3 魔王はリンゴがお好き
ここは酒場。まだ昼だがそこそこ客足があって、テーブルの半分は埋まっていた。
「何にします?」
「うー……テーブルかじる……」
「水ですね分かりました。私は……リンゴ酒をひとつ」
半分埋まっているテーブルのひとつを埋めているのは、色々なものを喪失してうなだれる俺と、それを苦笑して宥めるリリィだった。
俺たちは呪いが解けなかったとするや否や、息抜きに酒場に訪れていた。
リリィが店員に注文をすると、店員はゆっくりとお辞儀をして厨房の方へ入って行く。俺はテーブルにうなだれながらも、それを横目で興味深く見つめていた。
人間界の酒場に入ったのは初めてだ。ちょっとワクワクする。
「なんかすみません……お役に立てなくて」
店員が行った後に、リリィは俺に向かって申し訳なさそうに笑った。
俺は姿勢を正してリリィを見つめる。
「気にするな。人間のすることなど、たかがしれてる」
「は、はぁ……」
なんというか、魔王である所以というべきだろうか、自然と人間を見下すような口調になってしまう。まあ実際、ちょっと見下しいるが。
そんな俺に、リリィは少し気まずそうに相槌をうった。そしてそのちょっと奇妙な雰囲気を変えようと思ったのか、リリィは新たな話題を口にする。
「そういえば、お名前聞いていませんでしたね」
「ふむ、そうだったな」
名前。名前か。
俺は魔界では基本的に『魔王さま』と呼ばれていた。東を統治している魔王だったから、その他の地域の魔族からも『東の魔王』と呼ばれることが多かった。そんな感じだったから、名前を尋ねられたり、名前を呼ばれたりすることは、とても新鮮である。
本来ならば、人間ごときに魔王は名乗らない。しかし、彼女には多少の恩がある。魔王でも人間に恩を感じるのだ。劣等感や優越感を感じるのと同じように。
「俺の名前は……」
「おやぁ~? そこにいるのはビンボー僧侶じゃないか!」
俺が名乗ろうとしたら、テーブル外から横やりが入った。俺はその声の主に視線を向ける。同時に、その声を聞いた途端、リリィの顔が痛ましげに歪んだのを俺は見逃さなかった。
俺の自己紹介に横やりを入れたのは細い目つきで緑色の短髪の男だった。
そいつはズカズカとこちらに近づいてくると、俺たちのテーブルにバン! と右手を叩きつけて、リリィの顔を下からのぞき込む。
「お前のオヤジ、ま~た路地裏で呑んだくれてたぜ? あいつが呑んでいた酒は、今度はどこから盗んできたんだ?」
「……盗んでなんか、ないです。ちゃんと買ったんです」
目を伏せながらも、リリィはしっかりと弁明する。
しかしその男は、彼女の顔に息を吹きかけると目線を顔からその下へシフトさせた。そして彼女のふくよかな胸を見つめると、いやらしく大きなそれに左腕を伸ばす。
「――っ! やめてください!」
リリィはその辱めに耐えられなかったようで、彼の手を弾いて立ち上がった。
男はリリィが自分を拒絶したのをよく思っていないらしく、舌打ちをする。それから姿勢を直立に戻して言った。
「ほォ……。俺ん家にいくら借りてんのか、忘れてるみたいだな……?」
「あっ、あれはとんでもない利子をつけるから……」
「ハッ、言い訳かよ? 借りたもんは返さねぇとなぁ……? なあ兄ちゃん、お前もそう思うだろ?」
蛇のような狡猾な瞳でリリィを攻めた後、その男の視線は俺に向いた。
俺は特に何も考えず、その男の問いに普通に応える。
「我は人間のものは借りぬ。欲しくなったら奪うだけだ」
――『魔王』として、普通の回答をしたのだ。
歴然とした態度でしっかりと答えた俺に、リリィと男はポカンとした顔で俺を見つめた。
そして男はキザったらしく鼻を鳴らすと、負け惜しみを言うように言い放つ。
「ふん。所詮はこの卑しい女と同席するだけはある。体目当てのチンピラめ」
「しゃしゃるな子悪党。我はチンピラなどという矮小な存在ではない」
俺がそう言い放った瞬間、その男は今度は強い力でテーブルを叩いた。ドン、という音が酒場全体に鳴り響き、ワイワイとにぎやかだった雰囲気は一気に静かになる。
男は俺に言った。
「なァ……俺を誰だか知ってんのか……? 大商人ヘレスト・マーヴィンの息子、クレスト・マーヴィンだぞ……? 俺にそんな態度とっておいてこの先、生きていけると思うのか?」
「我は貴様のような砂利の力など借りぬとも、生きていける。自惚れるなよ、子悪党」
「テメェ!」
その男、クレストはついに耐え切れなくなったのか、振りかぶって俺を殴りかかった。リリィの方からかすかに悲鳴が漏れる。
怒りで息切れをするクレストは俺を殴って満足したのか、フンと鼻を鳴らすとリリィへと向き直った。
殴られた俺は、殴り返す気もおきない。痛くなかった上に、こんな欠陥人間と戯れる気分ではなかった。
クレストはリリィへ言った。
「今日のところはもういい。また後日」
そう言うと、クレストはリリィの肩を強く押すと俺たちに背を向ける。これでクレストの話は終わりのようだ。
少し安堵したのか、小さく息を吐くリリィ。しかしそうはならなかった。
「……あの、リンゴ酒、持ってきました」
きまずい雰囲気の中、木製の大きなコップを持った店員がリリィに声をかけた。そして俺は、そのリンゴ酒に目を奪われる。
俺は酒をたしなむ程度に好きなだけだが、人間界の酒にはちょっと興味があった。というか、人間界にあるという『リンゴ』という果実が好きなので、リンゴ酒に限っては中々興味がある。
リンゴで造られた酒……! 絶対うまい。リリィに一口ぐらいわけてもらおうと、密かに決意した。
リリィは店員にギクシャクした笑顔を向けて、それを受け取ろうと手を伸ばす。
しかしリンゴ酒が彼女の手に渡ることはなかった。彼女がそれを受け取ろうとした寸前に、するりと横から腕が入り、その腕がリンゴ酒を絡めとる。
「ほら、お前のだろ? やるよ」
リンゴ酒を横からかすめ取ったのは、クレストだった。
彼はそう言って笑うと、クレストはリンゴ酒をリリィにぶっかけた。
「……っ」
「ん? なんだよ、文句あんのか? 売女」
濡れた髪からリンゴ酒をポタポタと垂らしながら、リリィは泣きそうな顔でクレストを見つめていた。それに気づいているクレストは鼻を彼女で笑う。
そんな中、音を立てて立ち上がった奴がいた。俺だ。
それに気づいたクレストは、俺を睨みつける。
「おい、文句あんのかチンピラ。俺は大商人の――」
「よくも俺の酒を……!」
クレストが言い終わるよりも、俺が振るった拳が彼の顔面に命中する方が速かった。
目にも止まらない速さで繰り出された俺の右ストレート。クレストの頬の骨を一瞬で砕いて、一瞬で彼を吹っ飛ばした。
酒場の壁をも貫通し、外へ吹っ飛んだクレスト。パラパラと木片となって落ちる酒場の壁。吹っ飛ばされた彼が作った穴からのぞく青い空。
そして楽しみにしていたリンゴ酒を台無しにされた俺。
「すまぬ。リンゴ酒、替えを持ってきてくれ」
「は、はぁ」
俺は店員にそれだけ言うと、もう一度ドスンとイスに座った。
その様子を、リリィはただ唖然と見ていたのだった。