#1 5月9日
踏み石のうえを歩く。
背の高い木々にかこまれ、ひんやりと気持ちのいい日陰の道。
さっと湿った土壌に、踏み石は一歩づつ、すこし遠くなったり、また近くなったり。
足下では地を這う小さな虫たちが、そそくさと行き交い、あたりでは新緑の木々がささやき、ざわめき。
すっと、初夏の風が顔にあたり、前をみるーーー。
たまたま見つけたこの場所。
高校に入学してから、ほんとんどの昼休みをここで過ごしている。
テニスコートの裏、休憩するために造られたのか、けれどコートとも繋がっていない、なんのためにあるのかよく分からない、ひっそりとひらかれた場所。
赤銅色のタイルが敷かれているが、ところどころが崩れてる。ここにあるのは、腰丈の古びた石造りの水のみ、趣を感じさせる傷んだ木製のベンチ、二つが互いにとって程よい距離で、佇むだけ。
なんども雨風にさらされたのであろう黒ずむ、その年寄りベンチに腰をおろす。
見上げると、もう太陽は真上に登っているけれども、まだここには水々しい早朝の気配が漂っていた。後ろから生える木々から逞しく伸びる無数の枝と緑葉によってつくられた涼しい木陰が、ささやかな風音を立てながら揺れている。
本をとりだす。まだ読み始めだけれど、端的な8行の前書きのなかの一文、心惹かれた。
「ウェルテルと同じように胸に悶えを持つやさしい心の人がおられるならば、ウェルテルの悩みを顧みて自らを慰め、そうしてこの小さな書物を心の友とされるがよい」
気まぐれに浮かぶ雲たちは太陽を悠々とさえぎり、文字を照らすあかりを弱めた。
大切な人のことを想う、きっと、ぼくも、想われている。
それなのに、どうしてこんな———。
空っぽ。
この世界に居てもいなくても同じ、近頃ずっとそんな気がしてる。
無性な空虚さに呑み込まれるように溶け込んでゆき、自分という存在が限りなく透明になってゆく。
必死だった、生きることに必死だった、あの頃〝僕〟、確かに、生きていた。
今は、どうだろう、意味もなく、初夏の透きとおる空気の中、行き来する眩いひかりの粒に視点を合わせば、景色が微睡んでゆく。
「なにやってんの?」
振り向くと日陰の道からひょいっと顔を出して、直江が、愉しそうな笑みを浮かべていた。
「ーーーどうしたの」と、訊ねた。
「食堂の前でね、朝海君に会ったの、そしたら、ここで希人が一人で塞ぎ込んでるって。だから慰めに来たの。わざわざね、どう、優しいでしょう」イタズラな笑みを浮かべ、黒い瞳を輝かす、やや吊り上がった目。高くはないけれど繊細で綺麗に通った鼻、話し好きな厚い唇。小さな耳に掛けられ、胸のあたりまで伸びる、繊楚な黒髪。マネキンのようにスラッと滑らかに伸びた手足、華奢な体からは生命感が溢れている彼女の上品な外観は、中学の頃から、人の目をよく惹いた。
平織りのしおり紐を、吹きそよぐ風にめくれそうな途中のページに挟む。
彼女はひょいと僕から本を取り上げ、裏表紙を読みながら「ーーー恋してるの?」と、憎らしい目でこちらの顔を伺いながら、訊いてきた。
「どうして」
「だって裏の紹介文にね、この作品は、恋する純情多感な青年の代名詞だって書いてるよ」黒い瞳が輝きを増してゆく。
僕はなんとなく、コートの端にとり残された、くたびれたテニスボールを見つめていた。彼女はクルっと左どなりに腰をおろし、その白く繊細な右手を図々しくこちらの肩にのせる、脚を組みながら身をこちらへもたれ掛け「ーーー違うの?」と、改めて、そう訊いた。
何も言わずにいると、直江はガッカリした様子で「なんだぁ、また希人と恋の話ができると思ったのに」と、溜め息をつき「私ね、希人は恋をしてたら良いのにって思う。そしたら、私には分からない、今、悩んでるようなこと、きっとみんな吹っ飛んじゃうのにって思うの」
「ーーー悩んでる?」
「抜け殻みたい」
「ーーーそうかな」
「そうだよ。せっかく、私という、最高のクラスメイトと一緒になれたというのに…」そう言うと、彼女はこちらの左脚を強くパンッと叩き「とにかく、そういうこと!」
「どういうこと…?」
「恋をすれば良いってこと!今、何をどう想ってるかは、知らないけれど、恋ってすごく強い感情。クセになるくらい、世界を引っくり返しちゃうくらい。良いんだよ、だから希人はそういう恋をして、支配をされて、それが一番、簡単でいいんだよ」
彼女の力説に妙に納得してしまいながら、それから、一息ついて、それから二人は、また、たくさん笑った。
空は、無心に伸びやかに澄みわたる。わずかに湿った風がこちらへむかって吹いてくる。フェンスの桟のうえ、小鳥がこちらを向きながら顔を傾けている。暑さを、感じ始めた。
「私なんて、また好きな人出来ちゃった」嬉しそうに、直江はそう言った。
「ーーーどんな人?」
「背が低くて、声も低い人」
僕が笑うと、彼女は口を尖らせ、不服さを示し「失礼ね! なんで笑うの?」と、肩を小突いた。
「もっと、ないの?」
「分かってないのね。 好きになればそれも、みんな魅力なんだよ。すごく優しい包容力の固まりみたいな人、バイトさきの店長、誰にも内緒だよ」
「大丈夫、話をする相手もいないから」 ベンチの足下、水滴を纏ったペットボトルの緑茶を手にとった。
「ーーーでもね、別に付き合いたいとまでは思わないかな。恋というよりは憧れ。私はいつも誰かに憧れていたいみたい、それは誰かに依存したいってことかな? それじゃ、まるで、気持ちの弱い子だよね」
緑茶は買ってきたばかりなので、まだ冷んやりとしていて、喉に通すと体が喜んだ「うぅん———そんなことないよ」
「どうして?」
「浸ってないから、かな」
彼女は「うーん」と首を傾げた。
「自分でちゃんと分かってるでしょ、ほら——」そう言いかけると、彼女は頬を紅潮させ、ぼくの言葉を遮ぎった。
「そうかも! 分かった! 私ね、陶酔したくてしてるの、恋に恋してるの! それを分かってやってるんだ! だって愉しいことを、わざわざ捨てることないじゃない! 恋すれば、嬉しいことも哀しいことも豊かに思えるもん。そんな世界を自分の意思で創りだしていけるなら、そっちの方が良いに決まってるよね」直江はそういうとグイっとその小顔を近づけ、こちらをジッとみると、嬉しそうに耳元に近づき、小声でささやくように「やっぱり、希人が好きーーー」そう言って、ぼくの額に彼女の額をあわすと、それからこちらをジッと見つめ、それから微笑み、それからいつものように、また満面な笑みを浮かべた。
小鳥、羽ばたく。
ぼくは、とても、とても、切なく、儚い。
彼女は小さな頭をぼくの脚にのせ、昼寝をするようにその身体を横たわらせた。甘え上手な頬にサラサラと惹きつけられる黒髪を、邪魔そうに耳うしろに流してやると、そのまま目をとじた。
それから、しばらくお互い何も喋らず、また、本を読み始めた。
その静かに横たわる直江の様子は、まるで一つの絵になっていた。
目を瞑り、昔、彼女とよく語り合ったこと、いや、彼女が喋る恋話をひたすら聴いていた頃を思いだした。
恋に限らず、ぼくはなにかその、失ったあとの空虚さが恐い。
それを埋めるため、なにかを探し続け、なにかに頼り続け、なにかが貪欲になることが恐い。
気づくと、直江が目をあけていた。
「ーーーねぇ、希人、私、いまとっても私が好きよ」
そういうと僕の首に手をまわし、ぶら下がるようにして体重をのせて「ほら、そんな顔しないのーーーもっと、自惚れていいんだよ」と言うと、また目を瞑り、力を抜くように一息つくと、ストんっとその柔らかな手をベンチのそとへ落とした。テスコートのほう斜めから、微かな土ぼこりを乗せた風が吹き渡り、二人の白いYシャツが膨らみ、風にたなびいた。爽やかな暑さだったけれども、二人はうっすらと汗ばみ、思考も少しだけ鈍ってきているようだった。
校舎から、5限の始まりを告げる小気味いい予鈴が鳴った。
直江のうっすらひらいた黒い瞳孔が眩しそうに空を見上げていた。
ぬるくなった緑茶を、すこし口に含む。
「ーーーそろそろ行かなきゃ」僕はそう言って、白い校舎の方を眺めた。
でも、どちらも教室へ戻ろうとはしなかった。
ゆっくりとした時間が流れて、何だか可笑しくなって、二人はまた笑った。