17. 剣法水無瀬流
「今日の練習、どうする?」
旧校舎前にて茜に問われるが、直人は首を横に振った。
「霧が濃すぎる。危険だ」
この霧がただの水滴ではないにせよ、直人達には見えているのだ。ただ飛ぶだけならまだしも、向かい合って技を出し合うのは危険すぎる。
「一人で練習する」
「何するの?」
問いかけにすぐには答えず、直人は旧校舎の脇へと移動する。茜がついてきていたので声をかける。
「離れてくれ。……もっとだ」
茜が離れたのを確認すると、直人は九十度向きを変え、両手を腰の軍刀に添える。眼前に接近してくる目標をイメージ。そして左手の親指で鍔を押し出して鯉口を切り、右手で柄を掴む。抜刀。剣法水無瀬流においても基礎の基礎たる立居合いの型。
納刀した直人はもう一度同じ工程を繰り返す。納刀してもう一度。
「どうしてこの人は一人で剣を振ってるの?」
みなもの声が聞こえてきた。
「一人で練習するんだって」
それに対する茜の声も。
見ての通り、この差し迫った状況において直人はただ剣を振るという行動を選んだ。そもそも直人は思慮深い方ではなく、よく言えば行動派、悪く言えば粗忽者である。あれこれ思想をめぐらす教養が無いというのもあるが、嫌なことがあったら剣でも振ってろという父親の影響も多分にあった。
状況を仮定しての立ち居合い。これを十度繰り返す。居合いは実戦的でないとして型から外す流派もある中、剣法水無瀬流では未だに型に含まれていた。これは直人が今でも筋力トレーニングを続けていることと本質は同じだ。
力とは最も単純な強さであり、場所を選ばず、使いやすい。いざという時の備えになる。抜刀術もまた、自在ならぬ状態で刀を扱えてこそ、自在なる状態での技が冴え渡るという鍛錬の意味合いがある。
戦う道具といえば銃が思い浮かぶ現代において、それは古風で時代遅れな考え方かも知れなかったが、直人の父親は単純な強さである腕力で以って借金取りを追い返していた。
次、右上段の構え。敵を仮想。敵が動く、直人は気を吐く。右足を蹴り出し、全身が射出される。大柄で筋肉質な直人から繰り出される剣撃はそのイメージに違わぬ速度。だがやはりその源泉は体重移動にある。
体重移動の妙は市ヶ谷神道流の専売特許ではない。そもそも体重移動の制御、鍛錬は多数の古流剣術流派で見られる。例えそれが腕力や腰の回転を重視する流派であったとしても、体重移動で生じた威力、速度を完全に無駄にすることなどありえないからだ。
剣法水無瀬流においても体重移動は重視されており、直人の剣速は子供の頃から積んできた鍛錬の結晶である。
直人の父親はちゃらんぽらんなスチャラカ親父であり、だからこそ借金を積み重ねて息子を売りに出した。だが剣術の師範としては優秀であったのではないかということは、息子の直人も認めていた。
腕力ではなく体重移動で剣を振る。足腰と体幹で姿勢を制御する。御佐機を扱う上で必要なこれらの術を直人は入隊時点で完全に会得しており、御佐機の操縦において稀有な才能を見せた。周りからはそう見えたというだけで本人は幼少の頃から教えられてきたことを実践しただけに過ぎなかったのだが、どうあれ直人は異常なペースで空戦に習熟した。
二度目、想定する敵の構えだけ変え、剣を振る。
子供の頃、魔導士でもないのに刀がなんの役に立つのかと問われたことがある。当時は答えを持たなかった。今も同じ。意味があるかは明日決まるのだ。
剣法水無瀬流にも他の古流剣術同様、連続技が存在する。だが直人は対黒金戦でのそれらの使用は諦めていた。十全に繰り出せる気がしない。大殺界の完成が三年後、せめて三ヵ月後なら可能性もあったろうが、明日となっては。
ならばどうやって黒金の上を行くのかと言われれば、やはり答えに窮する。だがそれでも直人が頼れるのは血肉となった剣法水無瀬流であり、故にこうして刀を振っている。
左上段、正眼、下段。状況設定を変え、敵の意図を変え、刀を振る。それぞれ十度。一挙動のみの型稽古を全て終えると、だいぶ疲労していた。一旦休むか。そう思って横を見ると、茜がしゃがんでじっとこちらを見ていた。みなもは見当たらない。ずっと見ていたのか……。
直人は腰を落すと、すすすと早足で近づく。茜が間合いに入るや否や、刀を振り下ろす。
「っ…・・・」
直人の刀は茜に届かなかった。無論、触れる手前で腕を捻り、刀を止めるつもりではあった。だが斬撃の最中で刀を止めたのは、直人の無防備な右脇腹に風を感じたからだ。
見ればそこには一振りの軍刀。主である茜はえへへと笑う。
こいつ今何をした。直人は一瞬思考を巡らすが状況は明白。茜は着座状態で斬撃を放ったのだ。しゃがんでいた茜は左膝を地面につきつつ右のつま先を蹴り出し、上体を前に運びつつ抜刀。これらを同時に一瞬で行ったのである。
直人は茜の動きにまったく対処できなかった。それは何故か。斬りかかったのはいたずら心であり、油断していたせいもある。
だが直人の硬直は茜の技の冴えに対してだけではない。何かが脳裏をよぎった。
「玉里、今のもう一度頼む」
「え、いいけど」
茜が承諾するや否や、直人は走って距離を取る。
「行くぞ!」
直人は声をかけ、走り出した。右上段に構え、示現流の掛かり打ちが如く走る。そしてそれを振り下ろすようなことはせず、茜の左隣で止まる。右には茜の軍刀。
やはり異様だ。玉里の体捌きもそうだが、正座するかのような状態から一瞬で刀が飛び上がってくる挙動。
思えば座の居合いを練習することはあっても、相手が使うのを見たのは初めてだった。何通りかある二人での型稽古でも座の居合いは含まれていなかったし、まして市ヶ谷神道流に抜刀術は存在しない。
空戦におけるヘッドオンで繰り出せる一挙動の技。黒金の意表をつき、奇襲効果で以ってその上をいく。この難題が解決できるかもしれない。
「玉里、付き合ってくれ!」
「え、私と!? ええ、この状況で!? 急すぎるよ……黒金を倒してからの方が」
「今じゃなきゃ意味ねえだろが! 俺は着座で待つ。何でもいいから斬りかかってきてくれ!」
「あ、付き合うって練習か。うんわかった」
何故だか目を白黒させた茜はすぐに平静に戻り、直人の要望に従った。
旧校舎の正面へと移動した二人の練習はしばらく続き、みなもは部屋の中から窓を開けてそれを眺めていた。
夕刻、疲労感を覚えた直人は二人に別れを告げ購買に向かう。若干出遅れた直人だったが力押しで群集に割り込み、仕出し弁当を買って食堂で食べる。夕食を終えると真っ直ぐ寮に帰った。
やっと、僅かではあるが巧妙が見えてきた。勝つ術は用意した。ならば後は備えて寝るのみ。
帰宅した直人は共用シャワーを浴びて着替えると、宿題なんてやってられるかとばかりに明かりを消し、ベッドに横になり就寝した。
直人は兵舎にいた。よくある二階建て木造の兵舎の一室で、直人は自分の寝台に座っている。
「水無瀬は『君死にたまふことなかれ』という詩を知っているか」
「知らないす」
相川隊長に問われ、直人は答える。
「与謝野晶子という人が、日露戦争の折従軍していた弟に向けて呼んだ詩だ」
「死なないでくれってことですか?」
「その通りだ」
相川隊長は中等学校に三年通っていた経験があり、直人より少なくとも三つ歳上だ。
本人は中等学校で問題を起こして退学になったと言っていたが、この部隊に来た詳しい経緯を直人は知らない。
貧しい田舎で生まれ育ち、軍に売られてここに来た者が多い中、学と教養がある相川隊長は異質な存在であった。
とは言え本人はそれを鼻にかけるような事はなく、寧ろ空き時間には勉強を教えており直人達には大変感謝されていた。
「いつの時代も戦は人が死ぬ。だが維新以降は少々多過ぎやしないか」
相川隊長の言葉に、一人の仲間が返す。
「世界中でそうみたいだから、今後は更に増えるかもしれませんね」
「戦争は無くならんかもしれんが、日本は極力手を引くべきだ」
「まぁ確かに、人がいくらいても足りない気がしますね」
また別の仲間が返す。
「大陸の事変で馬鹿を見たのは戦死者だ。英霊などと言うが、得たのはブリテンとの衝突のみ」
「どうしたんすか隊長。いつになく語りますね」
直人はそう言ったことを覚えている。
「なに。俺達も前線配置になればバラバラになるかもしれんからな」
「あー確かに」
相川隊長と年の近い仲間が賛同する。
「今回の戦争がどうなるかはわからん。お偉いさんもわからんのではないか。ただ俺達日本人は何も得られんだろう」
「政府は勝った勝ったと言ってるぜ?」
「なんの。どこまで本当か分からんし、失ったものが多過ぎるだろう」
確かに、と直人は思った。田舎にいるとあまり実感が無いのだが、もう何年も戦争をしているのだ。死者がどれだけか見当もつかない。
「昔、学校で弁論大会があった。俺は壇上でこう言った。『横暴なる軍部を弾厭せよ。対外戦争を階級解放的な内乱たらしめよ』とな」
「もしかして隊長が退学になったのって」
直人の言葉に相川隊長は頷いた。
「まぁすぐに訂正すれば良かったんだが、意地を張ってしまった」
相川隊長は苦笑して続ける。
「不敬罪やらで特高に引っ張られる者もいるようだが、俺に言わせれば確かにその主張はおかしい。グレートブリテンはクイーンのために、ソビエトロシアも党のために進軍を続けるのだから、日本だけ帝を無くしたところで意味など無い」
「そりゃそうだ。でも世界中の指導者が一斉に席を降りるなんてありえないだろ」
仲間の言葉に、相川隊長の表情が突然鬼気迫るものへと変わった。
「国境、宗教が俺達に何をくれた!? 御佐機か? こんなもの、国境、宗教が無ければいらんものだ!」
突然直人は空中にいた。前方に飛行するは黒金。そして相川隊長の声が聞こえる。
「だから俺が一度全て滅ぼす。この大殺界で!」
相川隊長、否、黒金の声で直人は目を覚ました。窓から薄明かりが差し込んでいる。時刻は日の出頃か。
何故あの時相川隊長は語ったのだろう。もしかしてあの時既に黒金に乗っ取られていたのか。あのような思想の持ち主だったから、この国を滅ぼさんとする黒金との親和性が高かったのだろうか。
考える直人の頭に宿敵の気配がなだれ込んできた。
――黒金!
直人はすぐに制服に着替え、外に出ると早衛に憑依、飛行を開始した。黒金との戦いは国の命運がかかっている。悠紀羽と玉里に応援を恃みたい。
空模様は曇天であり、朝日を拝むことはできない。霧の濃さは昨日からあまり変わっていないが、赤い枝が太くなっている。すり抜けられると分かっていても気味が悪いので、ぶつからないようにして飛ぶことにする。
杉並区へ入りしばらくすると、無線に通信が入った。
「警告。貴機は当空域を侵犯している。所属を述べよ」
「神楽坂魔導士予科所属」
「飛行許可は出ていない。速やかに着陸し、憑依を解け」
「管制へ、悠紀羽に用がある。呼んでくれ」
「悠紀羽……ってどの悠紀羽だ!?」
「神楽坂予科に通う悠紀羽みなもだ」
「ああ巫女様か……いや無礼な! 速やかに着陸せよ」
さてどうしたものか。上空を飛行していれば気付いてもらえるだろうか。だがこの間みたいに迎撃機が上がってくると面倒だ。
そう考えていると無線から別の声が聞こえてきた。
「それが巫女様から、今日明日に限り自分を訪ねる者があったらそれがいつであっても取り継ぐようにと申しつけられている」
「わかった。貴機の安全は保証する。飛行場に着陸せよ」
事前に悠紀羽が話しておいてくれたらしい。直人は安心して着陸態勢に入る。
悠紀羽邸の飛行場に着陸して憑依を解くと、正面から複数の人間が走ってくる。
うち何人かは怪我をしているようで、頭に包帯を巻いたり腕を吊ったりしている。遠くには松葉杖姿の者もいる。
「やっぱり、こいつこないだの侵入機じゃねーか!」
男の一人が指をさしてくる。
「佐藤が落としたと言っていたが、やはり生きてたか」
「あん時はよくもやってくれたな」
「よくおめおめと姿を現せたもんだ」
集まってきたのはこの間交戦した悠紀羽家所属の魔導士だったらしい。恨まれる覚えはある。
「もし巫女様の客人じゃなかったらお前……」
魔導士の一人が拳を鳴らす。だがそれに対する心配は無用で、みなもが来て直人の名前を呼ぶと、魔導士たちは畏まって離れていった。
「黒金が出た」
単刀直入に状況だけ伝える。
「分かったわ。茜は?」
「俺は玉里の家を知らん」
「私が呼びに行くわ」
「頼んだ。先に行く」
「ちょっと」
「何だ」
「すぐ行くから、それまで生きてなさいよ」
「……分かった」
会話はそれだけ。直人は抜刀し、式神を呼び出す。
「早衛!」
発動機は全快した。
大殺界最終日。直人は黒金との最後の戦いに赴く。