《第六話》護ることができるのは
楠木さんがきょとんとした顔でこちらを向いている。
そのあどけない表情は、無条件で男を引き寄せるものがあった。
現に優希も少しドキッとしてしまっている。
「楠木さんは、まったく新しい世界で生きることを考えたことはある?」
「うん、一通り考えたつもり。今までの誰とも関係を切って、新生活を始めるってことだよね」
優希の質問に楠木さんが答える。
「家族とか友達って私にとって本当に大切なものだったから、その人たちと関われないなら正直そこに生きる意味って見出せないんだ」
ゆっくりと話す楠木さんは、空を見上げながらたんたんと思いを述べる。
「かけがえのない存在が全部離れて行って、そんな中で一人で生きていくんなら私は死んだほうがマシって思っちゃうの。また友達を作るっていうのが普通なのかもしれないけど、その人がまた裏切るかもしれない。そう思うと怖くて人のことが信用できなくなっちゃうっていうか」
楠木さんは自分の中の葛藤を思いのままに話している。
本当は人のことを信頼して、いい人間関係を築いていきたいはずなのに、トラウマのせいでそれをすることができない。
そんな狭間で楠木さんは日々を戦っている。
「楠木さんが認めてくれるなら、僕が楠木さんと一緒に生きていきたい。僕は賢者でもなければ聖人でもないけど、楠木さん一人を悲しませないことならできると思うんだ」
ナルシストではないが、優希はこの言葉に自信を持っていた。
「楠木さんが新しく人を信用するのが怖いなら、最後に僕だけでも信じてくれないかな」
「それは論理が破綻してるよ」
優希の提案に楠木さんが笑う。
「私は優希君も含めて誰も信用することができないんだよ。最後に、とかそういうんじゃなくてもう人と関わりたくないの。たとえ優希君を最後に信用したとしても、優希君に裏切られないという保証はない」
さっき初めて会ったばかりなのだから、信用されていなくて当然なのだが、直接言われると少々きついものがある。
優希は楠木さんに自分を信用して欲しい。
しかしなんの根拠もない優希はこれに反論ができない。
「でも本当はね、今も優希君ならあるいは、って考えてる私がいるんだ」
楠木さんが、両手を胸の前に合わせながら優希の方を向き直る。
「さっきの優希君の話し方、考え方を聞いて、優希君ならもしかしたら私を裏切らないんじゃないかって思っちゃって」
それはどこか希望に満ち溢れたような、どこか悲しげで不安に侵されてるかのような声だった。
「このまま信じられれば楽なんだろうけどね。たかが数時間話しただけですぐに人を信じたくなっちゃう自分が怖くて。裏切られるのが怖いはずなのにやっぱり信じたくなっちゃう。もうあの苦しみは味わいたくないのに」
楠木さんが人を信用できないのは裏切られる恐怖があるからで、頭ごなしに全てが無理というわけではないらしい。
しかし人を信用できないことに変わりはない。
本心では人を信用したくとも、トラウマがそれを邪魔し続ける。
楠木さんがそれにね、と続ける。
「私がもし最後に優希君を信じて、優希君が最後まで裏切らなかったとしてもね、私が苦しんだ過去はなかったことにならないんだ」
「……」
「もし優希君と一緒にいて、今までにない幸せを感じることができたとしたら、私が苦しんだ理由って何なんだろうって。無駄に苦しんで、無駄に好きな人を恨んで、無駄に自殺まで考えて」
「……楠木さんが苦しい過去を経験したからこそ、そんな未来にたどり着けるのかも」
「でも最初はこの人裏切らないかな、ってずっと見定める感じになっちゃうし。元々こんな経験なければ最初から幸せになれたかもしれない。私は多分、自分が苦しんだ過去に何かしらの価値を見出したいんだと思う。大事な人を全員失って、一人ですごい悩んで。それに見合った価値を見つけられないと、私は自分の人生を生き続けられる自信がない。……ごめんね私、すごい弱い人間なのかもしれない」
思いの丈を語りながら、楠木さんは自嘲気味に謝った。
「楠木さんが謝ることじゃないし、楠木さんは弱くなんかないよ。大切な家族や友人がいなくなるなんていう悲惨な出来事に向き合って、僕に話すことができた。それは楠木さんが耐えた結果だと思う」
「でも私は自殺しようとしてるんだよ?現実から逃げようとしてるんだよ?そんな人間のどこが弱くないっていうの!?」
楠木さんの声が段々と大きくなる。
相変わらず不安定な楠木さんの情緒に、優希は圧倒されてしまう。
「優希君が本心ではどう思ってるか分からないけど、みんなそうやって弱ってる人間に甘言を唆して、少ししたらすぐ知らんぷり!どうせ裏切る!本心から思ってもいないことで慰めたって最終的には人を傷つけてるんだよ、どうしてそれに気づかないで偽善を振りまくの!」
内に秘めていた思いのダムが決壊したかのように、優希に向かって叫び、訴える。
圧倒されている優希はただ楠木さんを見つめ返すことしかできない。
そんな優希に対し、楠木さんは止まらない。
「お父さんだって陽菜だってそうだった!!私の味方だと思ってたのに、蓋を開けてみたら自分のことばっかで私のことなんて微塵も考えちゃいない!!いいよ!自分勝手に行動するのはその人の勝手だよ!でも…でもさ……それなら私に希望を見せないでよ……」
最初から自己中心的であれば、そう割り切った関係が築ける。
父親や陽菜がそうであったなら、楠木さんはここまでのトラウマを背負うことはなかっただろう。
しかし、幸せな家族愛、自分の不幸を顧みず手を差し伸べてくれる親友。
そんなものを一度見てしまえば、そこから割り切るのは酷な話である。
「私が一番惨めで自分勝手なのかもね、みんなに私の理想を押し付けてる。ごめんね、大きな声出して」
楠木さんは少し過呼吸になりながらまた笑顔を作った。
事あるごとに見せるこの笑顔の裏には、まだ幼い少女の苦悩がこれでもかというほど蓄積していることを、優希はこの数時間で理解していた。
「楠木さんが言うように人はやっぱり自分を一番に考えちゃう生き物なんだよ。他人を一番に考えられる人なんてそうそういるもんじゃない。だからこそ、僕は楠木さんに一つお願いがある」
優希の恩師、近藤さんは「他人を第一に考えろ」とは言わなかった。
もし、自分よりも大切だと思える存在ができたなら、それでもかまわない。
ただ、人を好きでいることを優希に説いてくれた。
この先は、近藤さんに直接的に教わったことではない。
だからもしかしたら間違えているかもしれない。
優希の人生経験では語れない何かがあるかもしれない。
それでも、優希は強く思った。
自分勝手に自己中心的に生きる、”人間”という生き物が形成する世の中で。
幼い少女が愛するもの、そのすべてが失われてしまうような残酷な世の中で。
楠木 美星という人間が自殺を考えるまでに追い込まれる、そんな世界で。
「楠木さんには、世界で一番自分を大切にしてほしいんだ」
優希は楠木さんに一歩近づき、まっすぐに伝える。
「自分のことを一番に思ってくれる人間は、基本自分自身しかいない。自分を愛せるのも護れるのも自分自身」
楠木さんを見て、楠木さんの話を聞いて優希が思ったこと。
「人を好きでいる。その”人”には自分も含まれてる。世界中の誰しもが自分を嫌い、裏切ったとしても最後に一人、自分だけは自分を好きでいることができる」
近藤さんは人を好きでいることしか言わなかった。
しかし、それと同時にそこに自分を含んではいけないということも言わなかった。
優希には自分で気づいてほしかったのかもしれない。
そう思った途端、優希の視界が薄く涙でぼやけた。
「もう一度言うね。楠木さん、人を……自分を好きでいてください」
涙を拭い、優希は楠木さんに全てをぶつけた。
経験も思考も感情も、優希が考える全てを。
「……」
楠木さんは何も言わない。
ただ小さく呼吸をする音だけが聞こえる。
そして、俯きながら優希に一歩近づいた。
「泣いていい?」
俯いたままの楠木さんに、優希はただうん、とだけ答える。
楠木さんがさらに一歩近づき、そのまま両腕を優希の背中に回してきた。
「ううっ、うっ……」
優希に抱きつきながら楠木さんは悲痛な泣き声を上げる。
「わたし……誰にもっ……大切にされなくて」
優希は楠木さんの背中に手をまわし、背中をさすりながら相槌を打つ。
「みんなっ、いなくなっちゃって……独りでっ……」
辛かったね、大変だったねなんて軽い共感は、楠木さんの心境を知る優希にはできなかった。
でもそれでよかった。
楠木さんはそのまま優希の胸で泣き続けた。
楠木さんは優希の胸から離れると、ポケットからティッシュを取り出し、鼻をかんだ。
痙攣する横隔膜を深呼吸で整え、ハンカチで涙を払拭する。
「優希君、私と友達になってください」
泣いたことで赤くなった目を優希に向けながら、楠木さんは明るい笑顔で優希に言う。
「もちろん。よろしく」
堂々と正面から言われるとこっ恥ずかしいもので、優希は少し目線を逸らしながらそれに応えた。
「私は、私を護るね」
改めて、楠木さんが優希に伝える。
「僕も楠木さんを護るよ」
「ふふっ、なにそれカップルみたい!」
優希は本心で言ったつもりだったのだが、確かに言われてみればそうとも取れる。
途端に優希の顔が紅潮した。やはり優希はこの手のことに弱いらしい。
それを楠木さんが指摘し、優希が更に赤くなって……
学校の屋上に男女二人の笑い声が響いた。
「そろそろ帰ろっか。もうこんな時間」
ひとしきり笑った後、楠木さんが見せてきた携帯の画面には、3:15と表示されている。
「今日は学校休もうかな」
優希のさぼり発言に、楠木さんはそうだねと明るく答える。
秋の月が作る二人の影は、屋上のフェンスから遠ざかっていく。
その二人の距離が、心なしか先程より近づいているように見えた。