2. 鬼の依り代
それから一ヶ月が過ぎた。禍津日神を倒して以降、魅乗りは少なくとも直人の近くには出現していない。これといった事件もない平和な日々。
早朝、前日にみなもが作った焼きおにぎりを火鉢で再加熱して食べた直人は剣を振り回し、昼食は例の定食屋に行くことにした。
行くのは二週間ぶり三度目。先週、先々週と日曜は建築現場の日雇いに参加したので懐はいくらか暖かい。
定食屋『ひばり』に訪れると中から聞き慣れた声が聞こえる。扉を開けて中に入った直人が目にしたのは調理場で働く茜の姿だった。
「そしたらね、直人君が扉壊しちゃったんだよ」
「あはははは」
「なんだ俺の話か?」
直人が話しかけると二人とも驚いたようにこちらを見る。
「あら! また来てくれたんですね」
「あれ知り合い?」
茜が直人と少女を見比べる。
「一ヶ月くらい前荷物を拾ってくれた人です。この間も来てくれたりして」
「転んだ時の話だね。名前と住所聞いとけばよかったって」
「ちょ、ちょっと」
「あ、ごめんごめん。私の友達の香澄だよ」
「あの時はありがとうございました」
「ああ。水無瀬直人だ」
「田村香澄です。あの時はきちんとしたお礼もできませんで」
「ご飯超大盛だし気にしなくていい」
言いつつ直人は席に着く。香澄がすぐにお茶を持ってきてくれた。
「今日は何にしますか?」
「うーんほっけ定食で」
「ほっけ定食。ご飯超大盛ですね。畏まりました」
調理場へと戻った香澄は茜と時折会話しながら直人の食事を作っていく。あの二人は友人だったのか。
ほっけ定食ができあがり、直人のもとへと運ばれてくる。見ると、香澄の顔色が明らかに悪かった。
……風邪ひいてるのか? さっきはそんな感じじゃなかったが。
「あっ……」
やはり体調が悪かったらしく、香澄は倒れ込むようにして転倒してしまった。
「よっ」
咄嗟に立ち上がった直人は滑り込むようにしてお盆の下に入り込み、ほっけ定食を救出する。被害は味噌汁三分の一で済んだ。
お盆を持って立ち上がった直人はほっけ定食をテーブルに置きつつ香澄の様子を見る。
「はぁ……はぁ……」
息が荒いままなんとか立ち上がろうとしている。
「田村、大丈夫か?」
「茜、お薬取ってきて」
「うん!」
茜が何やら小さな袋を持ってきたのを見て、直人はテーブルに乗っていた水の入ったコップを手渡す。
「はい」
袋から取り出した丸薬を水で流し込み、香澄は一息つく。
「落ち着いたのか?」
「は、はい。お薬を飲んだので、もう大丈夫です。ご迷惑をおかけしました。茜、お味噌汁を取り換えて水をお出しして」
「はーい」
味噌汁の入ったお椀と水の入ったポットを持った茜とすれ違うようにして、香澄は調理場へと戻っていく。
「何かの発作か?」
「うん。病気ってわけじゃないんだけど」
間違いなく病的な何かだったと思うが、まぁ詮索することでもない。
「じゃ、頂きます」
「ごゆっくりー」
香澄はしばらくして調理に復帰していた。ほっけ定食を食べ終えた直人はお代を払いに入口へ向かう。
「旨かったよ。十円で」
「ありがとうございます。また来てくださいね」
二十銭のお釣りを受け取った直人は店の外に出る。すると茜も一緒についてきていた。
「あれ、お前店はいいのか?」
「午後はみなもと買い物する約束してるんだ。それに私はお手伝い、えーと、ボランティアだし」
「無給労働のことか?」
「そうそう。土日はたまに手伝いに行ってるんだ」
直人以外にも客が入っていたが、本来は三人でやっている定食屋なのだから、茜が抜けても大丈夫なのだろう。
直人はひとまず旧校舎へと戻ってきた。直人は最早旧校舎の一室に住み着いていると言っていい。夜寝る時だけは寮に戻るが、外出している時以外は大抵ここにいて、鍛錬も旧校舎裏の空間で行うのが日課だった。
「あれ、お前みなもと買い物行くんじゃないの?」
「うん。ここで待ち合わせてるんだ」
「なんで?」
「直人君を誘うためだよ」
「俺も行くのか」
十二時過ぎ。みなもが旧校舎にやってきた。
「こんにちは直人」
「ああ」
「今日暇よね」
「まぁ。だからバイトに行こうかとも思っていたが」
「またドヤ街?」
「ああ。あそこ以外中学生雇うとこなんてねぇよ」
「確かにそうね。でも今日は私達と買い物に行きましょう」
「荷物持ちは嫌じゃないが、電車賃がな。結構かかるんだよ」
「だったら今日は靴を買ってあげるわ」
「ほんとか!?」
「ええ。貴方靴は昭五式しか持ってないでしょう」
直人は頷く。
みなもが言っているのは学校指定の編上靴の事だ。
神楽坂予科は民間組織なので学生服にせよ通学靴にせよ官給品ではない。しかし学校指定の編上靴は昭五式と銘打たれているわけではないものの、流用品であることは誰の目にも明らかであり、生徒たちは昭五式と呼びならわしていた。
男女問わず学校においてはこの編上靴を履いているが、休日のみなもと茜は私物の靴を履いている。
「カレーも奢ってくれるよな」
「勿論よ」
「じゃあ行くか」
直人達は靴を履いて外に出る。
「今日は何を買うんだ?」
「ええ、春物の服を買いに行くのよ」
「こないだも買ってなかったか?」
「今日はまた新しい服を見つけるのよ」
いつだったか贅沢は敵という標語を聞いたことがあったが、帝都では贅沢の基準が違うのか? それとも今は停戦中だからセーフということなのか?
まぁ俺も靴が手に入るのだしどうでもいいか。
「お前達は靴は買わないのか?」
「靴もいいのだけれど、平日は昭五式を履いてるから他の靴がすり減らないのよね」
「なるほどな」
二人の服は例によってみなもが洋装、茜が和装だ。茜の方は家の方針なのだと以前聞いた。ただ、茜も靴だけは洋風のものを履いている。そっちの方が動きやすいのだろうか。
三人は飯田橋駅から中央線に乗って神田まで行き、地下鉄に乗り換えて銀座に到着した。
降霜を、溶かす帝都の人だかり。
直人は心の中で一句読んだ。
なけなしの金をはたいて俳句の雑誌を買うことがある。ただ、都市自体を対象とした俳句は極めて少ない。
都市化の目的は、可能な限り季節などの自然条件に左右されずに生活を営めるようにすることだろう。
ならば、都市は必然的に自然と対立する空間なわけで、大前提である季語を必ず詠み込まなければならない定型俳句においては、そもそも都市は対象にしにくいものなのは当然だ。
季物を人工空間である都市で見出すことはなかなか困難で、時候、天文、行事あたりに限られてしまう。
そう考えると、それを逆手にとって帝都を対象にした俳句ばかりを詠んでいれば、いずれどこかの雑誌から掲載を打診される可能性があるのでは……?
そんなことを考えつつ中央通りを歩く。
百貨店と呉服屋をいくつか回り、みなもと茜のお眼鏡にかなう服を見つけた後は、直人の靴を購入する。
直人の要望は動きやすければなんでもいいだったので、主にみなもが選んでいた。選ばれたのは黒い革靴だ。直人の感覚で言えばいいお値段がする品物だったが、高級感よりもカジュアル寄りのデザインは直人も気に入った。
「ありがてぇな」
「この靴を見るたびに私に感謝しなさい」
「返品しようかな」
「素直に受け取りなさいよ!」
買い物を終えた三人は、直人の要望でカレーが美味い喫茶店『ピグモン』に訪れていた。直人はカレーを、二人はパンケーキセットを注文する。
話題は定食屋で働く田村香澄へと移っていた。
「まだ三回しか行ってないけど、飯は旨かった」
「香澄は料理の勉強してるからね」
「元気そうでなりよりだわ」
「みなもは田村と知り合いなのか?」
「ええ。まぁ私が茜と知り合ったのは中学に入ってからだから、香澄さんと同じ学校だったことはないけれど」
「香澄は定食屋で働きながら料理の学校に行ってて、将来は調理師になるんだって」
「魔導士じゃないのか」
「……実は香澄は、身体に鬼が宿ってるんだ」
「鬼が宿ってる!? やばいやつじゃねぇか」
「違うよ! ご先祖が神霊クラスの大妖怪を退治して、代々一族が体内に封印してきたんだって」
「んなことして大丈夫なのか?」
「香澄は魔導士としての素養が高すぎるとかで、時々苦しそうだったよ。昔は一緒に外で遊んだりしてたんだけどね」
茜は切なげに言った。
「もしかして今日の発作はそれか」
「うん。魔導士の適正が高いから時々体内の妖気が強まって気分が悪くなるんだって。薬飲んでれば大丈夫だって本人は言ってるけど」
「因果だな。鬼なんか封印してなきゃすげえ魔導士になれたかもしれないってわけか」
「香澄は自分は戦いたくないから、鬼のおかげで魔導士にならなくて済むって言ってたけどね」
「そういう人もいるか。でもそれ治らんのか?」
「中世に神にも近い力を持った妖怪を退治して、魔導士の体内に封じ込めたっていう話は他にもあるわ」
「なんで体内に封じるんだよ」
「討伐する方法がなかったのよ。現代であればそれこそ御佐機で戦えるでしょうけど」
「なるほどな」
「有名どころだと九尾の狐かしら。多分まだ誰かに封印されてるわよ」
「田村はなんて妖怪を封印してるんだ?」
「分からないんだって」
「分からないのかよ」
「戦国時代に失伝しちゃったんだって」
「戦国時代は大名ごと滅ぼされるケースがあったから、妖怪の封印場所が分からなくなったとかもあったそうよ」
「じゃあ何の妖怪かもわからずに封印してんのか」
「この話前にみなもと話したんだよ」
「ええ。中世にやむを得ず魔導士自らが依り代となって封印した鬼というと、酒呑童子か大嶽丸のどちらかじゃないかしら。鬼八法師は鬼と入っているけど、天狗の眷属だったはずだし」
「でも今なら倒せるだろ。何なら俺が倒してやるよ。こう、封印を解いちゃうわけにいかないのか?」
「それは香澄さんが魅乗りになるということなのよ」
「あっ……そうか」
封印されている鬼、すなわち荒魂は封印を解かれた瞬間最も近くにいる人間に取り憑く可能性が大だ。
「まぁ最近は御佐機にできないような妖怪の研究もされているらしいから、そのうち体内の鬼を退治する方法が見つかるかもしれないわね」
「早くそうならないかなぁ」
直人は運ばれてきたコーヒーを口に入れる。
「つくづく魅乗りってのはやっかいだな。妖怪ってのは撲滅できないのか?」
「妖怪を考えるうえでは、球根をイメージするといいわよ」
「球根?」
「妖怪の本体は幽世にある大きな『球根』であるという考え方よ。現世に出現する妖怪は『球根に生えたヒゲ』の一つ一つに過ぎない。だから、妖怪を退治してもそのヒゲが引っ込んでいるだけで、球根本体がなくなるわけじゃない」
「なるほど。だから妖怪も魅乗りもいなくならねぇのか」
「そうね。現世と幽世が分断されてから二千六百年以上。神代の時代も遠くなって、妖怪がそのままの姿で現れることはほぼなくなったけれど」
「最近は魅乗りばっかりだよね。そっちのが困るけど」
「それも妖怪達の知恵なのかもしれないわね」
「もしかして、妖怪だけじゃなくて精霊も本体はその球根みたいなやつなのか?」
「その説が有力ね。集団無意識とかいうのだけれど。だから私達は『神社』を個々に構えつつ、集団としての『神祇』も持っている」
「神祇って球根だったんだ」
「まぁ、イメージとしては」
「はぁー。なんかお前、宗教関係者みたいだな」
「宗教関係者なの! 巫女なの!」
ひとしきり雑談を終えて、直人達は店から出た。