10. 鬼雨
翌日、三人は午前中から八王子方面上空を飛行していた。ここまでの山中に何かしらの施設と思われるものはいくつかあったが、低空飛行してみると山小屋か使われているのかもわからない寺の類で、研究施設には見えないものばかりだった。
「雨、けっこう激しいな」
「妙よね。こっち側は晴れてるのに」
「ここまで明確に雲の切れ目があるとはな」
「雲の範囲、正確にはわからないけど、おそらくこの辺りが中心よね」
「あの建物は?」
「あれか」
茜が見つけたのはそれなりにしっかりした建物だった。ただ、さして大きな施設ではない。
「一応調べましょう」
「……あそこの通りに着陸して、そこからは歩いて行こう」
直人達は目的の施設からやや離れた道路に着陸して憑依を解く。三人とも雨外套を着ていた。直人の場合早衛部隊で支給されたものが役に立った。
「そこそこ距離あるな」
「ここが雨の中心部なら、大嶽丸がいるとすればここでしょうね」
「ここを調べて、いなけりゃひとまず安心ってわけだ」
「……」
茜は緊張した面持ちで何も言わなかった。
ともかく三人は雨の中山道を登っていく。こういう時、編上靴の鋲はありがたい。
一時間以上かかっただろうか。三人は目的施設の近くまでたどり着いていた。
「あれがそうだな」
「上から見た時も思ったけど、そこまで大きくはないわね」
調べるのに時間はかからなそうだが、それにしても警備員がいないのが気になる。使われていない施設なのか?
咎める人がいないので三人は正面玄関と思われる扉の前に立つ。
「さすがに鍵がかかってるな」
「どうしよう」
「壊すか」
言うが早いが直人は抜刀、即斬。二刀目。軍刀を左側に戻し、左足を前に出しつつ水平に切って三角形を完成させる。
三刀目の衝撃で木製の扉は三角形にくり抜かれていた。
「よし」
「よしじゃないわよ。中に人がいたらどうするの」
「あっ……その場合はまぁ気象部の人かどうか、聞いて、違ったら逃げよう」
「もう、粗忽なんだから……」
みなもに呆れられつつ、直人は三角形に空いた穴から身体を室内に入れる。二人もそれに続いた。
「少し匂うな」
「カビ臭いわね。それに湿気が酷い」
三人は一階で一番大きいと思われる部屋に侵入する。
「同胞召喚の日までここで待つつもりであったが、まさかお前たちが来るとはな」
室内に電気は点いておらず、外は大雨。非常に薄暗い環境であったが、直人にもその声は聞き覚えがあった。そして何より、茜がその姿を見間違えるはずがなかった。
「香澄……?」
「田村香澄とは、私の依り代だった人間の名だ」
直人は思わず舌打ちした。危惧していた展開である。
「……お前、名前は?」
「私の名は田村香澄またの名を大嶽丸」
「香澄……嘘だよね……冗談だって、言って?」
「我ら妖怪は人間に冗談など言わぬ」
「ここで、何が起きた? 何故お前以外に誰もいない?」
「他の魅乗りは地方へと去った。私だけが帝都に残る。その手はずだ」
「何が起きたかって聞いてんだよ」
「田村香澄を初め数名が魅乗りになった。それだけの話」
こいつ……答える気がないらしい。まぁ魅乗り相手にまともな会話も難しいか。捕まえて吐かせるというのも……姿形は田村香澄そのものなので心苦しい。まして茜の前では絶対に無理だ。
「ここの居心地も悪くはなかったが、鬼とは元来簡単には姿を見せないものだ。私は退散しよう」
「……逃がすと思うのか?」
「お前こそ、私を斬れると思うのか? 玉里茜の目の前で?」
またも直人は舌打ちした。図星だったからだ。
「ま、待ってよ!」
ここで茜が初めて口を開いた。
泣き出したいのをなんとか堪えているというのが傍目にも分かった。
「待たせてどうする? 玉里茜……お前に私は斬れない。私の身体は田村香澄であり、記憶もまた香澄のものを引き継いでいる。親友の身体と記憶は、斬れまい」
「妖怪がなめてんじゃねーぞ。茜が斬れなくても俺が斬る」
「ほう。だ、そうだぞ。茜」
大嶽丸の確信めいた物言いに、直人は茜を見る。
茜は涙を流していた。俯いて、声を出していなかったのは精一杯の意地か、気遣いか。
「それに記憶によれば、香澄はお前の事が好きだったようだぞ」
「……は?」
大嶽丸は確かにこちらを見ているが、直人には覚えがない。
「嘘をつくなよ。荷物を拾って飯を四回食っただけだ」
「淡い感情ではあったようだが……お前に好意を抱いていた人間を、お前は斬れるのか?」
直人は言葉に詰まる。どう答えていいかわからなかった。斬りにくくなったのは事実だ。
それこそが大嶽丸の思惑であることくらいはわかるので、それがまた癪に障る。
「貴方は、香澄なの? それとも大嶽丸なの?」
「……両方だ。香澄と大嶽丸。双方の人格が混ざり合い、私はここにいる。分かつことはできない」
「な、直人君。今の話は……」
「……魅乗りになった人間は元に戻らない」
告げるべきか若干迷ったが、戻ると嘘をついても事態は何も解決しない。
なにより、魅乗りには人間に対する情など欠片も持ち合わせていないことは散々思い知らされてきた。そうでなければ、早衛部隊は全滅などという憂き目には合っていない。
どうすればいいんだ。茜に戦わせるのは無茶だ。俺が決意するしかない。
俺に田村香澄が斬れるのか。斬れるはずだ。心情的には厳しいが、相川隊長の時にも通った道だ。付き合いとしては相川隊長の方が長かった。でも斬った。
ならばこの無情な役割を引き受けるべきはやはり自分であろう。
「茜、お前は帰っても――」
「やめて!」
茜は叫ぶように言った。
顧みれば、今の直人の物言いも酷ではあった。
――無理だな。これは。
直人は思った。大嶽丸の方から仕掛けてきてくれれば、或いは身体が反射的に動いて斬ることも可能かもしれないが、大嶽丸は俺達からは仕掛けられないと確信している。そしてそれは事実だ。
直人には田村香澄の姿をとった大嶽丸を悔し気に睨むことしかできなかった。
「教えて、香澄はどうして、魅乗りになったの?」
茜が絞り出すように言った。
それを見た大嶽丸が口端を持ち上げる。
「ははは。騙されたのだ。我ら妖怪に。我らが化かし、奪った。人と妖怪のソレだ」
大嶽丸は笑顔だった。それは香澄の顔であるはずなのに、最早別人だと直人にも分かった。ましてや茜にとってをや。
それを見て本当にぶった斬ってしまいたくもなったがそれができれば苦労はない。
直人の無念を見透かしたか、大嶽丸は冷笑した。
「その程度の覚悟では、戦えんな。私のことは見逃すことだ。斬れば茜が悲しむぞ」
言い終わると、大嶽丸は御佐機を召喚する。
「御赤口!」
一瞬応戦を考えた直人だったが、憑依した大嶽丸はこちらに背を向けると跳躍。そのまま飛び去って行った。
とりあえず脅威は去ったので、直人は茜の方を見た。
茜は泣くのをやめてはいたが、とても戦えるような雰囲気ではなかった。
「じゃ、帰るか」
直人は真顔で言った。
追撃は無しだ。後を追って茜が門限に間に合わない。こんなことがあった後に間に合わなかった理由を家族に聞かれては可哀そうだ。
「ごめんね。直人君」
茜は心底申し訳なさそうだった。
「なんでお前が謝るんだ。悪いのはここで実験をやってた奴らだ」
「私だって、魅乗りの意味くらい、わかってるんだよ。でもね」
茜の声は途切れ途切れだった。
「大嶽丸を斬るのは、少し待ってほしいの」
そんな顔で頼まれたら、わかったと答えるしかないじゃないか。
「まぁしばらく放ってほいてもいいんじゃないか? 同胞を召喚するまでは待ってるつもりだったらしいし」
まぁそれは放っておくと鬼が増えるということなのだが、今はそう答えるしかない。
みなもが茜を促し、三人は施設を後にした。