14. 無明
月曜日のホームルーム。教壇の上で京香が新聞を掲げていた。
「新聞などで知っている者もいると思うが、一昨日銀座でテロがあった。この写真にも写っているように、テロリストは御佐機を使用した」
京香は新聞の一面を生徒達に向けて見せる。写真には地上に立つ九七式精霊機が写っている。
「テロは反体制派によるものだ。記事にも書かれているが、テロ発生前後と思われる時間に都内複数の警察に電話で犯行声明が出された。その後彼らの要求に従い、大本営と通信が繋がった。要求は収監されている政治犯の解放。その後通話が切れたそうだ。結局は鎮圧され、テロ組織所属の御佐機は全機破壊確実。実行犯の多くが死亡、捕縛されている」
京香は新聞を教卓の上に置く。京香は時折朝のホームルームで重大な事件について報じることがあった。寮住まいの直人のような生徒にとってはありがたい。
「勿論この記事に載っているのは市ヶ谷が外に出しても良いと判断した情報のみだ。皆それは知っているからまたしても信憑性の無い噂が流れているようだ。軍人がいきなり発狂しただの、テロリストと戦う別の御佐機を見ただの、銀座方面に向かう黒い御佐機を見ただのと言ったな」
京香は教室を見渡した。
「全くありえんとは言わん。とはいえ貴様達予科生は流言飛語を無闇に外の人間に広めたりはしないように。以上だ。新聞はここに置いて行く。興味のある者は読んで構わない」
その後朝礼が行われ、京香は教室から去って行った。間も無く一限目の教師が登場し、授業が始まる。
日中、黒金は出現しなかった。昨日天沼矛が打ち上げられた意味は分かったが、今のところ世界に変化は無い。大殺界はまだ始まってはいないのか……?
授業に身の入らない直人は昨日思いついた無想について考えながら漫然と過ごした。
そして放課後、一人で旧校舎へとやってきた直人は建物の脇へと入り、鞄を置く。
無想の領域に至るという解決法。何かその糸口くらいは掴めないか。直人は目を閉じた。
ほんの少し風の音が聞こえる。音に頼っている時点で間違っているのかもしれないが、何がヒントになるか分からない。
直人は目を開け、目の前の木を見上げる。冬空の下、数枚の枯葉が残っている。
戦場において全体の把握は不可欠だ。ではこの枯葉のうちのどれか一つ。どれか一つが落ちるその瞬間を感じ取ることができれば、それは敵の見えざる動きを把握することに繋がるのではなかろうか。
そう考え、直人は再び目を閉じる。時折風の音が聞こえる。五分もそうしていただろうか。不意に左から葉と枝が切り離されるような音が聞こえた。いや実際には聞こえるはずが無い。となればこれこそが!
直人は目を閉じたまま右手を前に突き出した。
……とても柔らかいものを掴みあげた。目を開けた直人の目の前にいたのは茜だった。直人は慌てて掴みあげていた茜の胸から手を離す。
「いや、え、いや、これは」
しどろもどろになる直人の前で、茜の頬を大粒の涙が流れ落ちる。
「うわーん! ぐすっ、ふぇぇ」
「うわ、泣くな!」
「お、お友達になれたと思ったのに! 酷いよぉ!」
「今のはな、無想について考えていたんだ!」
「いきなり、む、胸を触ってくるなんて! もうお嫁に行けない」
「いや、その考えは古いぞ!」
「一体何をやって……茜! 水無瀬君あんた、茜に何をしたの!?」
「水無瀬君が、私の胸を、触ったんだよ!」
「お、おい!」
直人は思わず止めようとしたが、遅かった。みなもの表情が見る見る怒りに染まっていく。
「水無瀬君! 私だけじゃ飽き足らず、茜まで毒牙にかけるというのね」
「落ち着け! これは事故だ! 俺は無想を」
「言い訳は無用。女の敵はそこに直りなさい!」
「ちょっと待て! お前は何をする気だ!?」
抜刀し、軍刀を右上段に構えるみなもに直人は問う。
「斬る!」
そう言われた直人もまた抜刀し、同じく刀を構えた。
「何で反撃しようとするのよ!」
「黒金倒すまで死ねるか!」
「ねぇみなもちょっと待って! みなもも何かされたの!?」
「この男は私のお風呂を覗きに来たのよ」
「え……え」
茜が直人とみなもの顔を見比べる。
「もしかして、それが夜這い! うわぁ……」
赤面した茜が両頬に手を当てる。
「違う!」
「でもみなももうお嫁に行けないじゃん!」
「え……いや、それは」
「え、重婚!? うわぁ……」
直人を見た茜は困ったように眉をひそめた。
「話を聞け! そういうのは今時古い!」
「そう教わったもん!」
「おい悠紀羽! 黙っているという約束だっただろうが!」
「茜を泣かせるなら話は別よ!」
「ま、ま、話せば分かる! 俺は無想を練習していたんだ」
「無想ってあの?」
「……仏教のあれよね」
二人ともどういう意味か知っているらしい。
「俺が無想の領域に至れないかと。目を閉じて、あの枯葉が落ちる瞬間を悟れないかと試していたんだ。そしたら枯葉が落ちる音が聞こえた気がしたから、咄嗟に葉を掴もうと手を突き出したら、その、ああなったということだ」
「それ私が落ち葉を踏んだ音だよ」
「ていうか音に頼ってもだめなんじゃないの?」
「……やっぱり?」
「何でそんなことやってんのよ」
「俺も考え直したんだ。やっぱ殺人剣は良くないなと。俺も生きたいし。じゃあ黒金を倒してかつ生還するにはどうしたらいいか考えたら、無想の領域に至ればいいんじゃないかと思ったんだ」
「はぁ……」
みなもはため息をついた。
「貴方は根本的な心得違いをしている気がするわ」
「何だと?」
「まぁ貴方に悪気が無いことは分かったわ。一旦中に入りましょう。ここは寒いわ」
みなもの言葉に、三人は旧校舎の中へと入り、例の部屋へと移動してこたつに入った。
「私が言いたいのはね、貴方は馬鹿な真似をしたということよ」
「そりゃまぁ、悪かったよ。玉里」
「いきなりは駄目だよ。順番守ってくれなきゃこまるもん!」
「反省します」
「茜……? ま、まぁいいわ。言葉の意味は心得違いがおかしいということよ」
「心得違い?」
「無想とは、一切の執着を捨て去ることで心を空として、世界と同化することでしょう? 仏教における、色即是空、空即是色というやつよね」
「う、うむ」
直人はそこまで深く考えていたわけではなかったが、ともかく肯定する。
「それで貴方は黒金に勝つために無想を求める」
「そうだ」
「執着しているじゃない」
「……あ」
「勝ちにこだわる間は、決して無想に届かないし、無想に届いた時には、黒金もこの国もどうでもよくなってるわね」
「……確かに」
馬鹿と言われても仕方の無い、愚かな過ちを犯していたものだ。
「もしそういった心持ちが大事なら、貴方が頼るべきは無想じゃなくて無我、或いは無明でしょうね」
「無明?」
無我は何となくわかるが、無明という言葉は聞いたことが無い。
「無明とは神道の用語。意味は、人間の本能と神霊によって力を発すること。その為に、我欲を無くして神に通じていく。仏教における無我。いえ、修羅の方が近いのかしら。神道においては、神霊のお力を頂くためにはまず自分が欲を無くさなければならないという考えがある。そのためのお祓いであり、私達が行う禊でもある」
直人はお祓の意味を今始めて知った。
「つまり人間は我欲の無い状態で生きていると『森羅万象』と同じになるのよ。我が無いということは、我と自然が分離されていない状態だから。そして森羅万象には神が宿る。我欲の無い人間は、自然、すなわち神と一体化できるのよ。これを神人合一と言うわ」
自分が神になる。まったく想像もできないが、想像もできないという点では無想の境地も同じことか。
「自分自身が森羅万象の神ならば、自分の考えたことがそのまま現実のものとなるわ。だって、自分の考えは八百万の神の考えと同じなんだから」
みなもの話が終わった時、直人は膝を打っていた。
「凄いな」
「ええ、私も凄い考え方だと――」
「いやお前が」
「え?」
言葉の意味に気付いたのか、みなもは若干赤面した。
「悠紀羽は仏教にも詳しいんだな」
「詳しい、というほどではないわ。神仏習合って知ってる?」
「名前くらいは」
「仏と言えど神は宿る。要はそれだけのこと。故に仏の教えにも目を通す。それが日本神道のあり方だから」
直人は感心して息を吐いた。
「ところで、その無明の領域に至るには、どうすればいいんだ?」
「欲を捨てること」
「だが、黒金に勝ちたいという欲を捨てても大丈夫なのか?」
「捨てるのは我欲だけ。世界に対する執着はあってもいいの。もし黒金を倒すのが大義だというのなら、森羅万象の神々が、それこそ貴方の式神が、力を貸してくれるわ」
意思を起こして身体を動かす。その迂遠な過程を神が肩代わりしてくれて、俺の身体は勝手に動くということか……? やっぱり想像できん。まぁそう簡単なものではないのだろうが。
「神道悠紀羽流においても、無明の境地に至ることで修行の終わりとされるわ。人は我欲を捨ててなお、戦う理由は失わない。ということかしらね」
「じゃあ我欲を捨てるにはどうしたらいいんだ?」
「……さぁ」
「え、お前は?」
「私は服とか欲しいし……」
「巫女ってそんなもんなの?」
「さぁまだ明るいし練習しましょうか!」
そう言ってみなもは立ち上がった。
誤魔化されたことには気付いた直人だが、直人自身考えるより行動する、迷ったら身体を動かす派の人間である。
練習には異議を唱えず、後に続いて中庭に出た。
「剣法水無瀬流の技を空中で出す練習をするのよね」
「そのつもりだが、とりあえず飛んでみよう。玉里がどれくらい飛べるのかを知りたい」
「おっけー」
「早衛」
「一目連」
「秋葉」
三人は一斉に御佐機へ憑依した。
茜の御佐機、秋葉権現は身長五・五メートル強の暗緑色の機体だ。最大の特徴は腰から伸びる若干後退した主翼であり、しかも垂直翼がついている。首元にマウントされた大きな発動機は空冷であり、プロペラは六翅と多い。
三人は離陸し、間もなく高度千メートルほどに到達した。
「とりあえず玉里はシザーズをやってみてくれ」
「シザーズ?」
「まず俺がやってみる」
直人はそう言って、横転と旋回を繰り返した。
「この動きを悠紀羽に教えていた。玉里もやってみてくれ」
「はいよー」
そう言って茜はシザーズ機動を行った。旋回性は悪そうだが横転は早い。直人と同様四回のシザーズを行った後、茜はそのままくるくると回し始めた。
「お、おい!」
直人は一瞬操縦不能に陥ったのかと思ったが、それは違った。あれは完璧なバレルロール……。
「風車みたいよね」
「ああ……」
翼面積の小ささから横転性は良さそうだななどと思ってはいたが……。
「ねぇねぇどうだった?」
戻ってきた茜が直人に問う。
「良くできてる。お前、俺が教える必要なくないか?」
「ええー、私空戦のこと何も分からないよ」
バレルロールはできるが、その使い道は分からないということか。
ともあれ茜の御佐機の扱いがそれなりだったことは直人にとっては僥倖である。
「そうだ! 玉里、お前俺の練習に付き合ってくれ」
「練習?」
「ほら、水無瀬流の技を空中で繰り出す練習だ」
「ああ。うん分かった」
「よし。ではついて来てくれ」
「あ、私は?」
「シザーズでもやってろ!」
「扱い雑じゃない!? ねぇ!」
「みなも怒ってるよ?」
「今はそれどころじゃない」
「そうなの?」
貴重な練習相手が見つかったのだ。少しでも技量を上げておきたい。
無線から聞こえる「ねぇ!」というみなもの声に構わず、直人と茜は少し離れたところへ飛んでいった。
「俺と同じ高度で向かい合うように飛んできてくれ。速度は時速三〇〇で頼む」
「はーい」
向かい合った状態で飛び、直人と茜はすれ違う。
「では今の感じで飛んで、俺の頭上に打ち込んできてくれ」
「危なくない?」
「多少叩いても構わん。死なない程度に頼む」
「りょうかーい」
再度正対。二人は右上段に構え、距離が縮めていく。
「行くよ」
茜が直人の頭上に振り下ろす。ヘッドオンからの正面斬りは市ヶ谷神道流にも存在する。それに対し直人は構えを下段に直し、機首を下げつつ横転。茜の太刀が肩を掠めるようにして受け流つつ、茜の脇腹に沿うように太刀を滑らせた。
――剣法水無瀬流『滝縞』
本来は地上において、右足を後ろ、左足を前にして上体を屈めて頭頂に敵の攻撃を誘い、敵の刀が肩を掠めるようにしてかわしつつ、引き込んでいた太刀で無防備となった敵の脇腹を斬るという技だ。
上下の体重移動を連動させることが肝要だが、この上下の体重移動は他の技でも使え、応用の幅が広い。
「玉里、今の見えたか?」
「見えたって……見えたかどうかで言えば、見えたけど」
「だよなぁ」
茜の打ち込みは明らかに加減したものであり、回避できたのは当然。空中においては上下の動きの前には機首を上下させる動きが入用となり、見切られ易い。それを防ぎたければ初めから下段に構え、敵より少し下の高度を飛ぶべきだが、そうすればこちらが切り上げを意図していると教えながら飛ぶようなものだ。
やはりこの二挙動というところが空戦に向いてない。彼我の距離が一瞬で詰まる上に、ヘッドオンにおいては正面衝突への恐怖がタイミングを誤らせる。
さらに空戦機動は横転が起点になることが多く、その場合横転の方向で次の動きを読むことができる。相川隊長の記憶を継いだ黒金ならば、そのくらいのことはできるだろう。
「もう一度同じように頼む!」
直人の正面から迫る茜は、もう一度右袈裟に切り下す。それに対し直人は下からすくい上げるような剣運びで弾き飛ばし、楕円形の軌道を辿らせ、切り下す。首元を狙えるのが理想だったが、眼前には秋葉権現の背中と発動機しか見えない。さらに次の瞬間、茜の頭が直人の膝に衝突した。
「いたっ」
茜が声を上げる。一方直人は機首が下がったのを利用してそのまま緩降下し、バランスを取る。
――剣法水無瀬流『光芒』
本来は己の手首を狙って打ち下ろされた一撃を下からすくい上げる剣運びで弾き飛し、構えなおすことなく剣先に楕円形の軌道を辿らせ、袈裟切りを見舞う技だ。だがこれも不可。
「水無瀬君大丈夫!?」
「平気だ!そっちは?」
「私もへーき」
やはり空中で向かい合った状態での二挙動は無理がある。相手が素人なら可能かもしれないが黒金には当てはまらないし、敵が素人前提というのはおよそ実戦的ではない。
可能性が高いのは一挙動で出せる技だ。一挙動で出せる技か……。実戦的なものは市ヶ谷神道流に組み入れられている。難度が高いが有効かと思われた『天地』も黒金には通用しなかった。
あとは、居合い斬りくらいか?
鞘の内より始まる居合いの強みは、敵の眼から刀を隠すことで間合いを隠せることだ。ただ、納刀状態からの即攻撃ではその剣筋は切り上げの一つしかない。故に基本用途は不意打ち、奇襲。
もし真っ向勝負で既に武器を構えた相手に抜き打ちで挑む場合、神速とも言うべき抜刀術が必要となる。
剣法水無瀬流に居合いの型は存在するが、直人は別に居合いの達人ではないし、空中で繰り出そうと思ったことも無い。
でも市ヶ谷神道流に存在しない技であることは事実。試してみるか。
「玉里。次も同じように頼む。俺は居合いでいく」
「うん。分かった」
三度向かい合い接近する両者。直人は太刀を左腰の鞘に収めたまま。茜は右上段の構え。距離がつまり、直人は茜の攻撃の起こりを見極めようとする。だが予想外のことが起こった。茜が今までとは逆、直人から見て反時計周りに横転しつつ、切り下してきたのだ。
直人の居合い斬りは空を切り、茜の切っ先が発動機のあたりを軽く叩く音を聞く。
完敗だった。実戦なら撃墜は確実。
「玉里。お前、どうして」
「右手で柄を握ってるならこっちも右によければいいかなぁって」
タイミングを見計らい右上に切り上げることしか考えていなかった直人は虚を突かれる思いがした。
「やっぱだめかぁ……」
「もっかいやる?」
「どうすっかな……」
「水無瀬君」
直人の思考は無線から飛び込んできたみなもの声によって中断された。
「なんだ」
「今日はもう終わりにしましょう」
「なに。もう疲れたのか」
「そうじゃなくて、破障の呪いの件よ」
「もしかして、やってくれるのか!?」
「ええ。昨日やり方を確認して、今朝宮司に準備するよう言いつけてきたわ」
「おお! よし行こう!玉里、今日はここまでだ」
「おっけー」
破障の呪いと聞いて直人の心は高まる。起死回生の切り札となるか。
地上に降りた直人達は空き部屋に戻って鞄を回収する。
夕暮れ時、三人は駅へと向かい、直人とみなもは茜に別れを告げ下りの電車へと乗った。