比較比喩(概念)
いはく「概念として4」ですが、主体は「比較比喩2」です。
私は知覚によって概念を形成すると言いましたが、そもそも概念は単独では成り立たたないんです。他の事象と何らか差があるから、知覚できるんです。つまり比較しなければ、そもそも知覚しないのです。
これはその概念、その概念以外といった単純な対比関係ではありません。むしろその対比関係を知覚した時点で概念として形成せざるを得ないと言う話です。
例(図)はなぜ必要になるのでしょう。それは相手に比較対象を明示するためです。そもそも比較する対象を知らなければ、独立して認知できないということです。
そして概念も比較によって形成されます。暑いという概念はそもそも寒く(あるいは常温が)なければ成り立ちません。では丁度いい温度という概念は、暑いや寒いという概念がなければ成立しないのです。そしてこの温度という概念は、暑いか寒いか丁度いいなどと表現される他ありませんが、温度それ自体も、気温なのか水なのか食べ物なのか(この場合は熱い、冷たい)それらを統一した概念です。そして概念がもはや言葉ではなく、知覚によって形成する他ない部分まで内包するのです。
けれどそもそも温度に熱さや寒さが同時に存在していなければ、我々は温度そのものを知覚できるのでしょうか。
ちなみに私は暑い寒いのような比較の仕方を並列関係(逆前後関係)と呼んでいます。
温度から派生する水温と気温のような比較の仕方は前後関係と呼んでいます。
これについては因果律の話で詳しく述べます。
ここまでの私の比喩で類似した概念をあなたが形成していると信じて、勝手に話を変えます。
比較とはつまるところ比率を操作すること。
比喩とはその比率を変えないことです。
つまり比喩は比較を前提としているのです。
そして比率を操作する以前に比率を決めるということは割ること。つまり、先取概念のために既存概念を割るのです。割って要るものとそうでないものを使いわけ、相手の先取概念を当てはめようとします。
すると、
まず先取概念を比較し、自分の既存概念だった比喩が相手の先取概念では同じ比率で操作されていることに気づきます。
それから割った既存概念同士を比較(比率を操作)して、複数の場合は相手の先取概念を含んでその比率をおよそ均等にすれば、相手と似たような概念が作られます。実際こんな簡単な話じゃないですけどね、そもそも概念を割るというのが…………認識できる人間がいない(しかし後述しますが不自然ではありません)
なので私は言葉は複数の概念と相対的であると言いました。
この形成過程を前提として、概念が言語化されない私なりの考えを発展させます。
概念はなぜ言葉にならないのか。人は概念に限らず単独で考えられないからです、人間は必ず比較対象が必要になります。
概念を言い表そうとするとどうしても比較すべき事象への方向性を持った言葉となり、方向性を持つということはその概念の中で比喩しようとする言葉と対称な関係のものが分割されるということです。そして分割されたものは言い表されないままです。
分割された言い表されない概念をまた全て言って、列挙すれば概念そのものになると言いたい所ですが、言い表されない概念を言おうとすることは比喩の仕方を変えることであり、比喩の仕方を変えることはその都度言葉と対称となるものを組み替え、分割し直すことになります。つまりパズルのピースのようにはいかないということです。
例えばこの概念は鳥であり鳩であり鶏でありひよこでありと言いますが、鳥であり鳩でありといった時点でそれは何なんだとなります。比喩によって言い表されない対称の分割のされ方も変わり、ピースの大きさがどうあがいても変わります。
乱暴ですが、鳥であり鳩であること、鶏でありひよこであることを認識できないのです。
この考え方を変えれば概念の比率を間違えていると、鳥、鳩、鶏、ひよことなるわけで、
割る比率が近ければ鳩、鶏、鴉となります。この比率を維持すればいいとなりますが、ペンギンは?
いやそれ以前に鳩や鴉も厳密には異なる比率です。同じ比率(比喩の仕方を変えない)というのはそもそも鳩と鴉について同じ認識を持たなければなりません。鳩のつもりで鴉というのです、それをペンギンにまで適用し、すべての鳥と呼ばれる概念を列挙し、相手にそのように認識させれば概念は言葉になったと言えるでしょう。
これってでも不可能ですよね、だって概念がなければ言葉にできないのに、これでは言葉が概念に先行しています。それはトートロジーなんです(この場合鳥という概念ではなく、鳩の概念との同義反復が起きています)。
だからもはやその概念について知らない状態でなければ概念を言葉にできません。つまり概念は言葉にできないんです。
これでは本末転倒です、だって目的は概念を言葉にする(伝える)ことなのに。
結果として概念は言葉にできない、自分しか知り得ないというわけです。
ところで話を振り返って、前述の論理の埋め合わせをはかります。
それから割った既存概念同士を比較(比率を操作)して、複数の場合は相手の先取概念を含んでその比率をおよそ均等にすれば、相手と似たような概念が作られます。実際こんな簡単な話じゃないですけどね、そもそも概念を割るというのが…………認識できる人間がいない(しかし後述しますが不自然ではありません)
先ほどこれだけ不自然に思えるのに不自然でないと言ったのは、比率を均等にする(比喩の仕方を近づける)というのを、ここまでの流れを前提にするからです。
定義するわけです。鳥であり、鳩でないもの、それが鴉。さらにこれに付け加えます、鳥であり、鳩でない、そして鴉でもない、それが鶏(鳥であり、飛べないものと比喩の仕方を変えてもいい、その場合は鶏でないものと付け加えて、ダチョウとすることもできる)。
このように人間は比較します。突拍子も無いことを言っているように思うかもしれませんが、人間が既存概念の比較でしか物事を分別できないのは歴史的な事実です。
大人になるとそんなことはないと思うかもしれませんが、子供の場合はほとんどこのパターンです。私も含めて多くの人がこのように概念を形成しているように思えないのは飛べない鳥という比率操作をすでに持ち合わせているからです。癪な言い方ですが、既存概念(比較対象)が豊富な大人は概念の割り方がうまいんです。
人はこのシンプルな例(動植物の識別)に限らず、複雑な概念であってもこれを適用するのです。同じ比喩(言葉)を引き合いに、先取概念と既存概念の比較をして、さらにその組み合わせをいくつか揃えその比率をなるべく均等にします。
比率を近づけると比喩の仕方が近づき、定義しやすくなります(先取概念と類似した概念を形成しやすくなります)このことについて具体例をだします。
「それ(コップ)とって」と言って、「これ?(相手の嗜好や状況を自分のそれらと比較する)」「違う、小さい方(比較して比喩の比率を変えた)」「中身あるけど?(比較して比喩の比率を変えた)」「それでいいって、継ぎ足すから(比較して比喩の仕方――比率――を変えた)」「なら最初からそう言ってよ(比較しやすいよう比喩の比率を変えて)」
鳥や云々の話も全部これと一緒ですよね、定義しやすいように条件を列挙しているだけです。
「あの子可愛いよね」「え、どれどれ」
「流行りの服が欲しいよね」「例えば?」
「おれ最近調子いいんだ」「なんでそう思うの」
これ以上は(この時点で)生々しいくらい私の文才がないことを披露したのでやめときましょう……。
全部比喩の比較(比率操作)をしているのです。言い換えれば先取概念(の比喩)と既存概念(の比喩)の比較です。
ゆえに言葉は概念の比喩で在り続けるのでしょう、比較する対象は比喩として必然です。
勝手にまとめます①比較(知覚概念形成)して②比喩(既存概念同士の比率から)して③比較(先取概念と既存概念)して④比喩(比率をはかるため)⑤繰り返し⑥比較(同じ先取概念と既存概念の異なる比喩の組み合わせの)⑦比喩(均等な比率で得たもの)して⑧比較(定義して概念と)する。
わかりやすくしますが①は温度(暑い、寒い)を知覚②暑いか寒いか感覚(比率)を形成した上で言葉にします(言葉にしてその概念がわかります)③さらにぬるいという概念と比率をはかり④言葉の応酬で確かめます⑤暑い、寒いの感覚をすり合わせ⑥水温や気温と言った具体例から暑さと寒さの比率にぬるいを加えやすくなり⑦言葉にして知覚します⑧そしてその比率をぬるいとする。
ゆえに概念はあらゆる場合において、比較によって形成されるのです。
例えば盲目の人ならば、色の概念を知覚できないのは黒さを知らないからなのでしょうか。それともすべて黒い(一色)からなのか。黒い(何か差がある)ということをその人が知覚していると思いますか。
(しかし、これはそもそも私とは違った知覚のされ方で色という概念を形成していても不思議ではないんです。それを私や相手が色という比喩と結び付けないだけで、つまり言葉にできないことは知っていてもわかりません)
ところで私は比較のあるなしで知覚のあるなしについて論じています。そして人間同士の感覚についてはこのように主張しています。例えすべての人にとって同じ知覚のされ方をしたとしても、その比較から形成される概念の比率は個人に託されるのです。この比率というのが感覚だということになります(暑いか寒いか、住む地域によって異なりますよね。そして自分自身であっても環境に適応するためすぐその比率を変えます)。
つまり人の知覚と感覚は異なるのです。それは世界が人間ごとに内在していると、私が一貫して主張していることと結びつくわけです。ならばどうして多くの人間にとって世界は一律であると思えるのでしょうか。信じ方の違い、ただそれだけでしょうか。それとも知覚(比較)していないのではないですか、自分と(は)誰かを。
私自身、これらのことについて考察を深めるべき可能性は大いにあります。全体としてうまく論理展開をしているとは言い難いものです(特に比較を前提とすることについて、しかし比較を前提とすることについてここで論じても恐らくすでに類似概念を形成している人にしか理解できません。それは不親切だと思うので前提がかくも多いのです。であれば私が概念や比較を前回の論理展開に組み込んでいれば、果たして私の思想は伝わるのでしょうか)。
そもそも私の文の書き方というのは、まず自分の言い表したい概念について大量の比喩を並べ立てて、比喩の順番を操作し、繋ぎを作るような滅茶苦茶な書き方をしています(言い回しを変えれば、種を蒔き樹に育てるといった具合ですか)。しかし、その肝心の比喩が少ないことは私の考察が甘かったことを如実に表すのです(あらかじめ自分の理解が甘いことがわかると言うべきでしょうか)。
だからと言って私は比較の必然性や、概念の言語化が不可能なことについて、自分が正当な主張をしていないとは考えていません。このことについていかなる反論があるか、心待ちにしています。
小話を一つ。
私は文の書き方を最後に言いましたが、そもそもみなさんが私の論理展開にストーリー性(因果関係、確かな論理)を感じるのはなぜでしょう。
それは私が読み手の既存概念(先取概念)を想定して知覚し、比喩の比較をしているのです。比率を誤れば論理破綻していると言われますが、世にある理論は例に漏れずこの危なっかしい綱渡りをしているのです(少なくとも私はそう考えています)。
この小話は最終的に一般相対性理論と量子力学の関係と比較させますが、私やあなたという人間はこの二つと大差ありません。
そして一般相対性理論や量子力学と比喩すること自体、私は比率を操作し続けているのです。
それはまたいずれ、私の思想が今の段階では無意味な話になってしまいます。
私的哲学を伝えることが困難なのは、そもそも困難な理由を説明することが困難だからです。なのですでにわかっている人にしか、わからないという矛盾が起きています。
私は少しでもその矛盾を解消するため、このようなものを書いています。
だからあなたが哲学に興味を抱き、面白いと思っていただけるだけで私の目的は達成されているのです。