#9 9月4日
新田さんは、突然のことに、茶色い瞳をすーっと狭め、想っているきっと色々を呑みこんで「どうして、それを伝えにきてくれたの?」と、そう訊ねた。
ぼくは、何冊かの古書をとりあえず、狐色の机のうえ平積みにした。古紙と古布の匂いがツンッと鼻に入った。
平くんはそばかすのあたりを擦り、すこし考え「どうしても、ちゃんと、伝えたかったんだ」と、優しい表情でそう言った。
「平くん、私たちーーー」彼女はぼくをみて「なにもできてない」ふり絞るように、そう言った。
「うぅん、二人だけなんだ」
「私たちだけーーー?」
「この学校で、どこにいても、同じように接してくれたのは。みんなのなか、みんなと同じように接してくれたのは、ぼくにとって二人だけなんだ」
平くんは、まっすぐに僕らを見ていた。
けれど、目の奥の虚ろさは隠されていなかった。ぼくは「この先はーーー」と、その先、訊ねようとしたが、やめた。
「今は辞めることに、力を使いすぎちゃって。本当に、ありがとう。かえって心配させてごめんね、二人は、優しいから」
「ーーー大丈夫?」そう訊ねると、彼はわずかに口を結び「うん、自分なりにだけど、考えて決めたんだ」と、少し悲しそうな顔をして「ーーーありがとう。それじゃあ、行くね」と、背を向けた。
「ねぇ、平君ーーー」新田さんはそう呼びかけると、振り返く平君に「ーーーなにも、悪いことしてないよ?」
その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
その涙はすごく耐え難そうにみえた。
その耐え難さは、きっと、痛みを伴っているようにみえた。
どこからかのびてくる、かぼそい糸、つかむことも、にぎることも出来はしない。ただ、のびてくる方へむかって、たぐるように、触れぬように、手をのばすだけーーー。
新田さんの透き通るような白い肌。
換気扇から風が降りてくる。
図書室にいる人々から徐々に集まる視線を気にし、二人に「ーーー少し、話そっか」と、声を掛けた。
平くんにすこし待ってもらったあと、作業をおえ、図書室をでて。
ザッ、ザッ。
一歩づつ、踏み石を擦る足音が、なにか空気を張りつめさせてゆく。
ザッ、ザッ、ザッ。
蒼の消えゆく鉛色の空に、木々は揺れ、また、ざわめく。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。
誰かを虐げてないとやってられない人達がいる。
ただやられるがままに、虐げられる人達がいる。
彼らの“行為”は、悪なんだろうかーー。
彼らの“存在”が悪なんだろうかーー。
いじめ、という言葉があまり好きになれない。
虐げられる人が善、虐げるものが悪、ほんとにそうなのだろうかーー。
それを善悪で測る人は、よっぽど世の中に甘えている人か、自分を夢見ている人か、朝のニュースをあまり見ない人だと、そう思う。
ザッ、ザッ。
振り向くと、新田さんは微笑みながら、平くんのとりとめもない話を聴いていた。お互いに、沈み合わぬよう、かえって明るく話してるようだった。
ザッ、ザッ、ザッ。
昼、この場所は、とても過ごしやすかった。
気温よく、湿度なく、風が通り、
朝海は白いYシャツを腕まくりしながら焼きそばパンを頬ばり、あれや、これや、いつものようにとりとめのない話をする。
「俺はな、風下に立ちたくないだけなんだよーーー」と、朝海は笑った。
「それにしては、随分、上の方にいるんだね?」と訊くと、彼は「だってそこが一番、風当たりがないだろ?」と、また笑った。
これが、ぼくらの境界線。
最近、お互いの距離感、踏み込むときの礼節を図る、そのやりとりが、心地良かった。
ザッーーー。
いつものテニスコート裏、夕暮れを過ぎはじめた今、石造りの水のみはボンヤリとした影を残して、木製ベンチは、また、いくらかの傷みを伏せていた。赤銅色のタイルが、足を踏み込むとパリっという硬質な音をたてた。
「そこに座ったらーーー?」ぼくは、ベンチの方を指さし、二人に呼び掛けた。
「ごめん、なんだか私、余計なこと言っちゃてーーー」新田さんは、疲れたように、そう言った。
「そんなことない。なんだか嬉しいよ、図書室以外の場所で、二人と話をすることができて。ありがたいし、大袈裟かも知れないけど、光栄な気さえするよ」平くんは明るく振る舞った。
「平くん、あのねーーー」新田さんは呟くようにそう言ったけれど、あとが出てこない様子を見守って、平くんは優しく、はにかんだ。
「ありがとう。僕ね、自分のなにが悪かったのか分からないんだ。自分を不器用で頑固だと思うよ。もっというと、みんなの気持ちが分からない、分かってないんだと思う。だから、みんなに気持ち悪がられるんだろうと思う。その不器用は、人にとって罪なんじゃないかと、そう思うんだ」
「そんなことーーー」それから新田さんは、また、なにか言葉を紡ぎだそうとしたが、彼女だけじゃない、僕も内心、納得してしまって、何も言えないーーー。
罪と罰、そうなのかもしれない。
原因と結果、そう簡単になってしまうかもしれない。
ぼくらは知っていた。
遅かれ早かれ、彼はこうなってしまうだろうと。
けどそれは、彼の結果だ。助ける方法も、必要も、意味もなく、願いもなかった。
これは彼の産みだす“違和感”に対する順当な罰だ。
どこか、そう思ってた。
今も、そう思ってる。
けどーーー。
それが罰として。
誰に、その罰を与える権利があるだろうか。
小川? 嶋、取り巻き、担任、親、環境、現実?誰が? ーーー罰を与える権利があるだろうか?
人間には尊厳があるのを知っている。
それは決して、傷つけさせちゃいけない。
いつだって、誰にだって、剥き出しだって、ぼくらのなかに必ず“それ”はあり、それは、いくら闘ってでも、絶対に譲ってはいけないもの。
それがなくなってしまっては、僕らは“人間”でなくなってしまうんじゃないかーーーそう、思っている。
彼は代償を払うだけ。
それだけだ。
それだけでいい。
「平くん、学校は、辞めたくて辞めるの?」
ぼくがそう訊くと、平くんはすこし戸惑いながら「ーーーわからない」それから目にうっすら悔しさを浮かべ「辞めたい、と、そう思ったことはないよ。でも、もう、ここに居たいと思えないのーーーかな…」
悔しさから怒りへと変わってく。その色には、幾分、ぼくに対する感情も、含まれていると思う。
「本当は、情けない。家族にも、申し訳ない。恥ずかしいよ。いつもこうなんだ。けど、もう、疲れて。本当に、疲れてーーー希人くん、ぼくは、間違ってるかな?」
ドキッとする。感情に、迷いながら「間違ってなはないと思うよ」
「ーーーうん」
「自分の場所をつくるには、ここに創るか、また、探しにいくのか、どちらしかないと思うから」
「ーーー分かるよ。でも、分からない。ぼくには、分からない。だって誰かを傷つけたいとなんて思ってないから。誰かを貶めようなんて思ってないから。誰かを不快にさせたいなんて思ってなくて、だけど、ぼくは、ここにいる。なにもできなくて、ここにいる。いるしかなくて、ここにいる。惨めなくらい、ずっとあの、悪意に負け続ける。ぼくは、どうして、ここに居ることしかーーー」
あぁ、深く、息を、吐きだして、内にある粗雑な気持ちすべてを、深く、深く、身体からだすように、深く息を吐きだして。
「ーーーここにいよう?」そう、訊ねた。
彼は、すごく、残酷そうなものをみるように、ぼくを見た。
「ーーーここにいるからさ」
そう、伝えた。
新田さんは、なにか切なさを噛みしめるように、ぼくを見た。
「なにができるかは分からない、なにもできないかも分からない。でもーーー、ぼくらは、ここにいるから」
自分の知らなかった“あの表情”を思いだす。
朝、透きとおった海を散歩して、踏み入れる、砂は濁って舞いあがり、しばらくすれば、澄んでゆく。思わぬ波に、全てはなし崩しになって、また、嘘のよう、それも全てなかったことになる。
「いつもーーー、いられるわけじゃない。いつか、いなくなるかもしれない。でも、きっと、放課後、あそこにくれば、ぼくらはいるから。それはただ辛いことかも、間違ってることかも分からない。けど、ぼくらは、いるよ。なにもできないけど、あそこにいるから」
新田さんをみるとうっすらと汗ばんだ表情で、いつものよう優しく、微笑みながら、彼に小さく頷いた。
彼ははしばらく呆然として、それから、わずかに、うつむいたーーー。
誰が悪人かは分からない。
でも、彼じゃない。
とりまく悪意。
でも、それも、早朝、澄んだ浅瀬が濁った程度だ。
彼はきゅっと下唇を噛みしめ、親指をきゅっと握り、小さく息を吐いて、顔をあげ、そしてーーー。
「ありがとうーーー」そう、優しくはにかんだ。
次の日、彼は学校に来なかったーーー。
それからも、彼は学校に来なかったーーー。
そしてまた、僕らの日常が始まった。
彼がいない日常は、二週間も経てば、当たり前になっていた。
ぼくはもう、彼を忘れかけていたーーー。