因果律へ
今回でひとまず概念として、から続く主張の結論を述べます。
私が比較を前提にし、人が事象(概念)を単独で考えないという根拠です。
知覚が比較を必然とする私なりの根拠、人の認識の限界について早々とまとめて言ってしまえば、人には知覚(比較)すれば因果律があり、因果律のない状態は知覚(比較)しないのです。
まず知覚(比較)には二つ仕方があるとそれとなく前回の主張で挙げておきました。
前後関係と並列関係です。
前後関係は簡単です、BがあるのはAがある(に違いない)からです。
並列関係は違います、AとBがある。さらにAとBがあるならCがある(に違いない)です。つまりAとBを抽象化し前後関係を想定して前提Cを作るのです、なので逆前後関係と呼びました(語彙力がなさすぎますね、他に良い呼び方があればいいのですが)。
このような比較で因果律が生じるわけです。
その前に因果律とは何か恒例のWikipediaから引用したいところですが、これも若干噛み砕いておきます(つまり私的見解)。
基本的には何事にも原因がある、風に人間が捉えるという意味です。
例えばスマートフォンの言葉あるいは概念は、携帯電話(ケータイがなければスマートでもなんでもありません)を前提に発生して、携帯電話はそもそも電話を前提に概念があります。比較によって物事の概念を人間が生み出すとします(前後関係)
あるいは概念が前後せず、同時に発生する場合は概念を並列して捉えます(並列関係)。さらに並列した二つを包括し前後関係を生み出そうとします(逆前後関係)。
例えば生きて死ぬなら魂があるに違いない。天と地があるなら世界は平面であるに違いない。暑くて寒いなら温度があるに違いない。真偽があるのは事実があるに違いないからだ。
このように並列関係の場合は同時に(関係を前後させずに)比較するしかなく、またそれらをひっきりなしに一元化するため前提が極めて抽象的になる特徴があります(その代表例が神です)。その場合に前提は並列した概念の抽象化と、前後関係があるに違いないとなります。
つまり概念はすべて独立して平行であることを人間は許容できないのです(言い換えれば私は人にとって神は一つではなく、二つ以上からしか成り立たないと言っています)。
ちなみに知覚による概念形成は並列関係、言葉を介した知覚による概念形成は前後関係です。
以上が、人間が物事を比較して捉えることの私なりの解釈です。
概念を比較(知覚)すると同時に人間は概念化した事象に優劣判定(比率決定)します(当初の並列関係はこれが同値なのです)。前後関係は比率が偏るのでそれが因果律のように見えますが、実際の事象は独立したものである可能性が限りなく高いのです。そのことを人間は証明できませんが、過去因果律によって世界に対し誤った(とされる)解釈をしてきたことは疑いようもありません。
因果律を信仰するのは人がそのように世界を把握する慣習があるからで、人が概念を平行に把握することは考え難いのです。私はこれを比較し続けているからだと考えています。
なぜ私が因果律は存在しないと考えるかについて具体化すると、
スマートフォンは携帯から生まれたのでその過程が原因新たな概念(スマートフォン)が結果のように思えます。しかし電話が小型化されるよりも先にコンピューターが小型化されていれば、スマートコンピュータでもいいわけです。人間は比較して事象を概念化するので因果律が発生しますが、概念化される前の事象に実際は因果関係はない。ただその因果関係がない状態でそもそも人間が概念化できないので、因果律があるように思えるというのが、私の考え方です。
極端すぎる例を出すので納得されなくて当然ですが、生と死は密接に結びついていると普通考えます。しかしたまたま生きている間に死んでないだけかもしれないという話です(しかし私たちは死んでいる状態から生まれてきません、(親が)生きているので生まれるのです)。
話をややこしくする前に、私なりの定義をしておきます。
因果性は人が事象にあると考える(もしくは与える)要素です、単体では意味をなしません。
因果関係は人が事象に因果性を感じて結びつけること、二つ以上から成立します。
因果律は事象のすべてに因果関係があるように見えることです。
少し話を戻します、人がやり取りする比喩、言葉とその概念について。
先取概念が前提の既存概念(比較対象)がないとわからないのは、因果関係がないからです。受け手にとって因果性を感じない先取概念は知覚(比較)できないのです。
一定以上の因果性を感じて結びつけると人はこれを論理と言います。そしてこの一定以上というのが厄介です、なぜならこの概念同士の間合いが、人間それぞれで同一であるとも異なるとも私たちは証明できません(しかし宗教や科学が一定以上の意義を人間に持つことは、私たちが同じ間合いを共有していることを暗示しているかもしれません)
私たちは自分の持つ論理を普遍的だという認識を(少なくとも私は)もちますが、論理とは元々個々人の持つかなり相対的なものです。
例えば私と物体が静止していることについて考えます。実は万物が絶対に静止していることなど(瞬間を切り取って表現していない限りは)ありえません、目の前の物体と私は地球の自転にならっています。なのに私は静止していると思う。それは地球と私と物体を同時に比較できないからです。
私と物体か、私と地球か、が比較の限界です。私がこの三つを同時に比較できないのは因果性がないと、判断するためです。実際にはすべて動いていると考えればいいわけですが、人の感じる因果性の脆弱さが伝わりましたか。
上記のことを考えると人間が比率操作をする意義は、相手に比喩を比較対象として明示するためだと言えます。言い換えれば存在の可能性を提示しているのです。因果性とはこの可能性を知覚した段階で発生します。こうなると因果関係は独立した事象に、無理に楔を打ち込んでいるだけだと思いませんか。
確からしいこと同士を確かな関係があると決めて結びつける、それが比較という活動の中身です。
私たちは比較しなければ因果性を感じませんが、因果性のないものをそもそも知覚(比較)しません。これが因果律です。
わかりやすくするためまた話を戻します、意思疎通についてです。
比喩すべき概念を分割(相手の先取概念及び既存概念と比較)して抽象:具体で相手に譲歩できる部分まで概念を具体化させて、比較対象を明示し続けることで類似した概念を形成するまで先取概念のための既存概念(先取概念)を知覚(比較)させ続けるのです。それがあるところで包括(抽象化)され、相手はその概念を比喩することが容易になります。
これが本来の学習と呼ばれるべきものです。記憶術や暗記ではありません、人の概念の一律化は理想ですが、不可能です。
補足ですが包括(抽象化)とは総合的な概念に因果性を見出し、統合した強固な因果関係のことを指します。
比較あっての因果律、比較なくして因果律なしです。そしてこの主張が論理的かどうかは既に私の手に委ねられていないということです。私がただ一つ言えるのは人は常に比較している(二つ以上からしか知覚しない)ということだけです。
このように考えてもいいでしょう。自然(法則)は調律しても比較はしないのです。人間だけがその法則性を信じているのかもしれません。
私は言葉が比喩であることをしきりに主張しましたが、言葉は概念から、概念は知覚から、知覚は因果からだと言いました。そして最終的に因果は実在しないかもしれないが、人間同士はその実在を信じると言ったのです。
すべての人間が信じているなら実在しているのと一緒だと考えるのは根本的な誤りです。実在しないから、人間は意思疎通ができたり、できないのです。
そして因果律は因果性という微かな結びつきから成り立つと考えています。
人にとって因果性は極論、量子です。量子は確率で振舞います。人も確率で論理の綱渡りをしているのです、相手にも自分にも。
場合によって多くの哲学者はこの確率をもっと詰めるかもしれません。あるいは因果律の先を語るかもしれません。
しかし、私が現時点でそのようなことをすると比喩がまずあげられない、論理破綻するからです。そして最悪自覚したトートロジーを招くでしょう。
比較比喩にあれだけ意味を持たせ抽象化(具体化)できるのも、私の中でそれらの概念が先行しているからです。
ついに私は世界が人間ごとに内在することを客観的に証明はしませんでしたが、しかし私は人間の活動において比較(知覚と因果)は切り離せないことを自分に反論できませんでした。その誤りだと思えるものを誤りだと指摘してくださる方を自分でも模索しながら待っています。
以降は世界が人間ごとに内在していることを前提に、ならば人はどのように振舞うべきか。その確たる根拠をここに打ち立てたと考えて論理的に倫理の内容を扱います。
つまり内在していることを信じていなければ、まったく意味のない話です。ここにきて私の思想に懐疑のある方には無意味です。信じる方のみ、有意義な内容となるかもしれません。
このように私のいう世界が人間ごとに内在するとはけして、自分以外のすべてを疑うという意味ではありません。私の世界は私を含め人間の存在(魂)があり、人間同士の相互作用によって成り立つと主張しているのです。つまり私以外の誰かを知覚(比較)しなければ、それは私(という人間)が存在しないのと同義です。
私にとって自己完結とは世界の完全性を証明しません、自己完結は世界の終焉を意味します。
客観的な世界は絶対ではないが、自分も絶対ではないということです。