《第四話》理由
体が重い。耳鳴りが五月蝿い。
見たことの無い天井だ。
優希は病院で目を覚ました。
重い体を起こそうとした所で、母が抱きついてきた。
そこでようやく状況を理解する。
どうやら自分は溺れたあと何らかの理由で助かって、病院に救急搬送されたらしい。
呼吸器を乱暴に外すと、何よりも先に、自然に、言葉が零れた。
「ごめんなさい」
兎にも角にも謝らなければならない事が多すぎた。
叱られても仕方がない。自分は迷惑をかけたのだ。
身構える優希に、それでも両親が口にするのはただ「よかった…」のみ。
母の泣いている姿を初めて見た優希は、ただ謝ることしか出来なかった。
暫く時間が経過し、双方共に落ち着いた。
もう呼吸器は外されており、明日には退院できるらしい。
また、母から事情を説明してもらった。
どうやらあの後、たまたま近くで釣りをしていたおじさんに助けられたらしい。
そのおじさんは優希が溺れているのを見つけるやいなや川に飛び込み、優希を救ったのだという。
優希が溺れたそこは、遊泳禁止エリアであり、川幅が狭く水深が深くなっている流れの速い箇所であった。
それを知っていて飛び込んだおじさんは、優希を救いながら溺れかけ、同じ病院に入院していた。
先に全快したおじさんはもう既に退院しており、特に怪我や後遺症などはないという。
そのおじさんは名前を近藤さんといい、母が連絡先を受け取っていた。
近藤さんはその事故の当日、優希たちの隣のロッジに宿泊予定であり、妻と二人で来ていた。
これは後日談だが、近藤さんは喘息持ちかつ殆どカナヅチだった。
それでも溺れていた優希を見ると、自分の命も顧みず川に飛び込み、溺れかけながらもどうにか岸に引き上げたのだ。
下手をすれば二人とも溺死してしまった可能性のある事故で、死傷者が出なかったのは奇跡だった。
優希は退院してから近藤さんと連絡を取り、改めて挨拶に伺った。
最初はお礼をしっかりと言い、それきりだと考えていたのだが、話してみるととても優しく朗らかな人で、まさに人格者という人柄であった。
「お礼は良い。その代わり、僕が助けたその命で多くの人を助けてやってほしい」
「人を助けた時、逆にこちらが不利益を被ることがある。それでも、君が人を助けようとしたその心は変わらない」
「どうか、人を嫌わないでいてほしい。人は残酷で、惨めで、自己中心的な生き物だ。それでも他人の助けなしに生きていけるほど強くはない」
「どうか、人を好きでいてほしい」
天体観測やキャンプの趣味が合った二人は、その後二人でキャンプに行くほど親密になった。
近藤さんから色々な話を聞き、幼い優希はその言葉全てに感銘を受けた。
受け入れること。否定しないこと。
集団生活を必要とする人間にとって、何が大切なことなのか。近藤さんは優希に一つ一つを説いてくれた。
そして優希が高校一年生になったある日、近藤さんはこの世を去った。
突然の出来事だった。
なんの前触れもない交通事故による急逝。
今でこそ立ち直ったが、当時は人生で一番の絶望をしたと言っていい。
現実を受け止めきれず、葬式や通夜にも参加できなかった。
毎日泣き、学校は留年ギリギリになるまで行けなかった。
そして三年生となった今でも、毎月お墓参りに行っている。
命の恩人である近藤さんは、同時に優希にとっての人生の恩師なのだ。
「どうか、人を好きでいてほしい」
恩師は優希にそう説いた。
近藤さんが言ったからどうなのでなく、その言葉は優希にとって人生の目標となったのだった。
♢
話を終えた優希の目には涙が浮かんでいた。
この話をすると近藤さんの優しい笑顔が思い出される。
そしてその話を隣で聞く楠木さんも、涙を流していた。
「だから僕は人が好きでいたいんだよね」
「そんなことがあったんだ、教えてくれてありがとう」
涙を拭いながら楠木さんは、近藤さんは良い人だったんだね…と続けた。
それに頷きながら優希はふと考える。
楠木さんはどうして人を嫌うようになったのか。
たしかに人を好きでいることは難しいことかもしれないが、なにも誰も信用しなくなるまで嫌うようなこともないだろう。
きっとなにかトラウマになるようなことがあったに違いない。
しかしそんなプライベートで重い過去に、今さっき出会ったばかりの男が土足で入り込んでいいものか。
答えは否、断じて否である。
優希自身、近藤さんについてはもう現実を受け止めているため、何を聞かれようと蒸し返されて嫌な思いをすることは無い。
しかし近藤さんの亡くなった直後だったらそれは違った筈だ。
トラウマの克服には時間を要する。それは優希が一番分かっているところだった。
「私はね、」
そんなことを考え、話題を模索していた優希に楠木さんが口を開く。
「どうしても人を信用できないんだ」
「うん、」
楠木さんはおもむろに立ち上がると、少し遠くに夜景が見えるフェンスに向かって歩いていく。
「私の話も聞いてくれる?」
「楠木さんが良いなら、聞きたい」
優希は、目前の儚げな少女──楠木さんの "不思議" に寄り添う必要があるように感じた。
どうしてこの子はずっと心から笑っていないのだろうか。
どうしてこの子は、この日この時間この場所にいるのだろうか。
「途中で泣いちゃったらごめんね」
「ゆっくりでいいよ」
楠木さんが話し始めたのは、それから数十秒後のことだった。
♢
美星には幸せの形がはっきりと分かる。
そして、今の自分がその欠片にすら当てはまらないことも。
美星はかつて幸せの中にいた。
一人っ子である美星は、幼い頃から両親の愛情を余すことなく受け取って育った。
父親も母親も美星にはとても優しく、しかし時に厳しく、良い親だった。
もちろん美星も両親を愛していた。尊敬していたし、将来はこんな家族を持ちたいと思っていた。
だが美星が中学二年生となったある日、その理想は音を立てて崩れ落ちた。
父親の不倫発覚。
美星にとって良いお父さん出会ったはずの人間は、一瞬にして塵屑同然の人間に成り下がった。
今までの幸せが嘘みたいに消え去っていく。
母親は毎日泣いているし、父親は土下座をしている。
笑顔がなくなった。その日から楠木家に以前の笑い声が響くことはなくなったのだ。
暫くして母親が鬱病になった。
母親はそのまま実家に帰り、父親と二人の生活が始まった。
母親の方について行きたかったのだが、学校もあり、母の実家も広い家ではないため美星は我慢して父親と二人で住んでいる。
どうにか離婚は避けたが、今でも別居は続いており、美星の誕生日以外で両親二人が会うことは滅多にない。
幸せな家庭が消え去るその瞬間は、美星にとってショックが強すぎた。
しかし、それだけであれば耐え難いものでもなかった。
少し我慢すればいい、それだけの話。
そう思っていた美星に、更なる災難が降りかかった。
学校でのイジメだ。
どこから漏れたのか、両親が離婚寸前で別居していることが広まり、イジメが始まった。
最初は軽いもので、下駄箱に置いてあった靴の中に両親を揶揄するような内容の手紙が入っていたり、話しかけても無視されるくらいのもの。
これも自分が耐えればそれで済む、そう対処している美星へ、イジメはエスカレートしていった。
イジメをするメンバーは大抵決まっており、クラスのワイワイ系とその金魚のフンたち。
机への落書きや、ゴミを投げつける、不潔呼ばわりされ、盗撮や脅しも毎日のようにされる。
それでも、美星には唯一の救いがあった。
小学校からの友達である、才川 陽菜の存在だ。
陽菜はイジメを受ける美星をいつも慰め、先生に相談をしたり、美星をかばったりしてくれていた。
折れかけていた美星の心は、陽菜によって支えられ、どうにか学校に来ることはできていた。
しかしその支えも、長くは続かなかった。
美星をかばう陽菜が気に食わなかったイジメ犯らは、標的に陽菜も加えた。
美星への嫌がらせも行いつつ、同時に陽菜にも行う。
美星は陽菜に毎日のように謝り、陽菜はそれを宥めていた。
「美星ちゃんが一人じゃないなら、私はその方がいい」
そう笑いかけてくれた陽菜の顔は今でも思い出せる。
その時は嬉しかった。
自分の味方になってくれる人間がいてくれる、それだけで自分は生きていて良い気がしていた。
陽菜となら、一緒に乗り越えられる。そう思っていた。
美星は状況が飲み込めなかった。
母親の実家に訪れていた休日、帰ってくると、何故か家の前にはいつものイジメ犯らがいた。
自分の家は知らないはず、もしかして学校帰りにつけられていた?
そう思った美星の目に、信じ難い光景が映った。
イジメ犯を楠木宅に導いていたのは間違いなく、陽菜だったのだ。
初めは脅されて仕方なく…なのかと思っていたが、様子を見るにそうではないようだった。
陽菜はイジメ犯の奴らと共に笑っていた。
玄関の前から家を指さし、楽しそうにしていたのだ。
目を疑った。
あれだけ優しくしてくれていた陽菜はどうしてしまったのか。
気づくと美星は陽菜の前に立っていた。
きっと何か理由があるに違いない。
陽菜も苦しんでいるに違いない。
そう思った美星は陽菜に問いただした。イジメ犯の目の前であることも忘れて必死に聞いた。
陽菜は、陽菜だけは自分の味方であると信じて。
「汚い、近づかないで」
陽菜から発せられた言葉はそれだけだった。
信じていたはずの、味方であったはずの陽菜はもうそこにはいなかった。
膝から崩れ落ちる美星、絶望で何も考えられなかった。
その頭に冷たい水が降りかかる。
笑いながら美星に水をかけていたのは、他の誰でもない、陽菜だった。
その日から、美星は人間を信用しなくなった。
信用しなければ、裏切られることはない。
難しいことだけど、裏切られる痛みに比べれば大した問題ではなかった。
人間なんて、自分可愛さに平気で嘘をついてしまう生き物だ。
例え相手が家族であっても、人間は簡単に裏切ることができる。
信用という不確かな押し付けで結ばれた関係は、まるでなかったかのように一瞬で消え失せる。
昨日と今日で考えが変わるような生き物を、どうして信じることが出来ようか。
家族だから、友達だから、それだけの理由で裏切らないと証明できはしない。
勝手に信用して勝手に裏切られ、勝手に傷ついている。
人間とは醜い生き物だ。そして同時に、見にくい生き物でもある。
他人の内情全てを知ることなど不可能なのだ。
自分自身ですら状況によって考えや感情は掴めないものになる。
不安定な「自分」にしがみついて、不確かな「相手」に干渉しあって生きている。
そんな人間という不完全は、美星にとって恐怖となった。
その恐怖は次第に心を侵食し、やがて美星は人間と言葉を交わすことをしなくなった。
不安ゆえの孤独。
心を閉ざした美星には、友達と呼べる人間は一人もいない。
高校に入った今でもそれが変わることは無かった。
イジメはなくなったものの、だからといって信用する理由にはならない。
深い傷を負った美星の心はもう修復が不可能な程までに追い込まれていた。
♢
自身の悲痛な過去を語りながら、楠木さんは初めて会った時のような顔をしていた。
未来も希望も何も無い。
ただ眼前に広がる暗闇に絶望するだけ。
元々家族や友達が大好きだった楠木さんにとって、それらはいずれ裏切るものとして認識されている。
それでも集団生活をする中では気丈に振る舞わねばならない。
社交的でなくとも、せめてイジメを受けない程度には。
その辛さ、苦しさは本人にしか分からないし、恐らく楠木さんは共感を求めてはいないだろう。
それでも、自分に出来ることが無いわけではない。
きっと楠木さんの救いになるような言葉、行動、態度がある。
だが軽薄な言動をしては逆効果である。なるべく慎重に言葉を選ばねばならない。
「楠木さん。楠木さんの気持ちは完全には分からない。でも──」
「私ね、」
優希が優しく語りかけるのを遮って、楠木さんはゆっくりと、悲観的な瞳を優希に向けた。
小さく、か細い声だったが、まるでその声以外の音が消えたかのように、まるで今この世界には、優希と楠木さんしか存在していないかのように、楠木さんの感情が優希の全身に浸透した。
楠木さんが何を言おうとしているのか。
その顔で、その瞳で、その声で。
優希に何を伝えようとしているのか。
言葉がなくとも、優希には全て分かった。
「自殺するためにここに来たんだ」
楠木さんの今までの言動に全て納得がいった優希は、その場に立っていることすら出来なくなった。