんか照れくさくて」


折角できた友達の機嫌を損ねないよう、優希はすかさず謝るが、なぜか声は上ずっている。


果たして男女間の友情は存在するのか、否か。


カップルみたいな雰囲気を纏う二人は、実は昨日の深夜に出会ったばかりである。


「だから、もう一度会おうね」


「もちろん、また明日学校でね」


友達同士なのだから当たり前のような内容の会話だが、この二人にとっては深い意味のある会話になる。


「今日は休むんだよね?」


「どうしよう、これなら徹夜ノー勉で行ってもいいかもしれない」


働かない頭と精神的な疲労、そしてテストに対してノー勉という三連撃で優希の気は滅入ってしまっていた。


休んだら休んだで、難易度が上がる追試を受けなければいけなくなるため、正直キツい。


だから体力が持つのであればテストを受けたいところではある。


「赤点取ったら補習だよ。三年で補習ってやばいんじゃないの?」


「それもそうなんだよね、補習いっぱい受けてたりすると卒業できないかもしれなくて。流石にそれは避けたい」


このままだと今度は優希が病んでしまいそうな雰囲気だった。


「とりあえず今日は早く帰ったほうがいいよ。長く引き止めちゃってごめんね」


そんな雰囲気を察してか、楠木さんは強引に優希に帰るよう促してきた。


「そうだね、家に着くまでに決めれるといいけど」


脳死状態の優希は楠木さんに、背中を押されて楠木宅から山崎宅の方向に進み始める。


「じゃあね、もう遅いから楠木さんも早く寝なよ」


「うん、優希君は私と同じ学年にならない程度に頑張って」


楠木さんは優希を茶化すように言いながら手を振る。


優希は楠木さんに背を向けて歩き出す。


「優希君またねー!また───でねー!」


楠木さんが家の前から大きな声で手を振っている。


後半は何を言ってるのかわからなかったが、優希も振り向いて手を振り返した。




だんだんと空が明るみがかってきており、こんな時間まで外にいたのは初めてだなぁなんて暢気に考えながら、優希は携帯を取り出す。


「やっべ」


携帯には友人からの連絡が100件以上溜まっていた。


今日は徹夜で一緒に勉強しようと約束していたが、優希が教科書を学校に取りに行ったっきり帰ってこず、もしかしたら事件に巻き込まれているのかもしれないと心配のメッセージが半分。


もしかしたら教科書を学校に忘れたのは嘘で、もう家で寝ているのではと疑惑のメッセージが半分といったところだった。


急いで友人に電話をかける。


「お、優希。大丈夫だったか?それとも寝てた?」


深夜テンションなのか声のトーンの高い友人がすぐに出た。


すぐに電話に出るということは、そういうことなのだろう。


「本当にごめん。事件っちゃ事件だけど事件じゃないっちゃ事件じゃない事件に巻き込まれてた」


「徹夜脳でもわかるように説明してくれ」


「色々あったんだ、連絡の一つもしなくてごめん」


流石に楠木さんのことは誰にも言うわけにはいかないし、そもそも説明する気力が今の優希にはなかった。


友人はおっけ、と返しながら大きな欠伸をする。


「勉強は終わったの?」


声に精一杯の謝罪を込めつつ、優希が問う。


「優希が来るまで待つかーって言って結局一分もしてない」


「ほんとに!?」


「もう今回は捨てたわ。英語一つなら補習受けてもいいし」


「高橋先生の補修すごく厳しいらしいけど大丈夫?難しくはなるけど追試受けたほうが無難な気がする」


「どっちがいいんかな……」


お互いに半分寝ながら電話を繋げているので、だらだら考えて全く話が進まない。


そのまま優希は家に到着してしまった。


「今日は本当にごめん、次は絶対連絡するから」


次はねーぞと笑いながら友人は電話を切った。





教科書を取りに行っただけなのに、今日は本当にいろいろなことがあった。


幽霊と出会い、幽霊に膝枕され、幽霊が実は情緒不安定な美少女で、美少女は人間不信で、美少女の名前は楠木さんといって、楠木さんは自殺願望があって、自殺阻止のために楠木さんと語り合って。


最後には楠木さんと友達なった。



家に入った優希は、手洗いうがいをしパジャマに着替えるとそのままベッドにダイブ。


本当に長い夜だった。外はもうすっかり明るくなってしまっている。


ここまで真剣に命に関して考えたのは、近藤さんが亡くなった時以来だろう。


自分よりも年下の楠木さんは、幼い頃から壮絶な経験をしており、楠木さんと話して得たものはたくさんあった。



人を好きでいることを教えられた優希は、今まで人のことを第一に考えられるような人間を目指していた。


近藤さんの言葉を、その言葉通りにしか受け止めていなかった。


自分で深く考えることをしなかったのだ。


楠木さんと話してそのことを痛感した。否、気づくことができたというべきか。


でも、近藤さんの言葉通りの解釈は間違ってはいなかったと思う。


人を好きでいることは素晴らしいことだと思うし、恩師の教えであることを抜きにしてもそれを意識して生きていく人間は美しいと思う。


人を好きでいるからこそ、今の優希がいるし、今も楠木さんがいる。


ただ、それだけではなかった。


人を好きでいるということは自分も好きでいるということ。


きっと、自分のことが好きかと問われて肯定できる日本人は多くないだろう。


優希もその問いには素直に首を縦に振ることができない。


それでも優希は言った。



『楠木さんには、世界で一番自分を大切にしてほしいんだ』



今思い返すと、少しクサい言葉ではあるが、内容は的を得ていると思う。


自己中心的になれというのではなく、他人の欲望と誘惑の渦巻く世界でただ一人自分自身を大切にできるのは、自分しかいないということ。


不安定な他人に由来しない、完全無条件の愛。


自分を大切にするのは、人によっては難しいことかもしれない。


ただ、自分を大切にする、それだけで救われる自分もいるということを優希は楠木さんに教えてもらった。


「未熟だな」


そんなことを考えながら独り言ちる優希は、重い瞼を逆らうことなく閉じたのだった。









翌朝、学校に欠席の連絡を入れた後午後まで眠った優希は、空腹で目を覚ました。


「もうこんな時間か」


時計の針は15:00を過ぎており、若干開いている窓からは秋風が吹きこんできている。


口が乾いて気持ち悪い。


優希は普段より強く感じる重力に逆らい、ベッドから体を起こす。


「とりあえずシャワーでも浴びるか」


背中に何となくいや汗が流れるのを感じ、浴室へと向かう。


シャワーで身体を流すと、少し汗ばんだ体が清められ不快感とともに流れていった。


脱衣所で水滴を払拭し、何の味気もない部屋着に着替える。


そのまま食パンを焼き、適当にジャムをつけて口に放り込む。


平日の昼間ということもあり、家には優希一人。


妙に静かなリビングに、特別美味しくもない食パンを齧る音が響く。


流石に何も音がないのは寂しいので、リモコンを操作しテレビをつける。


昼のニュースを報道するキャスターの声が優希の耳朶を打つ。


『次のニュースです。今朝、○○県××市にて17歳の女子高生の遺体が発見されました』


報道されていた場所は、優希が住んでいる地域だった。


「うわ、近いな」


優希はキャスターから自身の住まう地域の名前が発せられたことで、無意識にニュースに反応する。


『発見されたのは少女の自宅で、首を吊っているところを救急隊が病院へ搬送しましたが、その後死亡が確認されました。警察関係者によりますと─』


「え……」


優希はテレビを眺めて絶句する。


そこに映されていたのは、優希が数時間前までいた場所。


紛れもない楠木さんの家だったのだ。


持っていた食パンを床に落としたことにも気づかず、頭が真っ白になる優希にニュースは報道を続ける。


『少女自身と思われる人物から【今から自殺をする。家族は家に帰ってこないから、死体を発見してほしい】という旨の通報が入った後、警察が現場に急行すると少女は既に首を吊っていたとのことです。家に人が侵入した形跡や、少女に外傷がみられなかったことから、警察は自殺とみて捜査を進めています』


自殺……?楠木さんが、?


ニュースは留まることなく次のニュースに移ったが、その声はもう優希に届いてはいない。




だって、あの場所、楠木さんの家じゃないか。


見間違いかと思い、テレビに近づいて凝視したが、やはりどう見ても楠木さんの家で間違いなかった。


17歳。楠木さんと同じだ。


いやでも、楠木さんは僕が説得をしたはず。楠木さんは僕の前で心から笑っていたはず。楠木さんは自殺なんてしないで僕の友達になってくれたはず。


楠木さんが自殺するはずがない。だって、だってあんなに……


優希は部屋着のまま家を飛び出した。


自転車に跨り、朝帰ってきた道のりを全速力で漕ぐ。


息は上がっているし、部屋着のまま飛び出してきたせいで人に会える格好ではない。


それでも優希は止まれない。


報道は確かに楠木さんの家らしき場所を映していたが、楠木さんと決まったわけではない。


もしかしたら隣に住む楠木さんと同い年の少女が自殺してしまったのかもしれない。


楠木さんじゃない。そうだ、楠木さんのはずがない。


「楠木さんが自殺するわけがない……」


優希は自転車を漕ぎながら、自分に言い聞かせるように呟く。


不安は後を絶たない。楠木さんが別れ際に見せた、心からの笑顔が脳裏にちらつく。


だめだ、だめだ、だめだ。


「死んじゃだめだ!」


優希は最後の角を曲がり楠木さんの家を視認したところで自転車を投げ捨てるかのように降りる。




警察車両が止まっていた。


ドラマでよく見る、関係者以外立ち入り禁止の黄色いテープが張られている。


「そ、んな……」


優希は立ち入り禁止のテープを無視して楠木さんの家に上がり込む。


背後で警官が「ちょっと君!」と叫んでいたが、優希には聞こえない。


「楠木さん!!」


玄関に入ったところで、優希は縋るような声で叫ぶ。


家の中にいた見識の警官が驚いた様子で優希に振り返った。


「君、ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ!」


「楠木さん、楠木美星さんはどこに!?」


「とりあえずここから出なさい!話はそのあとだ。あまり抵抗するようなら公務執行妨害で逮捕するぞ」


警察官に押さえつけられ、抵抗も虚しく優希は楠木宅から引っ張り出される。


正常な判断ができない優希は尚も暴れるが、警官二人に押さえつけられてしまった。


「落ち着きなさい、先ずは君が何なのか伝えてくれないか!」


警官に宥められ、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにした優希は人の話が聞けるほどまでには落ち着く。


しかし全速力で自転車を漕いできたのと、めいいっぱい叫んだからか咳が止まらない。


「ぼ、僕は、楠木さんの友人の、ごほっ、山崎優希という者です...」


「美星さんの友人か。美星さんは清水病院に搬送されたよ」


「っ!!……それはっ、ごほごほっ、楠木さんで間違いないんですか!?」


「捜査に関することはあまり言えない。気の毒だが、病院に会いに行ってやってくれ」


優希の顔を見る警官の表情は芳しいものではない。


そんなことを気にも留めず、優希は警官が話してる最中に自転車に跨る。


息は荒ぶったまま、さっきよりも速いスピードで目的地の病院までペダルを漕ぐ。


苦しい。眩暈がする。手足の感覚がない。


それでも優希は漕ぎ続けた。何が起きているのかいまだ理解しきっていない。





病院の駐輪場に自転車を乱暴に止め、病院に入っていく。


「ど、どうされましたか?」


受付の看護師さんが目を見開きながら尋ねてくる。


「くすのき……楠木美星さんはどこにいますか!」


文字通り息をぜぇはぁと荒げながら流れる汗を拭いつつ、優希が受付さんに聞き返す。


頭の中には楠木さんのことしかなく、語尾が荒くなっていることに気づいていない。


「ご家族様でいらっしゃいますでしょうか?」


「友人です!早く!早く会わせてください!」


大きな声を上げる優希にロビーにいる多くの人が注目してしまっている。


それにすら気づかず優希は看護師を催促する。


「分かりました。ご案内しますので落ち着いてください。ここは病院です」


怒鳴るように叫ぶ優希を制止したのは、明らかに他の看護師とは雰囲気の違う看護師であった。


名札を見ると、看護師長と書いてある。


「こちらです、どうぞ」


騒ぎを聞きつけた警備員が近づいてきているのを手で制止すると、看護師長は優希についてくるように促した。


優希は逸る気持ちを抑え、少し冷静さを取り戻す。


ロビーに向かって一つお辞儀をしてから看護師長の背中を追うが、流れる風景が現実味を帯びていないように感じた。


全身を不安の波が包み込む。


向き合いたくない現実が今まさに目の前にあるような気がしてならない。


看護師長を追う足が歩くたび重くなる。


急いで病院に来たはずなのに、病室に行くのが嫌で嫌でしょうがない。


もう逃げ出してしまおうか。


強烈な眩暈と吐き気が優希を襲う。今にも倒れてしまいそうだった。


「ここです。お入りください」


看護師長が足を止め優希に振り返る。


ここがどこかなんて考えたくもない。


周りに患者が少ないのは気のせいじゃないだろう。


「……どうも」


声にならない感謝を告げ、優希は部屋のドアノブを回す。


病院らしい質素な病室に、ベッドが一台だけ置かれていた。


病室には誰もいない。


ただ申し訳程度に数本の花が飾られているくらいのものであった。


優希はそんな閑散とした病室に足を踏み入れる。


「楠木……さん……?」


返事がない。


見たくない。


顔を見たくない。


楠木さんであることを確認したくない。


向き合えない。逃げ出したい。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。


なんで。どうして。さっきまで笑っていたじゃないか。


優希の目に映ったのは紛れもない、楠木さんだった。


そして、目の前で眠る彼女は息をしていない。


身体を一つも動かさないまま、幸せそうな顔をして眠っている。


今にも起きて「優希君!おはよ!」なんて言ってきそうだ。


それでも彼女が呼吸を再開することはない。


「なんで…なんでだよ楠木さん!」


優希しかいない安置所に絶望の叫びが響く。


「なんで……」


なんとか最後の希望によって保っていた力が抜け、優希はその場に崩れ落ちる。


現実が受け止めきれない。


涙を流す余裕もないほどの絶望。


ただ、今目の前で何が起きているのか分からない。


否、分かりたくないのだ。


ベッドに横たわる彼女が優希を慰めることはない。


優希に、悲しいね、苦しいねと涙を流しながら共感してくれる彼女はもういない。


安置所に一人、その孤独感が優希をさらに飲み込んでいく。


「なんで!どうして!楠木さんは……僕が!!」


色々な感情が思考の邪魔をする。


叫びながら地面に拳を打ち付けるが、それも虚しくただ狭い部屋に音が反響するだけ。


床から息をしない彼女を見上げる。


「なんで……」


優希は途端に疲労感に苛まれた。


ここまで休憩なしで全速力で自転車を漕いできたのだ。


運動部に所属している優希であっても、体力的に厳しい運動量であった。


精神的にも肉体的にも今までに経験したことがないほどの疲れがどっと押し寄せる。


同時に出す暇すらなかった涙が優希の瞳に溢れ、やがて零れ落ちた。


理解することを避けていた楠木さんの自殺を、脳が次第に理解していく。


出来ればまだ夢であってほしいのに、全身の疲労感が優希を現実から逃がさない。


頭が追いつくにつれて体がついてこなくなる。


昨晩にかけての楠木さんを思い出して、優希は意識を手放した。





既視感のある天井とベッドで優希は目を覚ました。


全身から疲労感が抜けていない。


病院の質素なベッドから上半身を起こすのですら体がだるく重い。


「僕は何を……?」


寝ぼけているのか、意識がはっきりとしない。


ここが病院であることは分かるが、自分がどうしてここで寝ていたのかが分からない。


「あっ、山崎さん。目が覚めましたか」


あたりをきょろきょろとしながら自分の置かれた状況を把握しようとしていた優希に、通りかかった看護士が話しかけてきた。


「こちら携帯とお財布です。身元確認のため、お財布の中身を拝見させていただきました」


「僕はどうしてここに……?」


「覚えていないんですか、山崎さんは楠木美星さんのお部屋で意識を失っていたところを、看護師長に発見されたんですよ。検査の結果特に異常は見つからず、ただの疲労によるものだろうとのことですので、具合次第では明日にも退院できますよ」


「……」


「山崎さん?」


そうだ、そうだった。


楠木さんだ。僕は楠木さんに会いに…


「楠木さんは今どこに!?」


「以前と同じお部屋です。ご家族様に連絡をしたところ、明日の夜に来られるようで」


看護士が丁寧に説明をするが、後半は聞き取れなかった。


夢ではなかったんだ。


自分が睡眠から覚めたことで、さらに楠木さんの死が現実のものとして強く認識されてしまった。


現実が受け止めきれないとは正にこのことで、優希はベッドに身を投げ出した。


仰向けだから、零れる涙が顔の横を通ってベッドのシーツを濡らしている。


考えても仕方ないこととは十分に分かっているのだが、それでも楠木さんの別れ際の笑顔が、優希の頭にフラッシュバックしてくる。


際限ない悲しみと、絶望感。それと同時にいくつもの疑問が優希の脳を占領する。


分からない。


なにがどうしてそうなってしまったのか。


楠木さんは確かに『自分を大切にする』と約束してくれた筈だ。


分からない。


「楠木さんに聞かないと」


楠木さんはもういない。


でも彼女の近くにいれば、何かわかるような気がして。


看護士に許可を取って、優希は楠木さんのいる部屋へと走った。




相変わらず部屋に人はいない。


家族の姿すら見当たらない。


カーテンの隙間から覗く月光が、青白く伸びている。


「楠木さん、分かる?僕だよ」


そんな部屋を一望してから、優希は中央で眠る少女に話しかけた。


返事が返ってくることはない。


「ねえ起きてよ。起きてまた僕を驚かせてよ」


言いながら楠木さんとの邂逅を思い出す。


最初は本気で幽霊だなんて思ってたっけ。


「イジられるのは本望じゃなかったけど、楠木さんと話すの楽しいんだよ」


自己紹介から始まり、お互いの過去を語り合った。


楠木さんは優希の話を聞いて涙を流していたし、苦しくて話したくなかったであろう記憶を優希に話してくれた。


どこか儚げで、それでも整った顔立ちがとても綺麗で。


「いきなり自殺なんて言い出すから、僕どうしていいか分からなかったんだ」


悩みや葛藤を抱え込んで、楠木さんは自殺を選択しようとしていた。


想像もできないような苦悩とショックに、楠木さんの自殺を制止する理由が見つからなかった。


楠木さんが自殺を選択してしまうことが、何ら不自然でないように思えた。


でも。


優希は楠木さんを説得した。


死んでほしくない。生きていれば楠木さんもいずれ幸せになれると信じて。


「一緒に話しながら帰ったの、実は緊張してたんだよ」


優希の必死の説得があってか、楠木さんは自殺を思い直してくれた。


明るみがかった空の下、友達となった女子を家まで送る。


そんな自分の姿に、優希はむずがゆい感情を覚えて。


急に恥ずかしくなって。


「約束してくれたよね、自分を大切にするって」


楠木さんの家に到着して。


優希は楠木さんに自分を大切にするようにと伝えてから別れた。


楠木さんは自分を護ると言っていた。


「なのにどうして」


優希は胸の下に組まれた楠木さんの手を握る。


その手が驚くほど冷たくて。


「さっきまで、笑ってたのに……」


楠木さんのベッドに涙を落としながら、冷たい楠木さんに自分の熱が届くように、優希は楠木さんの手を強く握る。


優希の質問に答える少女はそこにはもういない。


寝息すら立てず静かに眠る楠木さんに、床に膝立ちしたまま、両手を包み込むように握る優希。




二人を照らしていた秋の月は、病室のカーテンの隙間から、いつしかただ一人ベッドに寄り添う影だけを床に映していた。







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