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私的哲学  作者: 比真名比人
倫理考察
8/11

善悪と快




 人間は死ななければ、悪というものを感じません。快か不快どちらかだけでしょう。

 死ぬということを知るから、悪を感じるのです。

 そして悪という概念は生死の並列関係から生じます(わかりやすくするため悪は命を脅かすものとします)。


 善悪について述べる前に、善悪と快(不快)の私なりの定義をしておきます。


 善悪は死と密接な因果性があると考えられるもの。

 快(不快)は価値観(限定的因果性)によって移り変わる人それぞれの感覚。


 例えば先進国の人はペットを可愛がります、発展途上国の子供がいくら苦しんでいても人々はペットの飼育にかかるお金を見ず知らずの子供に回しません。でもこれは悪とは言いません。これは一度金という価値に置き換わるので善悪判断が、限定的因果性で培われた価値判断に置き換わるのです(そもそも多くの人はこのことを因果性がないとするのでしょう)。

 仮にその人が瀕死のペットと瀕死の人間を目前で比較(知覚)して、どちらか片方しか救えない中ペットを優先するなら悪というでしょう。


(ちなみにペットの死というのが、私の定義した善悪と密接な因果性のある死にはあたらないと考えています、人間は人間のことしか考えられないからです。仮に飼い主がペットの命が人間の命との比率を上回ると考えるなら、それは価値観から生じたもので、倫理観からではありません)


 私は人間以外の命を軽んじているわけではありません。しかし人間(私)は人間(私)のことしか考えられませんと言い切った以上、倫理とは人間間で生じるものです。それは限定的因果性、つまり価値観とは切り離すべきものです。


(しかし動物を殺す経験を幾度か経て人を殺したい欲求に駆られてくると考える人もいるでしょう。この因果性を主張するのは妥当であるといい難いわけですが、妥当でないとも言い切れません。人によって論理が異なるからです)


 ところで仮の選択肢において、瀕死の人間が瀕死のペットを救うことを優先するようその飼い主にうながします。この場合、瀕死の人間は善い行いをしたのでしょうか。


 人間を救わなければ飼い主は悪です。

 そして自分の命を救える選択肢を手放すならそれは悪です。

 人間が自分の命を絶って悪にならないのは、人間を救う時だけです(これについてはいずれ詳しく述べます)。


 つまり善いと言える行いはありません。


 出産をすることで母体に危険が及ぶ場合、赤ちゃんはまだ自分が生きている(もしくは死ぬという)ことを知りません。なので赤ちゃんは仮に自分が母親の死と密接な因果性があったとしても悪とは言えません。


 私の論調が不快であるという方には申し訳ありませんが、人間誰しもが知り得る倫理について、死との密接な因果性に基づいて区分けしているだけです。このことについて私は、私の定義する快・不快を織り交ぜるわけにはいきません。


 具体例を述べたところで、次は善と悪の話をします。

 先に善悪について私の結論を述べます。人は基本的に善いことはわかりません、自分を介することで悪いということだけわかるのです。正確には死という比較対象があることで悪がわかります。


 そして他人同士を比較することで快(不快)を知覚します。

 自分では快(不快)はわかりません、わかるのは悪だけです。


 快は悪と比較して善と因果性があると考えます(この時比較して概念を形成します)。

 不快は悪と比較して悪と因果性があると考えます。


 この因果性が次第に、限定的なものになり倫理を価値観にすげ替えます。


 人間が時に快と不快を逆転させて、善悪を論じるのも悪が比較されることに由来すると思います。


 ではここで善について考えます。善は上記の通り倫理観ではなく、快という限定的因果性から形成される概念ですので価値観を生みます。


 人は善いと考えるから争いが起こるのです。善いというのはほとんど快で論じられています。でなければこれほど多くを不快なことだと人は知りえません。


 悪は死との因果関係がありますが、善は死や悪だけでなく快(つまり不快)とも強い因果性があります。

 快・不快が人の限定的因果性で成り立つ以上、これを倫理と関係づけるわけにはいきません。なので私の論じる倫理に善は含みません。


 極端に言えば人間は死を怖れ、悪を嫌うあまり、善を希求し、善によって快・不快を善悪で見事に仕分けすることで混同した悪を生み出すのです。


 悪は生死の並列関係から生まれます。善はその実、悪との前後関係から生まれています、並列ではありません。快と不快は並列関係で知覚されます。


 なので結論を出しますが、倫理は人間誰しも知り得る死と密接な因果性を持つ悪でしか語ることができません。


 というわけで珍しく引用しようと思います。


『語りえぬものについては、沈黙するしかない』


 私は解釈について論じることはできないので、それについて意見があっても主旨を理解して返すことはできません。そもそもこの言葉の生みの親であるヴィトゲンシュタインの哲学書が今唯一手元にあるものですが、まるで読めませんので、そのことについて私が解釈などというのもおこがましいのです。


 私なりに、このメッセージで伝えたいのは、倫理について私がこれ以上定義しようとするのは間違っているということです。


 ところで私はまだ決定的な問題を結論づけていません。そのことを次回、書こうと思います。




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