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1. 野球道

 目の前に迫った白球へバットを振る。金属音がし、タイミングのあった打球が投手へと弾き返される。


「怖ぇーよ水無瀬!」


 打球が衝突したネットの後ろにいる男子が叫んだ。


「大丈夫だろ。ネットあるんだから」

「胸までしかねーんだよ! 三球連続だぞ!」

「やっとコツがわかってきたところだ。もっと投げてくれ」

「もっと遠くに飛ばせよ! 俺が怪我したら明日試合できねえからな!」


 そう言って打撃投手を務める男子がボールをネット越しに投げる。直人は最短距離でバットを出し、鋭いライナーを放つ。


「ふっざけんな!」


 打球が頭を掠めていった投手がついにキレた。


「直人。お前はバットを叩きつけてるんだ。バットはもっと水平に出した方がいい」


 バッターボックスの後ろでアドバイスを出すのはクラスメートの久瀬健児だ。


「最短距離で振った方がボール見れるだろ」

「お前はスイングが速いからボールを水平に叩いて押し込んだ方がいい。打球が飛ぶからな」

「わかった。やってみる」

「練習あるのみだ。直人、お前には才能がある。野球の才能がな」

「そうか? よし。じゃ、練習するか。おーい、投げてくれ!」

「嫌だ!」


 打撃投手は拒否する。


「仕方ない。直人はとりあえずティーバッティングだ。フライを打ち上げるつもりでやるといい。お前はライナーばかりだからな」

「しょうがねぇな」

「じゃ、次私ー」


 そう言ってヘルメットを被り打席に入ったのは茜だ。茜はしばしば放課後を野球部に混ざって過ごしている。


 打撃投手の放った球を茜は打ち返す。ショート、セカンドの頭を越えるライナー性の当たりが殆どだ。心地よい打撃音から球をバットの芯で捉えていることがわかる。


「茜……やっぱ上手いな」

「あの左右の打ち分けはお前にも学んで欲しいところだ」

「ふん。俺が狙うのはホームランよ」

「だったらもっとボールの下を叩いてもいいと思うが」


 健児の言うことの理屈は直人にもわかっていた。ただ、ボールが見えていても簡単には実践できない。加えて腰の回転を使って打撃力を増すという概念が剣法水無瀬流や市ヶ谷神道流には無く、感覚を掴み難くしていた。


 物心ついた頃から魂に染み付くまで練習してきたことと、全く異なる理論を体現しろと言われても難しい。寧ろあっさり身体を使い分けている茜の方がおかしいと思う。


「よし。打撃練習終わり。次は守備だ」


 健児の指示に、部員プラス直人と茜が守備位置につく。合計で九人。野球部は部員が足りていないのである。


 神楽坂予科は二ヵ年しかなく、三月に去年の二年生が卒業し、部員が四人まで減少した。そして四月以降健児達の懸命な勧誘活動にも関わらず、新入部員は三人しか入っていない。


 この原因として、そもそも神楽坂予科は部活動が盛んではないというのが挙げられる。部活動に参加する生徒も文化部の方が多い。卒業すれば士官学校に入ると決まっている生徒が大半を占める中、この二年間だけわざわざ運動部に精を出そうという人間は少ないのだ。


「俺はファーストでいいのか?」

「ああ。ファーストはやりたがる奴がいなくてな。お前はショーバンも怖がらないし丁度いい」


 直人は今まで野球部の練習に混じって遊ぶ時は特にポジションを決めていなかったが、ここ二週間ほどの試合を念頭に置いた練習ではファーストを守ることが多くなっていた。


 健児はバッターボックスに入り、一年生がボールをトス。それを健児が打ち、ショート辺に守った部員達が捌く。捕球した選手は一塁へ送球。直人がそれを取るという流れだ。


 それに混じり茜が打球を追う。二塁際に転がる打球を取るとグラブを動かしてボールを浮かし、右手で取り勢いのまま横手で投げる。素人目に見ても鮮やかなプレーだ。


「今年入った一年よりは明らかに上手い。女にしておくのがもったいない」


 部長たる健児はそうコメントしていた。


 この練習を何度か繰り返すと、次はシートノックとなる。


 先ほど打撃投手を務めていた少年が打席に入り、ティーと呼ばれる球座に乗せたボールを打つ。それを守備位置についた各々が捕るという練習だ。茜は現在部員が不在となっているレフトに入る。


 ショートとサードの間に鋭いゴロが転がった。ショートを守る健児はそれをバックハンドで捕球すると、ステップも踏まずに直人へと送球する。華麗とも言って差し支えないプレー。健児は神楽坂予科野球部の中では飛びぬけて上手い。


 正ポジションは遊撃手だが、地肩が強く、投手もできる。というかこの野球部のレベルであればどこでも守れる。


 エースの座を同級生に譲っているのも、投手ができる部員が最低二人は欲しいかららしい。その熱意は彼の豆だらけの手を見ればわかる。


 剣と野球。道は違えど直人は健児の情熱に共感していた。


 土曜日の午後も暗くなり、練習は終了となる。


「直人君。今日も楽しかったね」


 にこにこしながら茜が言う。


「まぁな。運動としては物足りないが」

「試合前だからな。今日はここまでだ」

「というか明日の試合どうするんだ? 八人しかいないだろ」


 ここで直人は疑問を口にした。


「玉里は出れないのか?」

「中学野球って女も出れんの?」

「女子禁制だ」

「じゃあ男装して出すか」

「それは……無理があるんじゃないか」


 部員一人の意見に、健児は茜を見ながら言った。


「そもそも明日は練習試合なんだから、女だって出られるだろ」

「私も出たいんだけど、明日は一日道場にいるようお父さんに言われてるから、どのみち無理なんだ」

「なんだよ。おい健児、どうするんだ」

「問題ない。蹴球部から助っ人を呼んである」

「蹴球ね……ハイカラだかなんだか知らんが、球蹴りが面白いかね」


 部員の一人が呟く。


「ま、せっかく来てくれるんだ。歓迎しようじゃないか。じゃ、グランドに礼!」


 部員一同プラス直人と茜がグランドに礼をして、解散となる。


 野球部員と直人が着替えるために部室に向かう中、茜だけが別の方向へ向かう。


「直人君。私門限あるから着替えたら帰るね」


 そう言って茜は手を振り、去って行った。




 そして翌日。午後一時から練習試合が始まった。対戦相手は甲子園に出たこともある野球部が盛んな学校らしい。


 先攻は神楽坂予科。直人は三番なので初回で回ってくる。


 これといって野球の知識のない直人の視点ではあるが、このチームで野球が上手いと言えるのは自分を除いて三人しかいない。うち二人が一番と二番。そして健児が四番に入っている。


 一回の表。先頭打者がヒットで出塁し、ワンアウト一塁で直人に回ってくる。その初球。


 球は速いが、動体視力には自信がある。球の軌道が変化する気配はない。ストレートだ。直人は反射的にバットを振る。


 もらった!


 鋭い打球が相手投手の太ももに直撃した。投手が悶絶している間に直人は一塁へ到達。ランナー一二塁となる。


 相手投手の痛そうな姿に申し訳なさを感じないでもないが、これは勝負の世界だ。謝る筋合いはない。


 そして打順は健児へ回る。健児は打撃も一流だ。素振りしてから打席に入る姿に期待も高まる。


 初球を見逃し、二球目だった。擦ったような金属音が聞こえ、打球が高く高く上がる。ピッチャーフライだった。露骨にがっかりしている健児。続く五番打者は三振し、得点することはできなかった。


 一方神楽坂予科の投手もそう劣るものではなかった。健児が投手を任せるだけのことはある。中々に速いストレートと、カーブを上手く投げ分けている。


 カーブという変化球を初めて見た時は驚いたものだ。中学野球で使われる硬球は大きくて重い。そんなものが空気の力で曲がるわけがないと思うのだが、現に曲がっているのだから認めるしかない。


 神楽坂予科は助っ人と一年生二人が守る外野は全て穴だと言っていいが、三振と内野ゴロに仕留め、一回、二回の裏は無失点で切り抜けた。


 直人に第二打席が回ってきたのは三回の表だった。


 その初球。直人は卓越した動体視力により投手の手を離れた球が曲がり始めるのを見抜き、タイミングよくバットを振る。


 鋭い打球が相手投手の胸に直撃した。投手が悶絶している間に直人は一塁へ到達。ランナー一二塁となる。


 先ほどと違うのは投手が倒れたままであることだ。タイムがかかり、相手選手達がマウンドへ集まっていく。しばらくして、半ば引きずられるようにして仲間に支えられ、投手がベンチへと下がっていった。投手交代らしい。


「お前、卑怯だぞ!」


 一塁手が直人を罵る。


「わざとじゃねぇ」

「そんな戦い方で胸を張れるのか!」

「勝負に卑怯もなにもないだろ」


 直人の言葉に相手は眼の色を怒りに変えたが、それ以上は何も言わず、打者の方へ身体の向きを変えた。


 またしてもチャンスで健児へと打席が回る。しかも相手は背番号一の選手が既に退いている。これは絶好のチャンスだ!


 直人はそう思ったのだが、健児は力のないセカンドゴロに倒れ、またしても無得点で終わった。


 試合が動いたのはその裏だった。先頭打者がレフトにフライを上げると、レフトはそれを後逸し三塁打。その後のヒットであっさりと先制されてしまう。


 二点を追う六回。ワンアウトランナーなしで直人へと回る。


 二球続いたボールを見逃し、三球目。外角いっぱいの球を直人は正面へと弾き返した。ライナー性の打球は相手投手の目の前を掠め、センターオーバーの二塁打となった。


 健児が打席へと向かう間、相手の二塁手が直人に問う。


「お前、わざとやってるんじゃないだろうな」

「わざとじゃないって」


 相手はあまり納得した風ではなかったが、反論はせず、守備位置へと戻る。


 そして健児の第三打席。やつの実力からして、そろそろヒットが出てもいいころだが……。


 ツーストライクまで追い込まれた三球目。鈍い音がして打球が転がり、健児はピッチャーゴロに倒れた。


 別段体調が悪そうという風ではない。先ほども難しい打球を上手く捌いていた。何か声をかけてやろうかとも思ったが、健児の野球への真剣さを知っているが故になんと言っていいかわからなかった。


 試合は進み、八回の表、神楽坂予科に最大のチャンスがやってくる。一番、二番と立て続けに出塁し、ワンアウト一三塁で直人へと回る。


 正式な野球部員ではない直人もこれには心が躍る。三点ビハインドだが、ホームランを打てば一挙に同点。直人は一回素振りをして打席に入る。


 だが。キャッチャーが立ち上がったまま座ろうとしない。何をやっているのか。更に驚いたことに、相手投手はそのままボールを投げてきた。山なりのやる気のない球。審判がボールをコールする。


「お、おい。ちゃんとやれよ」

「は? 敬遠も戦術だろうが」

「け、敬遠!?」


 一瞬直人は字が頭の中で変換されなかった。その間に二球目が放られる。


「卑怯だぞ! 男なら勝負しろ!」

「勝負に卑怯も何もないんだろ?」


 キャッチャーが馬鹿にしたように笑う。


「てめぇ……」


 直人は歯ぎしりする思いだったが、確かにそう言った覚えがあるので言い返せない。


 打者と勝負しないだと……!? そんなやり方があるのか!?


 直人が怒りに震える中、審判がフォアボールを宣言し、一死満塁となる。


 一塁から打席に入る健児を見つめ、直人は思う。


 やってやれ! 卑怯な手を使うこいつらを後悔させてやれ!


 打席に入る健児は少し鼻息が荒い。一打逆転の好機に血の気が上がっているのか。その初級、バットはボールの遥か下を通過する。


 なんというか……確かにスイングは音が聞こえてきそうなほど速いのだが、フォームが練習の時と違う気がする。


 そして二球目。健児のバットがボールを捉え、ゴロがショートの真正面へと転がる。ショートは危なげなく捕球すると、そのまま二塁へと向かう。必死に走る直人を尻目に先に二塁を踏むと、一塁に送球。やはり必死に走る健児をアウトにし、スリーアウトとした。


 そして八回裏。ダメ押しの二点が入り、勝敗は決した。


 審判の前で一列に並び礼をして、試合は終了となる。


「まぁしょうがねえよ。相手は強豪なんだろ」


 一番を打っていた部員の一人が言う。


「俺がもっと三振取れればな」


 二番で投手を務めていた部員も言う。だが健児は明らかに落ち込んでいて、何も言わない。


 そのまま河川敷で着替え終わると、健児が直人に話しかけた。


「直人……この後付き合ってくれ」

「どこに?」

「蕎麦だ」

「わかった」


 丁度腹が減ってきたところだった。


 直人と健児は他の部員らと別れ、飯田橋駅方面に歩いてゆく。


「直人、今日は来てくれて感謝する」

「いいさ。俺も楽しくてやってる」

「そうか。だが、勝たせてやることはできなかった」

「相手は五年制中学だろ。こっちとは規模が違うさ」

「小さいものは大きいものに勝てないというのか。日本人たる俺達がそれを言うのか!」

「……確かにそうだな。勝負に絶対はねぇ」

「ああ。わかっている。敗因は俺にあるということを」

「お前、練習だとホームランも打ってたのにな」

「くそっ、チャンスだといつもああだ。俺は……俺は……」

「大振りになってたぞ。アッパースイングってやつか?」

「俺は……野球が向いてないのか……」


 健児の呟きに返す言葉を持たなかった。


 しばらく無言で歩き、屋台の立ち食いそば屋へとやってくる。情報部の渚曰く、飯田橋近辺だとここが一番美味いらしい。


「おっちゃん。かけ大盛二つ。コロッケをつけてくれ。直人、ここは奢りだ」

「じゃ遠慮なく」

「……俺は、野球選手になりたいんだ」

「え、そうなの!?」

「ああ……。言ってなかった。だが、今日のあり様では」

「まぁ練習するしかないんじゃないか」

「直人。今日のお前は三打数三安打。見事だった。お前はどんな心構えで打席に入っている?」

「何で俺に訊くんだよ」

「お前が野球部員じゃないからだ。何か、別の視点があるのではないかと」


 蕎麦屋の主人が「はいお待ち」と言ってどんぶりを二つ置く。


「そういうことか」

「どんな気持ちでバットを振る?」

「……何も考えてないぞ」


 七味をかけたそばを一気にすすってから直人は答える。


「なに!? いや……そうか。お前にとって、野球は遊びだものな」

「そういう意味じゃない。俺は剣を振るときもなにも考えてない」

「お前ほど腕が立つ男が。本当なのか?」

「考えてから剣を振る。そんな迂遠なことやってたら先に斬られるだろうが。考えるとすればその前。向かい合ってる間。相手の呼吸や意図がわかったら、後は斬り込むだけだ」

「身体が勝手に動く。ということか」

「そうだ。俺は今日も、来た球を反射的に打っていた。剣と変わらん」

「俺は……色々考えている。相手の狙い。球種、コース。それに対する理想的なスイング。だがそのうちに、緊張が止まらなくなる」

「ごちゃごちゃ考えるのが得意な奴だっているだろうが、お前はそうじゃないんじゃねえの?」


 はいコロッケ。そう言って主人が皿に乗せて出したコロッケを、直人と健児はそばにぶち込む。


「駆け引きは不要であると?」

「そうじゃない。それはピッチャーがボールを投げるまでだろ。後は何も考えずただ一心に振り抜くまで」

「ただ一心に振り抜く……」

「手からボールが離れたら、その時点でボールが来る場所は決まってるんだろ」

「どうすれば無心にバットを振れる?」

「それは練習の時からそうするべきだな」

「素振りをする時も、雑念は消す、か」

「俺は鍛錬の時、架空の相手を想定はするが、剣を振る時に雑念は無いつもりだ。野球も大した違いは無いんじゃねえの?」

「俺は精神を鍛えねばならんようだな」

「まぁ剣の道も精神修養的なとこあるからな」

「道……そうか、道か!」


 そばを食べ終えた健児が箸をバンッと置く。


「お、おう。俺の考えだがな」


 健児が勘定を終え、二人は暖簾の外へ出る。


「相談して良かった。野球とは道と見つけたり! 帰ったら練習だ!」


 そう言って、健児は、飯田橋駅へと走って行った。

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