#8 9月4日
「随分、焼けたなぁーーー」朝海は、食堂で買ったやきそばパンを片手に「で、すこしは波、のれるようになったのか?」と訊いてきた。
「ーーーいや、まったく」
呆れるように驚くようにこちらを向いて「なんだ、そりゃーーー」と、大きく笑うと「よくやるよ、それで懲りずに」と、愉しそうに相変わらずケラケラしていた。
新学期になってから、週に一回、朝海と昼食をとっているーーーというより、いつもの場所に、彼がくる。「食堂はいいの?」と、聞くと「いいんだよ、あんまり顔だし過ぎるのも、なぁ? ありがたみがなくなんだろ」と、白い歯をみせて、笑っていた。
ぼくらと入れ違い、食堂へと入ってゆく3人組の女の子。
そのうちの1人、新田さんは、目があうと「ーーーあれ、希人くん」と、微笑みかけてきた、それから「一緒だったんだ」と、朝海へ話しかけた。
すこし会わないあいだ、栗毛の髪は伸ばされ、熱にあてられ、ゆるやかな曲線を描き、肩のさき、ストンと落ちている。
「ーーー今日も、あそこへ行くんだよ、いいだろ?」と、朝海は愉しそうに笑った。
「そうなんだ。私も遊びにいこうかな」と、新田さんは微笑むと「なんてね、だめだよーーーあんまり希人くんを困らせちゃ」と、朝海に向かって目を細めた。うしろの女の子たちは「いいな、いいなぁ」と、冷やかすようにニヤニヤしていた。
新田さんは照れてるように、手で払うように「ーーーもう、やめてよ」と、ちいさく恥ずかしがった。
「じゃあ、薫、行くぜぇ」朝海がポンっと右手をあげる。
新田さんはそれに合わせて、白い手首をわずかに傾げると「ーーー今日もよろしくね、希人くん」と、微笑んだ。
二人はもう公認の仲だった。
これが、新学期になって、唯一、僕らを驚かせた変化だったかもしれない。
一年生だけでなく、その容姿もあいまって、校内のどこでも噂される仲だった。
この学校のなかでは、おそらく他の人より、二人を近くからみている僕からすると、それは、少し不思議な関係だ。
この二人には無意識のうち、確固たる暗黙の了解があるようにみえた。
お互いの邪魔をしないーーー。
女の子たちにやんや囲み取材をされながらも、新田さんは、何を訊かれても、何を羨まれても、いつも微笑んだ。
自分からなにか浮かれることもなく、けれど、なにかを隠そうとすることもなく、いつも微笑みながら「うんうん」とか「そうだね、そうだね」と。好感しかもたれないその受け応えはまるで、皇族の振舞いのようだった。
朝海も以前はなにかにつけて「おい、新田さん紹介してくれよー」と、おどけのタネにしてきたのが、今ではピタリ嘘のようになくなり、小川あたりがたまにからかいながら話題にしても、特に何かを隠すこともないけれど、ただ、大きく笑うだけだった。
思春期のなかにあって、二人は嘲笑されることもなく、もはや、憧れの的にさえなっていた。
ものごとをひけらかさないことによる神秘性ーーーそれを、この二人は、きっと、分かってる。
神秘性がそのままカリスマ性、アイドル性へと繋がり、二人の肖像をおしあげていくことが、分かってる。いや、もはや、身についているーーー。そう、みえた。
寂しくは、ないのかな。
棚に並べられた古書、埃くささ、湿気のかおり、秋、もう、9月。
「ーーーあの子だよ」自習室、遠く、聴こえてくる、ささやき声。
「うわ、本当だ。かわいぃねぇ。となりが彼氏君?」
「うぅん、違うよ。でも、二人ともーーーわたしの、かわいい後輩」そのうちの一人、蒼衣さんがそう呟くのが聴こえた。
「そうなんだー。いいなぁ、いいなぁ、一年生は」
もっていたシシャープペンシルで同級生のおでこをつっつきながら、蒼衣さんは「ーーー集中なさい」と、そっと口を尖らせた。
僕らは先輩たちのうっすら聴こえてくる声に気付かぬふりをしながら、図書の入れ替えをしていた。
新田さんは、手に持っていたベルベットのような表装の本(それはすごく力をもった深緑をしていた)をそっととじながら「平くん、遅いねーーー」と、心配そうに呟いた。
丸みをおびた古時計の針は、五時を過ぎていた。
「ねぇ、希人君ーーー」
「どうしたの?」
「こんなこと、聞くの変かもしれないんだけどーーー大丈夫かな」
た、た、た、た、秒針が近づいてくる。
「平くんのこと?」そう訊ねると、彼女は不安そうに頷いた。
「分からない。あんまり詳しくは知らないんだ」
「ーーーそうだよね」
「けど、彼にしか変えられないことだから」
「うん」
「きっと、彼にとっての現実だから。彼にとっての現実は、みんなにとっての事実で、だからこそ、やっぱり彼にしか変えられないと思うからーーー」それから、ぼくは、何かを言いかけて、思わず、やめた。
新田さんが。
まるで虚空に呑みこまれそうな表情がーーー。
それからすぐ、目があって、うっすらと哀しそうにしながら「ーーーそっか。そうだよね。辛いね」と、すごく優しく、微笑んだ。
窓の外、黄色くなりはじめた木々の葉が、嘲笑うかのように、ざわめいていた。
どうすることもできないーーー。
「二人とも、遅くなってごめんーーー」ふと、前をみると、そばかすをなぜる平君がそこにいた。
また、僕らは示し合わせたように、少し、姿勢を正し、お互いをみて、少し、笑った。
「よかった、平くん」新田さんは、目尻に優しい皺をよせ「ーーー全然、大丈夫だよ」と、微笑んだ。
彼はまた親指をきゅっと握りしめていた。
どこか切なそうに、それでもすっきりしたような表情で、ぼくらに「ーーーごめん、二人とも。僕、学校、辞めることになったんだ」と、そう告げた。