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私的哲学  作者: 比真名比人
論理考察
4/11

比較比喩(言葉)




 今回は言葉に表す上で(あるいはそれ以前、概念が形成される過程で)人間はなぜ比較を必然的に行うか、そして概念それ自体が言語化されないことについてそれらを中心に私の考え方を書いていきます。つまり実質「概念として3」ですね。ただ主体は概念でなく、その知覚する術(と私が考えるもの)比較と比喩です。


 前回までの流れを引き継いで言葉と言う切り口から、比較する活動が人に必然であることの考えを述べていきます。

 まず潜在的なことですが、言葉として表そうとする前に人は対象(この時点では概念)についてはもちろんですが、その対象以外について知っていなければなりません。

 例えばコップにしても、誰かのコップ(自分のコップ)、お気に入りのコップ(滅多に使わないコップ)、あるいはコップを置いている場所なら机(置いてあるコップ)、容器が並んでいる場合は皿(とコップ)、マグカップやティーカップなど。

 相手にコップを取って欲しい、と言う意味合いで「コップ」と言葉に表すまでこれらのような対象のうち、少なくとも一つは潜在的に知覚し、その裏付けがあって言葉を選別するのです。何かの要素無くしてはコップという言葉(比喩)は成立しないのです。このことは相手にコップを取って欲しい、という意味合いに限りません。さらにそれらのことについて相手が知っていると思うから、間違いを生むのです。


 人はこの関係を直感的に理解すると、相手にまず自分が潜在的に知覚していることを伝えようとします(それ以前に自分が知っていることに自覚しようとします)。

 これを例えば相手の手元に誰かの飲みかけと空のコップがあり、私が空のコップに新しく注ごうと思えば飲料を持ってるでしょう。そこで次のような頼み方をします。


「空のコップ」といえば相手に飲みかけのコップと比較させるでしょう。

「コップ」といえば相手に自分の持つ飲料を比較させるため、意図的な見せ方をするでしょう。


 そもそもこの例そのもので私の人間性について疑いを抱かれるかもしれませんが……。適当だと思えるものが中々閃きませんでした。

 それはそれとして上の例はまだ極端な比較です。実際、これよりごく僅かな差異を用いて相手に比較させることもあるでしょう。それが限度を知らないと相手の気を悪くします。


 話を戻しますが、私がただ「コップ」と言ってしまえば相手は恐らく飲みかけのコップを渡してくるでしょう。相手としては既に誰かが必要とするコップには飲み物が入っているだろうと、空のコップや私という人間、自分ならばという仮定などと比較を終えているからです(誰の飲みかけかがわかり比較している場合は別です)。

 このようなことを言いだせば際限がないのですが、比較は最終的に自覚困難な域まで遡る可能性があるのです(この比較の総体を経験と言い換えてもいいですが)。


 ひとまず話をややこしくする前に、本題に立ち返りますが「ある」前に「ない」ということを知らなければならないということです。しかしこれは「対比」ではありません、複数の要素の「比較」なのです。

 逆に「ない」前には複数の「ある」要素と比較し、少なくとも自分としては排除し切らなければなりません。


 別の形で比較について捉えようとすると人が、例を挙げる時です。以下の意味はABCの記号に簡略化します。

 Aは相手が既に知っていると想定する知識(私は言葉にしない、あるいはできない)

 Bは相互に知っている(私が言葉にする、できる)=前提知識、先取概念かつ既存概念。

 Cは私が伝えたい、なおかつ言葉に比喩できるが相手に前提を要する(相手の知識だけでなく、互いの知識でこの前提の回数が増減する)


 相手はA⇄B、B⇄Cの比較をすることでCの概念を知覚できます。ただこれは正しくはなく、厳密には私から相手に対してB:C≒B':Dとなっています。

 Dとは私の伝えたかったことを相手が形成した概念になります。自分と他人の概念がまったく同一な可能性は限りなく低いです(訳は後述)。


 そして具体例は大抵一つのみで正しく伝わることはありません(相手に類似した概念がなければそれはトートロジーであると前回述べました、あれば別ですが)


 仮に私がここでE(=B)の具体例を提示すれば、相手はA:B=A:E、さらに私はB=Eだと言っているのです。そこから先取概念と類似したものを見出します。

 

 上記のように具体例を使う時は間合いをはかっているわけです。


 さらに端的に表せば、人は線(言葉)は引けても点(概念)は打てない、その線の交わりによって交信する。この考え方については私はどのようにも言い換えることができます(そもそも私が勝手に考えたことなので、当たり前といえば当たり前ですね……)。


 概念への比喩の結びつきが多く、比較対象が豊富なほどその概念を精確に短い文で表すことが困難になるでしょう(そしてそれは概念自体を表すことはありません)。洞察力の優れた多くの偉人は、自らの概念を精度の高い比喩にすることで世に残しています。しかしこれは極めて抽象化されており、解釈は容易ではありません(残念ながら私は知識不足でその多くを誤解していると考えており、引用など滅多なことではできません)。


 これを先ほどのような記号に変えれば、私にとってB=C、C=E、E=Bなのです。つまり言葉(比喩の仕方)を変えても、概念に内包されるのです。


 ゆえにある意味で、具体化とは比較化であり、抽象化とは比喩化です。


 私が初期の頃、このような構想をなんと表したかといえば、


 抽象性の具体化、具体性の抽象化それが言葉。


 ……悲しいほど痛い奴です、その意味もほとんど理解できずこのようなことを言っていたかと思うと寂しくなります(きっと今も大差ないでしょう)


 さて話を切り替えます。そもそも言葉を対象としていては、比較の必然性について語ることに多くの無駄な時間を費やすでしょう。もう少し感覚的な話に切り替えます。つまり概念の形成過程について、または概念が言葉にならないことについて、私としては比較の主張は密接に結びついています。


 長くなったので一度分け、内容も転換させます。その後(ほとんどの人はしないと思いますが)もう一度ここを読むと私が全く同じ概念について比喩していることが伝わると思います。




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