16. エピローグ
一九四七年の三月、直人は神楽坂中等学校を卒業した。
神楽坂中学が予科であった時代、卒業試験での落第は確実視されていた直人にとって、神楽坂予科が五年制中学に移行したことは僥倖であった。
中学五年生になっても直人の学力は学年最低と言ってよかったが、空軍士官学校へのエスカレーター進学がなくなった神楽坂中学においては、学力が著しく欠如した生徒であってもその卒業を阻止する積極的な理由はなく、直人は普通に卒業できた。
卒業試験なるものも存在はしたが、おそらくは形式的なものであったのだろう。
直人が社会人となったこの年、太平洋戦争の終結から二年が過ぎようとしていた。
市ヶ谷大本営による強権的な軍事政権は過去のものとなり、帝国議会と政党政治が復活。更には同盟国となったアメリカの影響により女性参政権の成立も間近となっていた。
アメリカとの条約により規模を大幅に制限された軍部の政治に対する影響力は必然的に激減し、国民の権利については戦前よりも確実に向上していた。
だが国民の暮らしぶりについては、戦前と比べ、良くなっているとは言えなかった。
その原因は後にロサンゼルス体制と言われる日米関係にある。
GHQ内部のアメリカ独立派は凍結されていた帝国議会の政治家や天皇の側近と事前に接触を図っていた。そして昭和二十年八月十五日。市ヶ谷大本営との決戦に勝利すると同時に、復活させた帝国議会と停戦協定を締結。これにより第二次世界大戦は終結し、日本には一応の平和が訪れることになった。
この日、すでに戦後の日米の軍事協力に関する密約は交わされていたと言われるが、正式に定められたのは九月二日のロサンゼルス講和条約である。
その内容は、日米は互いを独立国であると認める他、日本における帝政の維持や賠償請求の放棄など一見すると対等な条約と見受けられた。しかし実際には日本の軍備制限ならびに軍需物資のアメリカへの優先供給、加えてアメリカ軍は日本への駐屯権を持ち、帝国軍はアメリカの戦争に参戦する義務を負っているなど、属国に近い扱いを受けるものであった。
そもそもこの時点で日本はアメリカ以外の連合国と停戦や講和を行っておらず、ロサンゼルス講和条約の成立に先んじて帝国軍は義勇軍としてアメリカに上陸している。
日本政府としては、市ヶ谷なき後武力でGHQに勝利することは不可能であり、アメリカ独立派を味方に付けることで独立を維持したい。またドイツの敗北とソ連の満州進出やイギリスの東南アジア再進出を受けて、新たな同盟国の必要性を痛感したが故の選択であった。
こうして国際的な地位を維持するために図った外交策が、国内経済と治安の急速な悪化を招いた。
規模を大幅に制限された帝国軍は大量の人員を民間に放出しており、そこに貧困に喘ぐ農村部からの人口流入が拍車をかけ、都市部は失業者の群れで溢れた。
しかもアメリカの独立戦争という遠征に多くの物資がつぎ込まれており、国内は物資不足とインフレに陥っていた。
こうして出現したスラム街は反社会団体の温床となり、犯罪者の数は激増していた。しかもアメリカの裏切りによって一時的に日本国内で虜囚の憂き目にあっていた元GHQの英仏軍が火器を横流ししており、警察以上の武力を保持する犯罪組織も存在した。
加えて『資本独占』や『天皇制』の打倒を掲げる急進派左翼は武装闘争路線を掲げており、そうした思想を持つ犯罪者は警察に対しためらうことなく重火器を使った。
こうした治安の悪化に、政府も手をこまねいていたわけではない。
昭和二一年には御佐機所持禁止法が成立。翌年には民間人の御佐機所持が違法となる。
合わせて民間人の刀所持も禁止されたため、この法令は刀狩りの異名を取った。
民間の魔導士は霊体としての式神のみが所有を許され、魔術の行使のみが魔導士たる所以となった。
これにより犯罪に御佐機が用いられるケースはほぼ消失したが、犯罪件数自体は減少の気配を見せなかった。
軍部の増長を招いた戦前の反省から軍の治安出動を回避したい政府は、内務省警視庁警備部内に新たな精鋭警察部隊を設立する。特殊環境急襲部隊。通称『特環』である。
特環は通常の警察では対処できないような凶悪事件、重犯罪にのみ投入され、毎回のように殉職者を出しながら犯人を確実に制圧した。
低致死性兵器とボディアーマー、そしていつしか標準装備となった刀で武装した彼らは、警察官としての『可能な限り不殺』を掲げつつ、『不殺とは殺さぬだけ』という苛烈さをも標榜し、危険を省みない果敢な突入で犯罪者達を震え上がらせた。
特に首都圏を管轄とした第一大隊は『帝都の貔貅』『警視庁の切り札』などと称賛され、最強の治安部隊という国民からの評価を確たるものにしていった。
勿論、そもそも重犯罪というもの自体、発生しないに越したことはなく、その発生要因の最たるは経済面の低迷とそこからくる人心の荒廃であることは間違いなかったが、大日本帝国の経済が安定を見せるには十年以上の時を必要とした。
一年に及ぶ第四次独立戦争の結果、アメリカ合衆国は大英帝国から独立。世界は『イギリスを盟主とする西ヨーロッパ連合王国』、『ソ連を盟主とする共産陣営』、『アメリカと日本による反欧枢軸』による三つ巴の冷戦へと突入する。
五〇年代に入って起きた朝鮮戦争においては、やはりアメリカからの要請で参戦を余儀なくされており、経済的な負担となった。
それでも国際社会に対する相対的な国力は徐々に増加しつつあったが、失業者の数は中々減少しなかった。
国内では放置された財閥がその資本力で市場を独占し、中小企業は系列化されるか倒産するしかなかった。そうして雇用の中核を成していた中小企業の倒産や人員整理が相次いだのである。
経済が好転し始めた五〇年代後半においても、在日米軍の撤退を叫び、新ロサンゼルス体制に反対する勢力によるテロが何度か発生した。
これらは強く正統な大日本帝国の復活を求める極右勢力と、アメリカの影響を排除しソ連の支援のもと共産革命を目論む急進派左翼の双方で実施されており、早急な解決は困難と考えられる混沌とした状況だった。
こうした時代を背景とする重大犯罪において、特環が出動して鎮圧できなかったという事例は存在しない。
その出動機会は少なくとも、特殊環境急襲部隊はその存在価値が最も問われた時代において、国家の治安を守り通したと言えるだろう。
不思議と、特環にはかつて帝国空軍の魔導士だった者が何人も参加していた。彼らはアメリカの傭兵に成り下がった現空軍に愛想をつかした、或いは死に場所を求めて特環にたどり着いた兵達だった。
戦後も、帝国軍、特に空軍の戦いは続いていた。
アメリカで。朝鮮で。ベトナムで。
帝国空軍魔導士部隊の名声は国際社会で、特にアメリカ内で高まっていったが、結局のところそれはアメリカのための戦いであり、かつての帝国軍が誇った矜持とは変質してしまっていた。
生と死の狭間にある。戦後、帝国空軍の魔導士達が徐々に失っていった日本魔導の精華が、この警察庁の一部署にこそ息づいていた。
少なくとも彼らの胸の内には、命をも捧げるに足る何かが存在していたのだろうと想像できる。
こうした同じ日本人からでさえ理解し難い精神性こそが、犯罪者と民間人から畏怖と敬意を集め、作戦の成功との特環の意義を確たるものにしたのかもしれない。
振り返って昭和二二年。特殊環境急襲部隊の設立の年。その最初の入隊試験に、後に特環の隊長となる青年が姿を現した。
その名は悠紀羽直人。
彼は入隊試験において最年少であったが、極めて高い基礎体力と、刀を用いた異常な戦闘能力で注目を集めた。
多くの強者と戦い養われたその才は遺憾なく発揮され、実戦配属以降多大な武功を挙げていく。
階級が上がるにつれて、悠紀羽の読みはよく当たる。勘が異常に鋭い。などという評判も得るようになったが、精神に禍津日神の断片が残ってしまった直人にとっては必然とも言えた。
特環内で一目置かれるようになった頃、直人は任務に刀を持ち込むようになった。
刃引いてあるとはいえ、それは強力な打撃武器。何より戦場では目立った。
刀を差し、時に振り回す最強の警察官の評判に興味を持って、或いは憧れて特環第一大隊を志願した後輩達は当然のようにそれを真似し、刀の装備は隊全体に広がった。
精強が精強を呼び、刀が仲間を団結させる。
己の身命をかけ、直人は今日も剣を振る。
魔導の真髄、ここにあり。