死について
もうお気づきでしょうが、私は世界がどのようにして成り立っているかまるで考えていません。
人(私)にとって世界がどのように成り立っているか、私が考察できるのはただそれだけです。
今回から比較を認識の限界とした上で、倫理について私なりの考察をしていきます。
私は論理について論理的に考えることで論理らしいものを自分に示しました。
これは倫理について論理的に考えることで倫理らしいものを私に示そうという試みです。
度々主張しますが、私は世界は人間ごとに内在していると考えています。なので私の思考についていくつか前提を述べておきます。
①私は人が人であることを、人を見て知覚(比較)すると考えています。つまり私という意識が人間であることが、人間という概念の証明だと考えています。しかしながらこのことは私や他の人間と呼ばれるものが存在することとはまた別の話です、それはいずれ述べます。
②人間は人間以外のことについて考えられない。
私の解釈として倫理は根本的に大人から子供までほとんど誰でも理解できるものだと、考えています。
ゆえに倫理が人それぞれの限定的な因果性によって成り立つ可能性を極力排除するため、誰しも知覚せざるを得ないことを要素にしていきます。
それが今回の表題です。
私たちは死ぬということを知らなければ自分が生きていることを知らないでしょう。
そして人は生死という並列関係から、魂や無という概念と因果性を感じてます。
私は死はほとんどすべての人が知覚すると考えています。なので私の中である程度共通する倫理観はここから構築されると考えています。
人はみんな死について知ってはいるけどもその感覚は違います。生きる上で死への比率が常に変動するからです。そして時に善や美、愛や真実と呼ばれる概念がその比率の中で死を上回ることもあるかもしれませんが、それらの概念が死に先行して知覚することは考え難いでしょう。
人の生きている間のすべての判断が、死と比較されていても不思議ではありません。
そして死は私たちが唯一意義がないと言い切れるものを生み出します。それが悪です。
次は善悪について考察します。