6. 玉里道場
翌日の月曜日。今週から空戦の指導は月、水、金、土とするとは京香の言葉だったが、その京香は放課後部室に姿を現さなかった。
勝手にどこかへ行くわけにもいかない三人は、こたつ机で会話をしながら時間を潰す。
「こないだ、教官に俺は警察に向いてるっていわれたよ」
「警察官もかっこいいよね」
「……警察官。悪くないわね」
何故か深く考え込むような仕草をしたみなもが一拍おくれて同意する。
「俺は黒鉄を倒すためにこの学校に入ったから、卒業後の事は何も考えてなかったんだが、二人は卒業した後どうするんだ?」
「私は普通に本科かしらね。士官学校を出ておくと巫女として箔がつくから」
「私は多分東京女高師かなぁ。入れればだけど」
「女高師って、師範学校? 茜って教師になるの?」
「入るのは家事体操科だけど、教員免許だけとって教師にはならない、と思う」
「ふーん。そんなのあるんか」
「道場の娘として箔がつくんだって。お父さんの受け売りだけど」
茜はえへへと笑う。
直人は少し考えこんだ。父親の指示によるものとはいえ、将来の大筋をちゃんと決めているのは偉い。
空軍士官学校も高等師範学校も四年制なので、二人とも二十歳までのことは考えていることになる。
そういえば、健児はこないだ野球選手になると言っていた。渚は新聞社か軍の情報機関だろう。
あれ? 将来のこと何も考えてないのって、ちょっとやばい?
「直人君はどうするの?」
「本科、かなぁ。このままだと卒業できないって教官に言われたけど」
「やっぱり士官になりたいの?」
「それもかっこいいと思うが、御佐機乗ってられるもんなぁ。士官学校はタダだし」
厳密にはタダというより軍属になるので給金が出る。貧しい日本人にとっては破格の待遇であり高い人気を持つが当然狭き門である。
神楽坂予科においては卒業試験が入学試験と同義なのでハードルはだいぶ低いが、直人にとっては難攻不落の要塞に見える。
「勉強教えてあげるから、頑張りましょう?」
「卒業できる気がしねぇ」
正直今年卒業するのは厳しいだろう。これについては周りと違って中学に行ってなかったんだからと言い訳はできる。だがその後一年、二年と残って卒業できるだろうか。
みなもや茜、その他の知り合いが皆卒業した後一人残って勉強するだろうか。しないな。そういう習慣がない。そうこうしているうちに経済的に退学せざるを得なくなるだろう。
将来の事を考えるというのなら、士官学校に入れない道も考えるべきだ。
「ま、まぁその時は私がなんとかしてあげるわ。……その代わり……」
後半がごにょごにょと良く聞こえなかったが、市ヶ谷の高官だという父親の力を使うのだろうか。
「俺を卒業させるってことか?」
「いいえ。それは勉強するしかないわ」
「なんだよ」
「まぁ剣を扱う職業は軍人だけじゃないってことよ」
「それなら私のお父さんも剣を扱う仕事だね」
「茜のお父さんは、道場の師範か!」
「そうそう。みんなに剣を教えるんだよ」
「それはいいな。まぁ今更水無瀬道場に戻る気はないが……というかまだあんのか?」
「他の道場を継ぐって手もあるよね」
「なるほど!」
「……そうか、その手が……」
みなもも直人の隣で膝をうっている。確かに、盲点だったと言える発想だ。
「ていうか思い出した! お父さんに直人君の話したら、是非会いたいって」
「俺にか」
「うん。そんなに強いなら、弟子達の刺激になるし、意見を聞かせて欲しいって」
そう言われると直人はにやにやしだす。
「そうか……俺は強いからな。茜のお父さんにも勝っちまうかな。でも道場の師範に恥じかかせたらまずいよなぁ。戦わないのが筋かなぁ。でも戦ってみてぇなあ」
「う、うん。そこはお父さんと相談して」
「え、直人茜の家に行くの?」
「強いからとか言われたら行くしかないだろ。茜、いつ行けばいいんだ?」
「今週の日曜に来てほしいなぁ」
「よし。そうとわかれば今日からは一対一を意識するか」
「道場の見学、見学ってことかしら、見学して、気に入ったらその……」
みなもが何故か動揺している。
「玉里道場って帝都で一番でかいんだろ? 一度行ってみたかったんだよなぁ。でも他流派は出禁かと思って言わなかったんだが、これは面白くなってきたな」
「私も楽しみにしてるね」
「それは私も行くのだけれど、その次の日曜日は悠紀羽神社の道場はどうじょ――」
「すまない。寝過ごした」
窓の外から京香の声が、みなもの発言を遮った。
「教官」
「昼休みの後仮眠を取ろうとして、さっきまで寝てしまっていた」
見れば、窓から顔を覗かせる京香の髪には少し寝癖がついている。
「今から訓練と言っても時間が取れないし、悪いが今日は中止とする」
昼休みの後からというと三時間くらい寝ていたのか? それにしては退廃的というか、体調が悪そうな様子は変わっていない。もしかして昨晩眠れなかったのだろうか。
京香が立ち去った後、直人の頭には昨日からの不安が再来していた。
もしかして教官は、死にたがっているのではないだろうか。もし教官がラバ女の魅乗りの境遇を知って、罪の意識に駆られたなら?
昨日の教官の判断は普通ではなかった。魅乗りが相手なら会話などせず、さっさと叩き斬ってしまえばいい。
それをしなかったのは、ラバ女の魅乗り達に殺されてやることが、贖罪になると考えているからなのか?
みなもと茜に相談してみるべきだろうか。
こいつらなら信頼はできる。だが、他言無用と言われている。教官は精神を患ったことを恥じている様子だった。やはり、話すわけにはいかない。
結局その後も飛行はせず、五時前に直人は二人を部室棟から見送った。
そして週末の午後。直人にとっても待ちに待ったと言っていい、玉里道場の見学がやってきた。
秋葉原にある玉里家は簡単に言えば武家屋敷で、その中にある玉里道場は都内有数の規模を誇る。
玄関で軍刀を預けた直人達は吹きさらしの廊下を歩いて道場へとたどり着く。
直人達が来たのは鍛錬が始まってすぐだったようで、生徒達は竹刀を使って素振りをしていた。
竹刀というと最近大衆化著しい剣道のイメージがあるが、古流剣術も鍛錬で竹刀は普通に使用する。
素振りは木刀でも軍刀でもいいが、打ち込み稽古においては竹刀を使う必要があるからだ。
そもそも竹刀が使われるようになったことで打ち込み剣術の安全性が確保され、その結果長らく禁止されていた他流試合が解禁となり、流派間の交流をうながして全体として栄えた経緯もある。
安価安全な竹刀の登場で剣術が身近なものとなり、江戸末期から明治にかけて町道場が増加した。
この玉里道場の発祥は江戸末期であると、茜の父、玉里善一郎が解説してくれた。
生徒の年齢はまちまちで、小学生と思しき少年もいれば、四十を超えているだろう男性もいる。殆どが男性だが、ちらほらと女性も混じっている。
素振りの次は型稽古だった。
直人達の前では、二人の男性が技を披露してくれている。道場の中でも実力のある二人らしい。
両者距離を取って相対し、打手が正眼から甲段へ刀を回し、左袈裟に斬りかかる。仕手は同じく袈裟に斬り出し、これを打ち落とす。打手は連続技として左胴へ斬り返し、仕手は刀の柄で受け止める。この時左脛への攻撃を警戒し、左足を上げて避けているのが印象的だ。
再び打手が右胴に斬り返すのを、仕手は左足を踏み込むと同時に打ち落とし、刀をそのまま打手の喉につけて残心する。
――鶴来タイ流『獅勢』
どの流派にも特徴というものが存在するが、鶴来タイ流においてはまず『甲段』という構えが特有だ。
切っ先を左右斜め上へと向けた上段の構えで、神道流系には見られない。勿論、市ヶ谷神道流にも存在しない。
技を終えた二人は再び距離を取って相対する。
仕手は甲段に構え、足を守りつつ頭部を開けて誘い、打手が斬り込んできた刀を頭上で受け止めるや瞬時に左足を引き、切っ先を左下、柄を右上にし、左足を踏み出すとともに切っ先で円を描きながら右下へ斬り返す。
――鶴来タイ流『晴虎』
後の先を狙う技だが、相手を誘い出すような布石を打っておけるとより有効となる。すなわち先後の先で勝機を取るよう修練することが重要である。と、善一郎は直人達に語る。
こうして他の人間が剣を振り回しているのを見ていると、自分もやりたくなるのが人情である。直人は早く勝負したくてうずうずしていたが、そこはなんとか堪えて見学の姿勢を示し続ける。
そして午後四時半。鍛錬が終わり、門下生達が道場を掃除して帰宅する。道場には直人達の他、数人の道場関係者が残った。
さっそく、直人は善一郎に勝負を申し込む。みなもが止めようとしてきたが、知ったことではない。
「この二人に勝てたら、私が勝負を受けてあげよう」
「言いましたね。撤回は無しですよ」
言質を取った直人はウキウキで立ち上がる。その直人にさきほど型稽古を見せてくれた男の一人が声をかける。
「水無瀬君。君の胴だ」
「あ、俺は――」
いらないと言いかけて、思いとどまった。防具というものは打ち据えられたときのダメージを軽減するためのものだが、使うのは竹刀だ。単に動きを阻害するだけ。
直人は一瞬そう考えたのだが、思い直し、防具をつけることにする。
理由は単純。そうしないと対等にならないからだ。こういったことは同じ条件で勝敗をつけねば意味がない。
防具をつけて稽古するのは、早衛時代以来か。
面も用意されてはいたが、相手がつけていなかったので自分もつけない。
直人は右上段に構える。
甲段に構えた敵手は日本人としてはやや長身で、彼我の距離は一刀で斬り込むにはやや遠い程度。
互いの獲物は竹刀であり殺し合いではないが、それでも汗ばむような緊張感を感じることはできる。
数分に及ぶ睨み合いの後、直人はだらりと右腕を下げた。当然握られた刀も下を向く事になる。
…やはり、うってこない。こいつ、カウンター狙いだ!
直感を確信に変えた直人は即座に右足を出し、脇構えへと移行する。直人は笑みを浮かべていた。
敵の手の内は見えた。一秒ほどではあったが、俺には確かな隙があった。
直人は右腕を下げた状態からでも即座に攻撃動作に入れる自信があるが、それでも斬り込まれたら防御するのが精一杯ではあった。
それをみすみす逃した時点で後の先しか頭になかったのは間違いない。
もし敵手が俺の不合理な行動に戸惑ったとするならば、恐るるに足らない。
直人は左足を前に送り出すと、右足を浮かせつつ左足を蹴り出す。合わせて竹刀で斬り上げる。
脇構えの際に重力を利用して柄を下にすべらせておいた。切っ先は敵の首に届く。一刀で終わりだ!
直人の刀は意図通りの軌道を辿り、敵の首元を掠めていった。
なに!?
直人は思わず目線を男の足元にやる。だが足は動いていない。体重移動だけで避けたのか! 強靭な体幹とこちらの間合いの完全な把握がなければできない所業。
だが。こちらはお前の懐に入っている。この状態で斬撃はできまい。
すぐさま竹刀を返そうかと思った直人だったが、その思考に反して右足を前に送り出し、仰け反るような姿勢を取った。
刹那、竹刀の柄が前方を通り過ぎる。間一髪だった。
直感で回避に転じたが、あと一歩遅ければ柄で殴られ昏倒していたところだ。
鍔迫り合いになる事を予想し慌てて竹刀を引き戻す直人に対し、敵手は右手を引きつつ左手の捻ると腰の回転を利用して竹刀を寝かせて突きを放ってきた。直人は右足を蹴って横に飛び、間一髪でそれを躱す。
ならばと敵手は一歩前進し、右胴への払い斬りへ転じてきた。更に左足を踏み込みつつ腰を捻り、腰の回転を利用して払い斬り。
市ヶ谷神道流を使う相手では見られない動き。とても楽しい。
直人は右上段に構えると、右足を踏み込み、落下する重心と共に竹刀を振り下ろす。
この攻撃に敵手は反応。中段の構えから竹刀を下段に下ろし、半身になりつつ直人から見て右へ移動。これでもう直人の斬り下ろしは当たらない。
直人は打ち降ろす動作の途中で腰を前に進め、前屈みになった姿勢を修正。すかさず左足で踏み込み、腕を捻って物打を上に向け、体重が上方に移動するのを利用して斬り上げる。
狙いは斬り上げを放つ直前の敵手の首。
――剣法水無瀬流『逆風』
直人の切っ先が敵手の首元で止まり、敵手の竹刀も途中で止まる。
「勝負あり」
善一郎が直人の勝利を告げる。
よし。これで一人。
「次は俺だな」
別の男がそう言って歩いてくる。その男はとんでもないものを手にしていた。
「え、それ薙刀……」
「始め!」
戸惑う直人をよそに、善一郎が号令をかける。
刀で薙刀に対抗するのは非常に困難だ。槍、棒のように使える他、剣としての斬撃を刀の倍以上の間合いから食らわせてくる。
基本的な対処法は、石なり下駄なりを投げつける。脇差があるとなお良いが、今はどれも無い。
相対した直人は敵手に先制させ、長身を利用した突き下ろしで敵手の突きを叩き落とすと、跳躍で間合いを詰めにかかる。が、斬り下ろしは届かない。
敵手の足さばきを見た直人は一気に重心を下げ、切っ先を右下に下げると敵手の胴斬りを防ぐ。そのまま巻き上げるように突進し、斬り下ろす。
が、バックステップで躱され当たらない。敵手は柄を一気に引くと、丁度良い間合いにして突きを放ってくる。
躱せるわけがない!
三連撃。全て防いだが、間合いが離される。
「凄いね。彼」
善一郎がそう呟くと、さっき倒したはずの男が直人の右横に立つ。その手には長巻。野太刀の長いやつ。
「ちょっと待てそれは卑怯だろ!」
「君は戦場でそういうことを言うタイプか」
「二対一で負けたら言い訳できねぇからな」
「その時は、師匠と戦うといい」
「よし。その言葉、忘れん――」
言い終わる前に、二人は突進を開始していた。
直人は打ちのめされた。