15. 神楽坂
結局、直人は元には戻らなかった。
魅乗りになった人間は元には戻らない。
この理は絶対であり、人知を超えたみなもの魔剣であっても、完全に断ち切ることはできなかった。
禍津日神の魂の断片が直人と融合し、直人の精神を変質させた。
それにより自我が変わるようなことはなかったが、直人の性格や身体機能を若干変化させたかもしれなかった。
これは誰にも、みなもにさえ言ってないことだった。
もともと戦うのが好きなのだ。邪神の力が多少入ったところで、困るようなことでもあるまい。
八月の最終日。
新学期を翌日に控え、直人達は銀座に訪れていた。
「外人多いなぁ」
「やんなっちゃうわね」
直人とみなもが言う。
久しぶりの東京は、軍服姿の白人があちこちを歩いていた。
逆に以前まで見られた日本の軍人は一人たりとも見かけない。
「新宿にすれば良かったかしら」
「新宿でもちらほら見かけるけどな」
「アメリカ人ちょっと怖いよね」
「まぁ軍人だしな」
「アメさんは牛肉食ってるからパワーが桁違いらしいな」
「そもそも、なんでこんなにたくさんいるんだ?」
「日本が負けたからだよ」
「それは知ってるよ。でもGHQの本部は横浜だろ? やけに多くないか?」
「いや帝都に越してきたんだよ」
「え、そうなの?」
「ちょっとは新聞読めよ。ラジオでもいいけど」
「直人はずっと忙しかったのよ」
「過保護だろ」
渚が呆れたように言った。
「そういや、GHQの本部はこのあたりだったな」
「ああ。じゃあちょっと行ってみるか」
健児の言葉に、渚はそう提案した。
GHQ本部は有楽町駅の近くにある。
有楽町駅は戦災により中央改札口が大破しており、現在も使用不可となっている。
噂によると、GHQは民間施設への攻撃は極力避けたらしい。
勿論それはGHQが意図的に流した噂かもしれなかったが、確かに本土決戦が行われたにしては、市街地の被害は少ない。
ただし、日本軍の物流を寸断するため鉄道網には攻撃を仕掛けたようで、鉄道は未だに臨時ダイヤとなっている。
また、両軍の司令部が置かれていた横浜、横須賀、市ヶ谷に対しては両陣営による猛攻が加えられており、一帯は廃墟となっていた。
帝都もあちこちで戦争による被害を受けているが、その一方で街全体としては活気がある。
人通りが多く、混雑していると言っていいほどで、あちこちに露店や屋台が建っている。
「いろんな露天があるね」
「人が多いな」
「お、いい匂いがするぞ」
有楽町駅の中央口付近にある屋台では、ドラム缶で大量の食材が煮込まれていた。
「カレーみたいな匂いだな」
「けっこう肉が入ってるな。栄養スープっていうのか」
「軍がため込んでた缶詰やら非正規ルートの野菜やらを煮込んだもんだ。進駐軍の残飯も入ってるって噂だぜ」
「一杯三円か。美味いのか?」
「見るからに味を期待するものじゃないでしょう」
「でもけっこう人が集まってるぞ」
「まぁ最近は配給も遅配が多いから。食べ物も値上がりしてるし」
「公定価格より闇市の方が安いってんだから笑えないよな」
「闇市っていろんなメシ売ってるんだって?」
「帝都だと新宿のがでかいな。混沌としてたぜ」
「渚行ったことあるのかよ」
「ネタを仕入れにな」
「どんな感じだった?」
「通り全部がごった煮だ。労働者浮浪者軍人崩れ。ヤクザに孤児に売春婦。物見遊山のアメリカ兵」
「面白そうだな」
有楽町駅を過ぎると丸の内に入るが、こちらの方が銀座方面よりも戦災の被害が大きいように思える。
本土決戦の際、宮城は空軍が帝都最大の高射砲陣地として活用していたらしく、GHQの攻撃目標となったらしい。
周囲の建築物も巻き添えを食ってしまったのだろう。
「ギブ ミー チョコレート!」
丸の内仲通りでは、小型四輪車に乗った米兵を取り囲むようにして、子供達が叫んでいた。
米兵の方も嫌な顔はせず、何かを手渡している。
「なんだあれ」
「チョコレート配ってんだろ」
「マジか。太っ腹だな。俺も貰ってこよ」
「よしなさいよ。チョコなら売ってるわ」
「アメリカのチョコ食ってみたいんだよ」
「Hey,boys」≪やぁ。少年達≫
「やべ! 外人だ!」
不意を突かれた。突然、二人組の米兵に声をかけられた。
「A good sword.Are you Sorcerers?」≪いい刀だね。君達は魔導士か?≫
「なに? ソーサラー?」
「I think Japanese swords are very beautiful」≪日本の刀はとても美しい≫
「英語がわからん……いや、そうか! ギブ ミー チョコレート!」
「え!?」
「What? You want chocolate too? All right」≪おっと。君もチョコレートがほしいのか。わかった≫
そう言って米兵は板チョコを差し出した。
「えーと、サンキュー」
「Sure」≪いいさ≫
「ふむ。実を言うと俺も食ってみたい」
「その場合なんて言えばいいんだ?」
「ワンモアじゃねーの?」
「ワンモア? ワンモア!」
「OK.I‘ll give it all」≪じゃあ全部やるよ≫
「HaHa.That tropical bar isn‘t very good」≪はは。そのトロピカルバーあんまり美味しくないぞ≫
そう言って二人の米兵は計三つの板チョコを差し出した。
おお! 俺の英語が通じたぞ!
「By the way,I really want you to sell that sword」≪ところで、実はその刀を売ってほしいんだが≫
「え、なに?」
「A spare sword that you are not using,you can sell」≪使ってない予備の刀でも構わない≫
「なんて言ってんの?」
「刀を売ってくれって言ってるんじゃねーの?」
「これを売る? いいわけねーだろ」
「直人断って!」
「えーと、ノーだ。ノー!」
「I pay one hundred dollars.You can buy one hundred chocolates」≪百ドル出そう。チョコレートが百個買えるぞ≫
「ノー!」
「So can you get a sword? I want to buy it next time if you can」≪じゃあ刀を手に入れることはできないか? できるなら今度買いたいんだが≫
「Can‘t get it? You are sorcerers?」≪手に入れられないか? 君達は魔導士だろ?≫
「ノー!」
「ウェイウェイウェイ。イエス。アイアムソーサラーズ」
「おお! 亮お前英語喋れるのか!」
「昔見たアメリカ映画を真似たのさ」
亮太が得意げに言う。
「Gee.Would you sell a sword? Do you have some?」≪お。君は刀を売ってくれないか? いくつか持ってたりしないか?≫
「……」
「おい亮。なんとか言えよ」
「英語がわからん」
「じゃあ何で割り込んできたんだよ!」
「言いたかったんだ」
「So how much do you want?」≪じゃあ、いくらほしい?≫
「なんだって?」
「いくらになるかだって」
「ややこしくなってんじゃねーか!」
「く……アイキャンノットセル! アイキャンノットセル!」
「Oh……,all right.I ask another person」≪そうか……わかった。他を当たるとしよう≫
そう言って米兵は去っていった。
「亮ナイス!」
「危ないところだったな」
「ほんとだわ。相手はアメリカ兵よ。何されるかわからないじゃない」
「でもチョコくれたぞ」
「だから何よ。銃だって持ってるでしょうし」
「そん時は俺達も御佐機出せばいいだろ」
「すげー面倒なことになりそうだな」
直人は早速包装紙を破り、板チョコを齧る。
「やっぱチョコは美味いな」
「そう? 私にも頂戴」
「私も!」
「二人で分けろよ」
直人は板チョコを一枚みなもに渡す。
「ふーん。まぁこんなものね。アメリカの食文化の底が知れるわ」
「すごく硬いね」
「軍用食だろそれ。玉羊羹みたいな」
「玉羊羹の方が美味しいわよ」
「おい俺にもくれ」
直人は健児に一枚渡し、残り一枚を割って半分渚に渡した。
その後一行は百貨店に訪れる。
みなもと茜は秋物の服を見て回っていたが、男衆はやることがない。
外の屋台で焼きそばを買って食べるくらいだ。
しかも今日は見るだけで買うつもりはないというのだから、女というのはわからないと直人は思った。
夕暮れ時、外に出ると商店のネオンが光り輝いているのが目に入る。
日中も光っているのはわかっていたが、辺りが暗くなると一層煌めいて見える。
アメリカからの石油の輸入が再開したこともあって電力不足は少なくとも都市部では解消されている。
こうした明かりを見ると、平和になったというのが一目でわかり喜ばしい。
夕食時を迎え、皆家路につく。
直人としては寮に戻ってもよいのだが、幸人が悠紀羽邸に居づらくなると頼むので、居候を続けていた。
翌日。およそ一か月半ぶりに神楽坂予科は本来の校舎に戻り、二学期が始まった。
その始業式、体育館に集められた全生徒に対し、京香の口から衝撃の事実が告げられた。
「諸君に、残念なお知らせがある。当学、神楽坂魔導士予科学校は現時点を持って廃校となり、全生徒は神楽坂中等学校へ編入となる」
この言葉に、体育館は一斉にざわめきに包まれた。
普段ならそれを一喝しているであろう京香だが、今回ばかりは仕方ないと考えているのか、それを諫める声は出さなかった。
「知っている者も多いと思うが、アメリカとの講和条約により日本は軍備制限を受けている。そのため陸海空軍全ては新兵を制限することになった。空軍も、士官募集は一般枠のみとし、予科は廃止するそうだ」
じゃあ巡航部はどうなる? 俺達は魔導士じゃなくなるのか?
「中等学校は五年制だ。我々が今日から通う神楽坂中等学校も例外ではない。つまり二年生だった者がここを卒業するのは一年半後ということになる。因みにそれでも士官になりたいという者は、一般枠で受験可能だ。かなり難しいだろうがな」
なんということだ。俺はまぁ受からないだろう。
「人生には、時に自分の力ではどうしようもない時流というものがある。これが人生にとって吉と出るか凶とでるかは諸君ら次第だ。良くも悪くも卒業まで一年延びた。将来についてゆっくり考えて欲しい」
将来……か。これで俺が空軍の士官になる道は事実上閉ざされたわけだ。
別の道を考えないといけないな。
何か、戦いが正当化されるような道を。
「また、予科から普通の中学に変わるうえで、校歌も変えるようお達しが来ている。あと一週間もすれば、発表されるだろう。だから、今ここで神楽坂魔導士予科の校歌を歌うことにする。まだここが、予科であるうちに!」
京香がそう言い終わると、スピーカーから校歌の前奏が流れ始めた。
生徒の中で、その意図を理解しない者はいなかっただろう。すなわち、歌い納めというわけだ。
――神楽坂魔導士予科学校校歌。『天空に憧れて』(一番)
ああ悠遠の神代より、
今に伝わる修練精神。
八幡の社に守られし、
学舎に集いし若者吾ら。
青春の夢うち交わし
渾身に溢れる遙かな理想。
刀の如き鋭利な知性を養い
磐座の如き巌の意志で
誰よりも高い空を目指して、
若者は神楽坂を昇る。
歌い終わると、何某かの感慨が押し寄せた。
別に卒業するわけでもないのに泣いている者もいる。その気持ちもわからないではない。
終戦というものは、直人達の人生にも影響を及ぼす。
夢は野球選手だから関係ないと言う者。
民間の情報機関も悪くないと言う者。
こうなったら本気で役者を目指すと言う者。
元から女子師範学校に行くつもりだから変わらないと言う者。
女学で花嫁修業すると言う者。
皆捉え方は様々だったが、気持ちの切り替えはできる様だ。
さて、俺はどうしようか。
親父は道場復興を手伝えなどと言っている。手伝うのは良いが、ずっとそれを続けるのもなぁ。
道場には実戦がない。実戦無くして、何を想定して修練しろと言うのか。
まぁ、今は深く考えなくてもいいか。
直人は様々な強敵としのぎを削った青空を見上げる。
あのような時間は二度と訪れまい。
……楽しかったな。
空に一筋の飛行機雲が走っていた。
Tips:安倍晴明
帝国空軍大将。飛行戦闘総隊司令官。関東飛行軍司令官を兼務している。
平安時代より日本の魔導組織の主要役職を務めてきた安倍一門の現当主で、晴明の襲名を許された六人目の人物。
魔導士としても軍人としてもその才覚はずば抜けており、初代晴明の再来とさえ評されている。
幼少期より顕著に高度な知的能力を持っており、陸軍士官学校、陸軍大学校を主席卒業。魔導軍創設時に少将として任官。空軍創設時には異例の若さで大将に就任。元帥である天祇政宗からも重用されていた。
晴明が世界征服という野望をいつから抱いていたのかは定かでないが、本土決戦の始まる前から準備していたことは間違いない。
自分の人生において、世界征服という史上誰にも成し遂げられなかった偉業を果たすには昭和二十年が最初で最後の好機と判断し、実行に踏み切った。
支配という行為に対し独自の哲学を持ち、他の存在の力を借りることを良しとしない。そのためあくまで人間であることに拘った。
もし晴明が八岐大蛇との融合を図っていれば、その戦闘能力は神の領域に達し、敗北の可能性を完全に排除することができたはずだが、晴明にとってそれはあり得ぬ選択だった。
人としての強さを突き詰めた晴明だったが、人間である以上思考の遅れや判断ミスは必ず発生し、人間をやめた直人に遅れを取る原因となった。