たとえば、これを「1ヵ月ぶりに見た日の光」にたとえてみる
Twitterにぼろくそ長文ぐちツイートしようとした内容で短いの1つ書けそうなので勢いで書きました
長期間、幸福感を得られないことがある。
幸福なことがなかったのか、幸福と感じる感覚が狂ってしまったのか、今回はその話はおいておいて。とにかく、長く幸福という気持ちを忘れていると、ふいに見た人の幸せ、というものに耐えられなくなることがある。
アレルギーのように、人が幸せそうだと、吐きそうになったり、身体がかゆくなったり、頭痛がしたりするのだが、そんな感覚を覚えたことがない人は、たいてい「そんなに気にしなくてもいいのに」などと言う。
そういう人からすれば、そこまで感覚がおかしくなるまでの期間幸福を忘れたことなどないので、煽りなどではなく、本当に理解ができないのだと思う。
たとえば、これを「1ヵ月ぶりに見た日の光」にたとえてみる。
まぶしくて目もあけられないし、時期によっては熱中症にもかかりやすいだろう。日焼けもしやすいかもしれない。それを、無理解に「そんなに気にしなくてもいいのに」と言われても、反応に困る。
気にしてもしなくても、日の光は当たっていて、まぶしさが変わったりしないのだから、日差しを避けたりしない限り、まぶしくなくなったり、熱中症のリスクが下がったりというようなことを、「気にしない」ことで解決することはなさそうなのだが。
今のたとえでいうと、「1ヵ月も日の光を浴びていないというのは、その人は引きこもりか何かなのか」という疑問をぶつける人がいるかもしれない。
この本文の著者は残念ながら現在その通り引きこもり中だが、働いていたころも夜勤ばかりだったので、昼間に用事がなければ、日の光は基本的に見ない生活だった。
著者がどうこうではなく、生活によっては、長く日の光を見ないのが当たり前の生活、というのは、少し考えればあり得る話のように感じる。ただ、先ほどの言葉を投げる人にとって、自分は、環境を理解するよう思考を巡らせるよりも、何も考えず、反射的に暴言を投げて一瞬の優越感を得た方が利益があると判断できる程度の存在なのだろう。
「好き」の反対は「無関心」とか言われたりするが、理解する気がない人は、何を言おうと、会話をするしないの前から、こちらの考え方がわからないからといって、理解する意思はないのだろう。
引きこもりだと言う人については、はじめから理解する気がないのは、なんとなくわかりやすいかもしれないが。事情を聞きながらもなお「そんなに気にしなくてもいいのに」という人に関しても、けっこうに相手を理解する気がない。著者はそう感じている。
本当にわからないのだろう。日の光を長く浴びないという感覚が、当たり前に日の光を浴びて、というか、起きている時間のほとんどで日が昇っている人にとっては。なぜそういう生活になるのか。どういう感覚になるのか。理解できない。
しかし、理解する気も、想像する気もなければ、暴言を投げるほどの興味すらない。ただまあ別に嫌いでもないので、とりあえず無難な言葉でもてきとうにおいておこう。
どれだけこちらが辛いのか、相手がどうやったらこの辛さを想像できるか。対話をする気がありそうにも思うので伝えようと、考えても考えても、まあ考えるだけ無駄なんだろう。だって相手は、はじめから理解する気なんかないのだから。
急に主語を大きくすると、人間、たいていの人は、たいていのことが理解できない。侮辱ではなく、知識として、経験として、一個人で得られるものには限界があるのだから、それが当たり前だと思う。すべての者の気持ちを理解できると勘違いすることについて、場合によっては、傲慢だ、と言われているのも見かける。
だから理解を放棄するのが正しいのか、というと。互いに理解できないことを認めて共存する方向に物事を考えるのは、人間ならできることだと思うが。まあそんな面倒なことはしないで、興味がなければ、はじめから、理解するしないすら放棄した方が、それは楽だろう。それについては大いに同意する。
著者も、安易にそういう選択ばかりできるような、そしてそれを後悔などしないような性格であればよかったと、切実に思う。