6. 北穂高
「今食べ始めたところなん?」
「ああ。お前の分もあるぞ」
「おおきに。思ったより早いねんな」
「予定より早く着いたからな。まぁ座れ」
直人の言葉に詩文が茜の隣に入ると、カレーを囲んで夕食となった。
各自の皿に、炊きあがった米とカレーが盛り付けられる。
「ええ匂いやわー」
「美味いなこれ」
「これちょっと辛いわよ。スパイス入れ過ぎよ」
「その辛さが癖になるんだ」
「やっぱり私がやるべきだったわ。茜大丈夫?」
「食べられない辛さじゃない。うん、美味しいよこれ」
「う……フハハ。お前にも心眼の素質があるようだな。今まさにアストラルサイドから――」
「間宮はんまた意味わからんこと言うとる」
周りが会話している間にも、一心不乱に食べ続けていた直人は、早くも器の底を見る。
「カレーはまだないのか」
「貴方がそう言うと思って、お米とルーは持ってきてるわよ」
「おお! でもそれお前の班の女子は良かったのか?」
「大丈夫よ。彼女達も他の班と一緒に食べてるみたいだし」
「ふーん。じゃ、遠慮なく」
「私達まだ食べてるから、もう少し待って頂戴」
「いや、自分でやるわ。健児」
「おう」
返事をした健児は残ったカレーを一気にかき込んだ。
直人は飯盒がぶら下がった棒の片方を健児に持たせると、反対側を持って水道へと向かう。そして水をぶっかけるようにして洗うと、両方の飯盒に水を溜め戻ってくる。
米と野菜はまだ残っているが、豚肉がもうない。まぁ肉は他の班も余らせてはいないだろうし、仕方ない。
直人は先ほどと同じ要領で二回目のカレー作りを行う。
「私も食べる!」
「私も貰おうかしら」
「あてももう少し欲しいなぁ」
結局のところ、全員で二杯目となりそうだ。
「亮。スパイス」
「任せろ」
「任せないわよ。私に貸して」
「お、俺のスパイスだぞ!」
「あんたの皿に水銀入れるわよ」
「どうぞ……」
しぶしぶ差し出した亮太から小瓶を受け取ったみなもは、先ほどの半分ほどの量を飯盒に入れる。
そしてしゃもじを持つと、直人の皿から順に、全員分の米をよそい始めた。続いてお玉に持ち替え、カレーをよそっていく。
見れば詩文と茜の皿にはまだカレーが残っている。辛くて食べきれなかったらしい。
「なるほど。混ぜれば丁度良くなるということか」
健児が頷く。
「その場のメンバーや環境に合わせて味を変えるのは料理の基本よ」
そう言いながら、みなもは皿を亮太に渡す。これで二杯目もいきわたった。
分量は直人のものが心なしか多かったが、これもぺろりと平らげると、ようやく胃袋が落ち着いた。
「ライスカレーなんてハイカラなん、久しぶりに食べたわ」
「京都だとあまり食べないの?」
「そういうお店少ないねん」
「給食は?」
「え、あ、あての通ってた中学、給食無かったねん」
「へぇー無いところもあるんだね」
「寧ろ帝都意外だと少ないんじゃない?」
直人が食べ終わってしばらくすると、他のメンバーも食べ終えた。
「さて、こう暗いとよくわからんが、雨が降るかもしれんらしいな」
「そうね。いつ降ってもおかしくないかも」
「じゃ、俺達はテント組み立てよう」
「お願いするわね。片づけは私達がやっておくから」
「よし」
見れば既にテントを建て終わっている班も存在する。直人達も早速取りかかった。
登山でよく使われるテントにはパップテントとA型テントがあるが、今回神楽坂の生徒達が持ってきているのは四人用のA型テントだ。
軍隊でも使われるこのテントの組み立てはそう手間ではない。テントを張る場所を決めたら、シートを地面にしき、その短辺から伸縮性鉄製ポールを伸ばしてT字に置き、ペグ位置を決める。
ポールを縦に支え、先端とペグをロープで繋ぐ。もう一本のポールも同様。次に二本のポールをロープで繋げば、倒れることはない。
梁の役目をしているロープに布をかけ、四隅をロープでペグと繋いで張る。そして出入口部分の布をボタンで繋げば完成である。
ポール二本。ペグ八本。ロープ八本。布三枚。男二人で十分持ち運べる量だ。
直人は健児、亮太と協力してテントを二張り組み立てると、シャベルでシートを沿うようにして地面に溝を掘っていく。
「何やってんだ?」
「排水溝だ」
直人は説明する。
このテント、構造上屋根と床が繋がっていない。風が入ってくるのはこの季節なら問題ないが、雨水が入ってくると悲惨である。
この技は早衛部隊時代の教官に教わった。当時使ったテントは一人用パップテントだったが、要領は同じだろう。堀った土はテント側に盛り、地面の低い方に出口を設けておけば安心だ。
「あら、綺麗に張れたじゃない」
「降ってくる前に終わってよかった」
空に雲が立ち込めているのはわかるし、風も湿っているが、まだ雨は降っていなかった。
「直人はんはこういう日も鍛錬するん?」
詩文に問われ、直人は少し考える。
鍛錬というものは一日さぼると三日分下手になる。故によほどの事情が無い限りは、短時間でも良いから一通りの型稽古をこなしておくべきだ。
だが、巡航部やこの学校の生徒に見られながらやっても気が散ってあまり意味がない気がする。。
「……今日は稽古は無しだな。その代わり、筋トレするか」
「お、筋トレか。付き合うぞ」
健児が反応する。そして直人が体幹を始めると、それに続いた。
「こんなとこまで来て筋トレかよ。じゃ、俺は風と対話してくるわ」
「待て」
去ろうとした亮太を健児が呼び止める。
「知っているぞ。演劇部が筋トレしていることを。特に体幹を重視しているようだな」
「そりゃ演技のキレに必要だからな。だが俺は脚本演出でね。あいにく筋肉に興味は――」
「わかってないぞ、亮! 全てのスポーツは筋肉に始まり筋肉に終わるのだ!」
「いや演劇はスポーツじゃねえし」
「よくマッチョは遅いなんていうイメージがあるが、あれは間違いだ。筋肉がある選手は、強くて速くて美しいのだ!」
「選手ってなんだよ」
「え、美しくなれるの?」
健児の演説に茜が反応する。
「当然だ。筋肉はあって損はない」
「じゃ、私もやろー」
「亮太。前に見た時に思ったが、体幹のやり方がなってない。今教えてやる!」
「だから俺には不要――」
だが結局亮太は健児に押し切られ、一緒に体幹をやることになった。
「悠紀羽はん。あてらはどうしたらええんやろか」
「私は地面に肘つきたくないし。お湯でも沸かしてるわ」
そう言ってみなもは直人達から離れ、詩文も後に続く。
だが、それと引き換えに別の人間が集まり始めた。
「こんなところまで来て低酸素トレーニングとは。やるじゃないか」
腕立てをしていた直人は声のする方を見る。
こいつは……登山部部長の山田!
「高所適応で後れを取るわけにはいかんな……いくぞ!」
いつの間にか、筋トレには登山部のメンバーが参加していた。
「いいか……整備ってのは、ガタイよ」
クランチに移行していた直人は声のする方を見る。
こいつは……自動車部部長の中島!
何故かスパナを持っている。
いつの間にか、筋トレには自動車部のメンバーが参加していた。
更には野球部を初め運動部のメンバーも加わり、いつの間にか筋トレは大所帯となっていた。
「く……女に後れを取るとは」
「玉里茜……化物か!?」
ノンストップスクワットに脱落者が続出する中、直人も疲れを覚え始めていた。その時だった。遂に空模様が崩れだす。
「降ってきたか……」
火照った身体に小雨は心地よいが、さすがに筋トレは中断である。
「直人、タオルあるわよ」
「ありがと」
みなもからホットタオルと手渡された直人は、上半身裸になる。
「タオルは交代で使って頂戴。私達も中で拭きましょ」
みなもと詩文、そして茜が自分達のテントに入っていき、直人も自分のテントに入る。
タオルで身体を拭き、健児に手渡すと下着から替える。
四人用テントと言うが、男三人寝袋に入って横たわったら余分なスペースはほぼ無いと言っていい。三人の荷物を置く場所などない。
したがって荷物はテントの外に置き、防水シートを被せ、シートが風で飛ばないように石の重しを置いておく。
防水シートというものは非常に便利で、野営における必須アイテムと言っていい。
このイベントがアナウンスされた当時から登山部が防水シートを準備するよう呼びかけていたが、もしその呼びかけを無視した班があったとすれば後悔しているだろう。
暗闇のテントの中で男三人川の字になっている状態で、やるべきこともできることもない。
雨脚が強まってきたようで水滴がコットン生地を叩く音がするが、このA型テントは帝国陸軍にも採用されているもので、耐水、耐火性に優れ、その分重いが頑丈である。雨漏りの心配はあるまい。
食後に筋トレをした甲斐があって、適度な疲労感がある。これならよく眠れそうだ。
「直人」
健児の声が聞こえる。
「なに」
「うちの部にいる悠紀羽と玉里。直人はどっちが好きなんだ」
「はぁ!? ……意外だな。健児に訊かれるとは」
「まぁ、お約束だと思ってな」
「……まぁ、どっちも好きというか、特に贔屓するつもりはないが」
「そうか」
これで話は終わりか。直人がそう思った時、亮太が口を開く。
「悠紀羽だろ」
「なに?」
「好きなのは悠紀羽だろ」
「な、何を言ってるんだ。勿論嫌いじゃないけど別に好きとかそういう」
「俺の魔眼はごまかせんよ」
「む、そうなのか?」
「お前巡航部に入ったばっかだろ。何が分かるんだよ」
「役者ってのは相手の感情を読みとってそこに被せるように演技するんだ。このくらい造作もない」
「なるほど……。俺は恋愛沙汰はさっぱりだからな。よくわからんかったが」
「じゃ、じゃあお前らはどうなんだよ!」
一人図星を突かれた直人はそう言い返す。
「どちらかと言えば、玉里か」
健児が返す。だがそこに恥ずかしさは感じない。
こいつは、一緒に野球ができるからとかそういう理由だろう。異性としての好きとかじゃない。掘り下げたところで……。
「じゃあ亮は」
「……愛だとか恋だとか、くだらねぇよ」
亮太は達観したように答えた。
こいつ絶対恋愛経験ないだろ! なのに何を悟ったような。いつものかっこつけに違いない。
そう言い返してやろうかと思ったが、じゃあお前は経験あるのかとか、悠紀羽のことどう思ってるんだとか言い返されそうなのでやめておく。
恋バナはこれで終わりだった。
他に話のタネになりそうなことと言えば隣の女子テント内の会話だが、雨音が大きくて何も聞こえない。
この天気ではよそのテントに遊びに行くということもできない。
直人はいつしか眠りに落ちていた。
翌朝。神楽坂の生徒達はテントを涸沢に残し、北穂高山頂を目指して出発した。
天気は快晴。雨のせいで岩場が湿っており、足元には注意を要する。
両側に低い草と色とりどりの高山植物が咲き乱れる登山道を歩き、大きな岩が目立つようになったあたりで、鎖に掴まって登る岩場が存在する。
早朝の眠気もあってか基本的に皆言葉少なに、黙々と歩いていた。
みなもと茜はあまり眠れなかったと言っていたし、先に帰った詩文も眠そうな顔をしていたので疲れは取れていないのかもしれない。
南稜の稜線上まで出ると、比較的なだらかな登り道となる。
足元はごろごろとした岩場だが、ここの展望は普段見ることのない佳景だ。出発時は遠くに臨んだ北穂高岳の南峰と北峰が左右に見える。
そして涸沢から約二時間。北穂高岳山頂に到着した。
垂直の岩壁、急峻な尾根、目もくらむほど深い谷。確かにこのスケールと険しさ。人智を超えた凄さがある。人工の造形では成しえない美しさを感じる。やはり人間も森羅万象の一部なのだ。
直人は薄く雲のかかった槍ヶ岳を眺めていた。
「さすがに雄大だな」
背後から渚の声が聞こえた。見ればカメラを覗き込んでいる。
「この絶景はカメラじゃ表現できないだろ」
「かもな。まぁこれは広報用だ」
「ふーん」
ここで渚は一旦背後を確認すると、直人の横に並び立った。
「昨日は女子のテントは覗いたか?」
「覗いてねぇよ」
「つまらん奴だな」
「じゃあお前は覗いたのかよ」
昨晩、隣のテントから悲鳴やそれに類する声は聞こえなかった。あるとすればもう一つの女子テントだが。
「いんや。あの雨じゃな」
「それが正解だろうよ」
「絶景こそが登山の醍醐味だそうだ。できれば拝んでみたかったが」
中学男子にありがちな下衆発言だが、女みたいな顔の渚が言うと違和感がある。
「邪な考えは捨ててあの奥穂高を見ろ。心が洗われるようじゃないか」
「あれは常念岳だが……」
「そしてあの鳥。あれはなんだ?」
「……いやあれ、鳥か? やけに速くないか?」
「なんか、こっち来るな」
「御佐機だろあれ!」
渚に言われるまでもなく、直人も気付いた。だが魅乗りの気配は感じない。あれは……飛燕か?
そうとわかるほどに、それは接近してきていた。飛燕は直人の頭上へ来ると、上空で旋回している。
詩文だ。着陸する場所が無いのか。
北穂高頂上は切り立った場所が殆どなうえ、今は生徒達で溢れている。
仕方ない。直人は人混みをかき分けるように来た道を戻ると、人のいない登山道まで進んで御佐機に憑依する。
「詩文、どうした?」
直人は無線で呼びかける。
「直人はん。あて、鳴滝教官に先輩たち呼んでくるよう言われてん」
「何があった」
「開闢党が千曲川沿いの街を襲ってるんです!」
「んだとぉ!?」