16. 霧の帝都
「なんじゃこりゃ!?」
火曜の朝、眼を覚ました直人は驚愕の声を上げる。窓から赤い光が差し込み、外には赤い木の枝のようなものが何本も見える。
更に窓の外の景色をつぶさに見渡そうとするが、霧が一層深くなっており、遠くの様子は伺うことができない。
「……」
直人はしばし絶句していた。少なくとも直人の周囲の世界はこの世ならざる景色へと変貌している。間違いなく黒金の仕業であろう。
いてもたってもいられなくなった直人はすぐさま制服に着替え部屋を出る。黒金の存在を知っている二人、特にみなもと話して意見を貰いたいところだったが、階段を下りようとしたところで始業時刻はだいぶ先であることに気付く。
ひとまず直人は食堂に赴き、購買でパンと牛乳を買って朝食をとる事で時間を潰した。
八時前、教室に入った直人は席に座りつつみなも、茜の到着を待つ。するとそれより先に隣の席の早峰渚がやってきた。
「よう」
「おす」
渚の様子は至って普通だった。それが直人には信じられない。鞄を置く渚に、直人は尋ねてみることにした。
「赤い枝みたいのが見えるか?」
「赤い枝? どこだ」
この返答に直人はがっかりした。どこも何も窓の外に何本も見えているのだ。まぁこうして落ち着いて登校して来ているあたり、異変に気付いていないのは見て取れる。
「なら、何かニュースになっていないか? 濃霧注意報が出ているとか」
「濃霧? 少なくとも全国紙の天気欄には出てなかったな」
「そうか……」
「つーか赤い枝って何だよ。何かの隠語か?」
「いや、そういうわけじゃない」
「そうか? もし何か面白い話があるってんなら放課後情報部に来い。買い取ってもいいし、他の情報と交換でもいい」
「気にしないでくれ」
「よう二人とも」
渚と話していると、その前の席の久世健治が机に鞄を置いた。
「何を話してるんだ?」
「こいつが赤い枝が見えるかとか言ってな」
「赤い枝? なんだそれは」
「いや、何でも無いんだ」
言いつつ直人は若干苛立つ。転校してきてそう日も経っていないが、悠紀羽、玉里の登校がいつもより遅い気がする。
そう思った矢先、みなもと茜、二人が同時に教室に姿を現した。それを見た直人も席を立つ。
直人を見て茜が駆け寄ってきた。
「水無瀬君見えるあの赤いの!」
「二人とも鞄を置いたら廊下に来てくれ」
頷いた直人はそれだけ言って廊下へと向かう。他の人間に聞かれても頭のおかしい人達の会話にしか聞こえないだろうが、割り込まれるのも面倒だ。
ほどなくして二人が直人のもとへとやってくる。
「この有様が見えるか?」
「見えるわ」
「うん。びっくりしたよ!」
「何が見える?」
「霧と赤い枝みたいなもの」
赤い枝。それを聞いて直人は少し安心する。どうやら同じものが見えているらしい。
「来る途中も道を横切ってるやつとかあったんだけど、車も人もすり抜けててさ。刀振り下ろしてみたけど、斬れなかったよ」
「だが他の人間は見えんらしい」
「うちでも誰も見えていなかったわ」
何故俺達以外誰も見えないのか。それも尋ねたいが、やはり現状把握が先か。
「何が起きている?」
「大殺界が始まったんだと思う」
「やっぱ日曜のあれがそうだったか!」
「そのようね」
「これからどうなる?」
「大殺界は三年、または三か月、三日継続するそうよ」
「この景色が三年続くってのも気が滅入りそうだが、三日ってのはなおヤバイな。いつから数えてだ」
「おそらくは日曜の夕方、あのロケットが打ち上がった後かしらね」
「三日だったら明日じゃねえか」
「まずいよ!」
「何故俺達だけ見える?」
「憶測になっちゃうんだけれど」
そう断ってからみなもは口を開く。
「魅乗りを斬ったからだと思う」
言われて直人も思い出す。確かに悠紀羽は一体。玉里は二体魅乗りを斬っているはずだ。
「水無瀬君はもともと黒金と同じ式神を用いているから、見えるのはある意味当然とも言えるけれど、私と茜については魅乗りを斬って魔力を浴びたからだと思う。今回の場合は妖気に触れたというのが適切かも」
「そういうことか」
やはり悠紀羽は本職。頼りになる。
「私達の他に魅乗りを斬った経験のある人はいないの?」
「何処かにはいるかもしれんが、帝都にいるのかも分からないし、何が起きているのかも分からんだろうし、期待できんな」
黒金の気配は無いが、そこらへんを飛んで回ってみるか。だが帝都のみでも一人で様子を見て回るには広すぎる。
直人がそう考えていた時、京香の声が耳に入った。
「そこの三人。朝礼を始めるから教室に入れ」
言われるままに、直人はひとまず教室に入った。
京香から何かしらの情報がもたらされることに微々たる期待をしていたのだが、特にそれらしき話をすることも無く朝礼を終え、教室から出て行ってしまった。
その日は授業の内容が頭に入らぬまま、放課後になる。
黒金の気配は一度も感じなかったし、周囲の異変にクラスメートが気付いている様子も無かった。霧だけがますます深まった感じだ。
中庭へとやってきた直人は御佐機に憑依し、離陸する。発動機は本調子ではないが、飛ぶだけなら問題は無い。みなも、茜がそれに続く。
地上付近に漂う霧は、高度を上げると徐々に薄まり見通しが利いてきた。
「何だ……道、いや、坂か!?」
遥か天空から坂が延びていた。淡い光を放つ黄色い坂。その先端は雲のかなた。
さらに驚くべきはその坂の上を黒い群衆が蠢いていることだ。直人は正体を見極めるべく接近する。
見えてきたのはおよそ悪寒の走る光景だった。
「何だこいつら……」
黒い影のようなもの達が坂を下っている。まさに魑魅魍魎。
「黄泉ノ比良坂……」
みなもが呟く。
「黄泉ノ比良坂ってあの世への入り口だっけ?」
「ええ。現世と幽世の架け橋」
「ってことはあの先は妖怪の世界ってことかよ」
言いつつ直人は更に接近する。黒い群集の中身は大小様々な化け物、妖怪。
「百鬼夜行かよ」
直人は三十ミリ機関銃を抜いた。照準器を覗くも化け物達がそれを警戒する様子は無い。
引き金を引くと銃口が轟然と火を噴き、銃弾が飛翔する。ややばら撒くように放たれた銃弾は、全てが坂の上の化け物のどれかに着弾した。
だが僅かながらの手応えも無い。直人に続いてみなも、茜も銃撃を見舞うが、結果は同じ。化け物達は攻撃されていることさえ気付いていない。というかこれは攻撃になっていないのかもしれない。
「赤い枝と同じく、この世の物質では干渉できないようね」
「こいつらは何だ?」
「見ての通り、悪霊妖怪の類だと思うけど。或いは黄泉軍と呼ばれるもの」
「どこに行くんだ……?」
「これも黒金が召還した妖怪なんだよね」
直人も茜と同じことを考えていた。こんなことができるのは黒金だけだろう。何の意味があるのかは知らないが、阻止すべきことなのは間違いない。
「倒す方法は?」
「桃を投げつける」
「桃!?」
「まぁ今の季節に桃は無いけれど……」
「なら黄泉ノ比良坂を壊す方法は無いのか?」
「それは黒金を倒すしかないでしょうね」
口惜しいことに今は黒金が出現していない。地上のどこかで人間のふりしてほくそ笑んでいるのか。
「もし大殺界の完成まで身を潜められたら、打つ手が無いよ」
「ええ。完成直前になったら姿を現す必要があるはずなんだけど、それまでは出てこないかもしれないわね」
「くそっ、卑怯な奴だ」
ともかく直人は黄泉ノ比良坂の天辺を目指してみることにする。だが黄泉ノ比良坂の光景は高度一万メートルを超えても変わらず、坂はなお上空まで続いていた。
坂の行方を確かめるのは諦め、高度六千メートル程まで戻ってくる。
「駄目だ見えん」
「この間ドイツ軍の基地から打ち上がったロケットで作られたものだとすると、もっと高いよね」
茜の言葉に直人も納得する。あのロケットの上昇高度など知らないが、御佐機で行ける高度ではないのだろう。
ターボチャージャーをもってしても、実用上昇高度は一万四千メートルほど。だがこの坂は明らかにそれより上まで続いている。
直人達はこれ以上の探索を諦め下降に転じた。
坂を下る魑魅魍魎を時折横目に見つつ、直人は黄泉ノ比良坂に沿って下降する。群集の移動速度は遅いようで、先頭部はまだ地上には達していない。
黄泉ノ比良坂の終端は銀座四丁目にあった。平日でも人通りの多い銀座。そのど真ん中の交差点が黄泉ノ比良坂と接している。
あの化け物達が地上にたどり着いたら、この銀座が化け物達に埋め尽くされるのだろうか。ぞっとしない話だ。
もっとも現時点で既に銀座は霧に包まれ、あちこちに赤い枝が生え、横切っている。この世ならざる状況といえば今更ではある。
こちらから物理的に干渉できない以上向こうからも物理的には干渉できないはずだ。打つ手が無い以上今は捨て置くしかない。
あくまで勘ではあったが、直人は呟いた。
「大殺界の完成は、明日だな」
「……そんな気がするわね」
大殺界は三日、ないし三ヶ月、ないし三年続いたと言われると悠紀羽が言っていたが、この進行の速さから鑑みれば三日というのが正解だろう。おそらくは明日、この国はこの世ならざるものに変質する。
みなもと茜に呼びかけ、直人は学校へ帰投した。