#5 7月20日
図書室の貸出カウンターうら、新田さんは資料整理の手をすすめながら「希人くんは、やっぱり、やさしいねーーー」そう微笑んだ。
「どうして?」
「だってーーー平君があんなにしゃべってるの、教室じゃなかなか見ないから」
昼すぎの白微な光はやわらかに、ブラインドの隙間からさらり流れた。
「ーーーそう?」
「うん。夢中になれることがあるって、すごいよね。途中から、羨ましくなっちゃった。あんなに夢中になれること————私にも、見つかるのかなぁ…」
ぱらぱらと古紙をめくる佇まい、透明感。そのまわりを、蛍光灯のあかりがちらちら舞っていた。
「きっと、見つかると思うよーーー」
「ーーーそう?」
「うん。でも、見つかるといいね。分からない。自分のことも含めてさーーー」と、ぼくは笑った。
新田さんは、そのうすい唇をわずかにひらき「ーーーありがとう」と、微笑んだ。
どこか、寂しそうだ。
夢中になること、それが良いことなのか、ぼくには分からないーーー。
それでも日々は、あっという間に過ぎてゆくーーー。
「ーーーありがとう、二人とも!」
手洗いから帰ってきた平君が、こちらへ呼びかけてきて「あっ…」二人は互いを見合った。ぼくらはすこし困った表情で、けど、どこか愉快な気持ちだ。
平君は新田さんと同じ、隣クラスの4組。今日の図書委員はこの三人、ぼくらは、話のなか、新田さんがおすすめの映画について話しはじめたのをきっかけに、気付くと作業そっちのけで好きな映画や物語の話に夢中になっていた。というより、彼の話に夢中になっていた。肩まで伸ばされた癖ッ毛は、独特のうす紫に染めあげられ、先のほうが吊り上がった鼻、やや垂れた細目。一見、見ためは攻撃的な印象もするけれど、実際は内向的で気弱そう。ところが一転、自分の興味がある話となると、堰を切ったように喋りだす。驚くべきはその見識量で、どんなジャンルの映画でも、全てに、話が通じ、それどころか、僕らの好きな映画や監督のことを、ぼくらの何倍もよく知っていて、時にこちらから話したことを、その何倍も丁寧な補足をしてくれながら、より魅力的にその内容を語ってくれた。
夢中になって夢中なことを語るその熱気は、まるでバチにたたかれ震える太鼓のように、こちらへとその振動を伝えくる。
その脇目もふらずにしゃべる様子ーーーぼくたちは、圧倒された。圧倒されながら、ぼくは、すこし「危なっかしい」と、そうも感じた。
たぶん、それはきっと、すごく単純な、ただよく喋る人への、すごく単純で純粋な、嫌悪感。
それで彼を拒絶したくなるということはない。けど、だからこそ、ちょっと勿体ないーーーと、そう感じた。
「ありがとう、ぼくの、こんな話なんかを聴いてくれて。」気恥ずかしそうに頬のそばかすに触れながら「なかなか聴いてもらえる人がいないから。すごく映画が好きなんだね、二人ともーーー」そう言って彼は、はにかんだ。
「平くん、ほんとになんでも知ってるんだね———」栗毛の彼女はわずかに息を吐きだし、背もたれに身を預けながら「もう私、平君と話したら、自分のこと映画好きだなんて言えないな」と、微笑んだ。
「そんな、そんな。勘弁してよ、ほんとうに。ごめんね、喋り過ぎてごめん————」彼はしきりに謙遜していたが、どこか誇らしそうで、でも、くすぐったそうにはにかんだ。
映画が好きだという自意識に気付き、ぼくは一人、気恥ずかしくなったりするーーー。
図書室入り口、エメラルド色に塗られた木枠のガラス扉がギギっと音をたてながらあくと、小川と嶋が入ってきた。
彼らはすぐこちらへ気付き、小川が「おー、二人とも!」と、声をかけてきた。ギョロ目の嶋が、あたりを舐めまわすように見まわしながら「椎名ぁ、あんまり新田といると、朝海に妬かれるぞ」とからかってきた。
新田さんは一点の隙もない愛想笑いで微笑んで、ぼくは「じゃあ、写真でも撮って送ってやってよ」と応えると、二人は愉しそうに「いやいや、そんなことしたら俺達が殺られちまうよ」と、大声で笑った。その声量は図書室にはいささか不釣合いな声量で、奥の方、三年の先輩達が苦い顔をしてこちらを見ているのが、横目にみえた。
それから二人はずっと、海に行った時の小話をしていたが、ふと、先輩たちの視線に気づいたのか、互いに目を見合せると、話のトーンを急に落として、なにやら課題をやらなければと言って、自習席の方、歩いていった。
新田さんがまた、何事もなかったかのように、作業をすすめはじめた。
そのよこ、白微な光のうえ、優しい埃がはらはらと舞っているーーー。
その様子には、分別が、散りばめられているーーー。
そして誰も、喋らなくなった。
平くんは小さく、親指をキュっと握りしめていた。
悔しさ、恥じらい、堪えきれぬやるせなさがその目に滲み、結局、それは、漠然とした恐怖として映し出されているようだった。