概念として2
今回はかなり抽象的な話に発展させます。言葉が比喩であることを前提としているからです。つまり私はここに書いてあることはすべて比喩であることを前提として書いているということです。
恒例になりつつありますが、結論から。
言葉は自分の中にある複数の概念と相対的なのです。
言葉が比喩であるなら、そもそも何と比べて比喩と呼ぶのか。それは人間の認識できないもの、つまり概念です。
というわけで言葉は概念の先取りであったり、あるいは概念から発生するものであったりします。
概念の先取りについてはまだ具体例を挙げてない上に、ほとんど造語みたいなものですから以降詳しく述べます。
ただその前に概念の意味を確認しておかなければなりません。大好きなWikipediaから引用したいのですが、少し噛み砕きます(つまり私的見解)。
概念とは……
①全体の事象(世界のことです)を個別の事象(他人や自分、人と犬)ごとに分解し、個別の事象ごとの共通性を普遍化して捉えたもの。
②見たまんまの世界を言葉でわけて、脳内でもっかい合体させるってことです。
①と②の中間くらいの説明が多くの人にとって、丁度良いかもしれませんね。
世界を言葉で分ければ、他人や自分、人や犬がありますが例えば他人や自分は人という概念に収まり、犬や猫があれば動物という概念に収まり、人と動物は生物になるわけです。反対に人は男と女と言う概念に分けたり、男は大人と子供に分かれ、大人と子供にはそれぞれ女も含まれているということです。
何となく理解いただけたと思います。
恐らく、言葉で世界を分けなければ人間は事象を個別に認識できないのかと言いたいでしょうが、その通りです。
本題に立ち返りますが言葉は比喩なんです。
例えば箱があります(箱があれば箱以外の空間もありますが)、箱には面がありますが、角もあります。面には正面もあれば裏面もあります、あるいは側面もあります。側面があるということは正面と裏面があるということです。そしてこれは外側の話なので、外側があれば内側もあります。内側があるということは底があって隅があります。
何、言葉遊びしてるんだよとツッコミたいでしょうが、よく考えてみてください。
言葉とは単独で機能しますか、歩くということは同時に走るということです。
ややこしいので以降は名詞に限定した話題にしときますが、言葉の全体に関わる問題だと思ってください。
縦があるということは横があるということです。そもそも「ある」ということは「ない」ということがあるということです。
実は言葉は常に比較(対比ではありません)してるんです。
比較についての話はいずれ、ひとまずここで言及するのはやめておきます。いつも通りですが。
脱線しましたが、人は知っていたとしても言葉にしなければ自分が知っているとわからないんです。言い換えれば、人は概念を知覚できますが(正確には知覚によって形成)、認識はできません。言葉として比喩することで概念を知覚できるのです。そしてその状態を人間は「わかった」と言います。
ゆえに言葉は概念の比喩なんです。
なので原始的な手順を述べます。全体の事象に対し人間は感覚器官によって個別の事象を知覚し、概念を形成します。形成した概念を個別の事象に還元して言葉として比喩します。比喩することで認識します、同時に知覚します。以降は感覚器官に限らず言葉を用いて多様な概念を形成します。
概念は知覚することで形成されますが、複数の事象を(比較して)知覚することを前提とします。複数の事象を知覚するためには感覚器官もそうですが、複数の言葉も必要になります。言葉は比喩ですが、一つの概念に限った比喩ではありません。同じ言葉でも複数の異なる概念の比喩であることの方が多いです。人はこの差異をニュアンスと呼びます。
ちなみに同じ概念に複数の異なる言葉が比喩として機能することは言わずと知れたことでしょうか。チワワとダックスフンドは犬という概念の比喩ですね、犬というのもこの概念の比喩ですが。
身近な例は友人と話をしていて対象のギャップがあった時です、彼の話に出る対象(言葉=比喩)を知っていましたが、別の概念の比喩(対象)として認識していたのです(もちろん彼は知る由もありませんけどね)
結論として概念は言葉によって形成されますが、同時に言葉は概念の比喩、つまり概念によって形成されるのです。ようは概念は概念が比喩されることによってまったく新しく形成されるのです。
これを説明しようとするとややこしくなります、そこで概念の先取りという造語の出番です。
まず自分の中で言葉が概念に先行することはありません(これは先ほど述べた通りです)。概念が誕生してなければ、言葉は他の概念と結びついた言葉に覆い被せるだけで、他律的な運用しかできないからです。(語彙力がないとは、言葉を知らないことではありません、言葉がどれだけ違うのかを知らないのです)
よく言えば本人にとって別の言葉であるはずなのに言葉のニュアンスが違わないのです(本質的にはそれどころではないですが)。
明確な例えをします。
兄弟とbrotherについて、これはそもそも概念の違う言葉同士を、同じ概念に結びつけて言葉で言葉を覆って使う代表例です。
まず兄弟と比喩された概念にbrotherという言葉を結びつけます、多くの人はこれでbrotherの概念を知っていると感じます。
しかしこれは実際、兄弟という比喩にbrotherという言葉を被せただけなのです。言い換えれば、比喩の仕方を変えていないのです。
やがてbrotherでは兄と弟の区別がつかないこと、あるいは兄弟という概念には兄妹も含まれていると知ってそれらの知識(言葉)を比較し、brotherのための概念が形成されていきます。この段階で初めて比喩の仕方が変わり、言葉が被らなくなります。これが概念の確立になります。
同じ概念に違った言葉同士を結びつけ、比喩の仕方を変えないことを、以降トートロジーと呼びます。
例は日本語と英語なので極端ですが、仮に同じ言語同士の場合、実際の比喩された言葉同士の差は人間にとって驚くほどないものなのです。
トートロジーはなぜ、起こるのか。多くの場合言葉を比喩と受け止めず、言葉のまま受け止めようとしてそれは人間には不可能なので、誤った概念に結びつけざるを得ないからです。しかしこれは必然なのです。
なぜなら前もって相手(送り手)と同じ概念を形成し、そこに比喩された言葉が結びつくことを知らない限り、自分(受け手)には比喩された言葉がどの概念に結びついているのか見当もつかないからです。
なのでひとまず自分の形成していた別の概念に相手の比喩を結びつけるのです。開始時こそトートロジーですが、次第に概念の相違を知覚して比喩の結びつける概念を切り替えることで事象に対してほとんど一致した見解を得られるのです。
ただ比喩された言葉に対する概念の結びつきが多いか、もしくは相手と類似の概念を形成しそのことを強く感じ取っていればこの限りではなく、開始時のトートロジーをうまく回避できます。
ではようやく概念の先取りについてです(遅い)。
概念の先取りとは要するに、送り手が受け手に言葉の比喩する概念が伝わることを前提で言葉を提示するので、受け手は比喩する言葉の異なる概念の結びつきと比較しながら、あたかも自分がこれから知覚する概念が相手の言葉に先取りされているかのように思える(あるいは相手がそのように考える)一連の流れのことです。
我ながら意味わかりませんね。
つまり送り手にとって言葉は概念を先取りしているように思えますが、受け手にとって言葉が概念に先行することはないのです。受け手は送り手の先取りする概念をその比喩する言葉の種類を通して知覚すること(多角的分析といいますか)でまるで言葉が概念を形作ったかのような錯覚に陥ります。しかし実際のところ微々たるものですが先取りした概念を知覚し、ある程度自分の中で概念を形成することで、それまで送り手の意図するところと違う概念の比喩であった言葉が、新たな概念と結びつき、受け手の中で知識を確立するのです。知識を確立することで初めて概念を言葉に比喩することが可能になるのです。
つまり概念を形成する上で、人間は先取りされた概念の比喩である複数の言葉同士を比較し、認識できないはずの相手の先取りした概念を読み取り、同一の言葉が元来結びついていた概念との結びつきを緩和させることで、自分の中での言葉と概念のトートロジーなやりとりを脱却できるのです。つまり比べることは人間の本質的な活動なのです。
さらに付け加えると、先取りされた概念が比喩した言葉は、すでに自分の中で形成された概念と結びついており、先取りされた概念の比喩を既存概念(形成されていた概念)を用いて比較し、さらに同じ先取概念(先取りされた概念)の比喩として異なる言葉がまた別の既存概念と比較されることで、徐々に先取概念を知覚し、類似した概念を確立できるのです。
先取りされた概念をそのまま知覚できるとは考えないでください。
これらの説明を前提にした上で簡潔に記せば、言葉つまり記号(比喩)はそれ自体に属性はないということです(属性とはこの場合先取りされた概念)。
送り手と受け手がいなければ言葉は属性がないのです。(先取概念と既存概念がなければ、言葉はいかなる意味も持たない)。
ところで既存概念とは先取概念にとって前提とされる知識なのです。これがあまりにも欠けていると先取概念を知覚できず、比喩された言葉を他の言葉を被せた既存概念とのトートロジーなやり取りにしてしまいます。
覚えはないでしょうか、自分の理解できないことを無理矢理、理解しようとするあまり、仮の概念を打ち立てて、それらが比喩された言葉に必要以上の意味を持たせ、紆余曲折を得て、ある時ふと単純な結論に落ち着き、よりシンプルに組み替えるというものです。試験前にまとめノートを作るような感覚ですかね。
単純な結論に落ち着いたように思えるのは、すでに自分が先取概念を知覚するために、多くの既存概念を持っていたからです。この場合は試験までの期間で、理解し難いことに仮の概念を打ち立てた、その内のいくつかが結果として先取概念の糧となり発展したというわけです。
この仮の概念とは、知識として不完全な状態です。概念と付けるとややこしいので先取概念をまったく知覚できず、言葉を言葉のまま受け止めている状態としましょう。
わかりやすくすれば、足し算ができないで掛け算ができるようになった状態です。あり得ませんよね。
つまり掛け算ができるようになったのは実は見せかけで、他人の解釈を丸パクリすることで(あるいは本人はそのことに気づいてないかもしれません)、掛け算の仕組みを誤解したのです。俗に暗記と言ってもいいですが。
結局、私達は先んじて知っていることしか知り得ないということです。
それはつまり階段飛びに物事を理解できないということと同義です。
なぜ子供は辞書にある言葉の説明を読めるのに、本質を誤るのでしょう。
それは概念は形成しているが比喩される言葉を繋げられない、あるいは子供が形成している既存概念(比較対象)があまりに少ないからです。既存概念が少なければ、先取概念(辞書の作り手の先取り)は知覚できません。最悪の場合、既存概念に対する言語比喩のトートロジーなやり取りを重複させるだけです。
大人になるにつれて、前提となる知識を連鎖的に会得することが容易になっていきます。それは前提となる概念を逆算することを、自分の経験で会得してきた他の概念が可能にしているのです、それらと比較し、高度な言葉の比喩をやり取りすることで、目的となる先取概念までの道筋を示せるからです。つまり一芸は道に通ずる、ということです。
先取概念と既存概念を言葉による比喩を通じて適切に組み合わせることで、より高度な先取概念を素早く理解することができます。この仕組みを上手く機能させる人は知っているつもりの概念が、実は別の概念と言葉のトートロジーなやりとりであったということを防げるというわけです。
ゆえに言葉は、概念の比喩であり、比喩であるからこそ正しくないのです。人によって言葉の意味が厳密に違ったりする理由はこういうことです。
先ほどの例に若干付け加えます。
友人と話をしていて対象のギャップがあった時です、彼の話に出る対象(言葉=比喩=概念)を知っていましたが、別の概念の比喩として認識していたのです(もちろん彼は知る由もありませんけどね)
そこで友人に具体例(先取概念)を出され、それを受けて私は言葉の比喩するところ(既存概念)を相手に合わせるよう新しい概念と結びつけます。
なぜ言葉は概念の比喩で在り続けるのでしょう、またはなぜ言葉は概念の一部しか表せないのでしょうか。概念は言語化できないのでしょうか、これについての言及は今は避けます。いずれ見解を述べようと思います。
世界(つまり事象)は言葉によって区別しますが、そもそも言葉が自分の中にしかない概念の比喩であるなら、世界とはつまるところなんなのでしょう。
人間は知覚した事象を概念に変換し、言葉に例えますね。つまり人は自分とそれ以外(世界)という一つの概念から知覚を通して概念を増やし、さらに概念の比喩を言語化することで感覚器官だけでは把握できない多様な概念を生み出します。
ヒトという種(魂)が生み出す概念は限りなく似ているでしょうが、同一ではありません。その可能性についてすでに私達は知っているはずです。
もっと本質的なことを考えましょう。
世界にとって人間は一律ではないのでしょうか。
それとも人間にとって世界は一律ではないのでしょうか。
私のこれまでの記号の羅列はすべてこのことを伝えるためにありました。そしてこれからもそうあり続けるでしょう。どれだけの意味を持つかは、あなた自身にかかっています。
ここまでの比喩で私が言いたいことは、世界は人間ごとに内在するものだということです。
つまりここまでの過程はすべてあなたの既存概念と私の先取概念がやり取りするためにありました。言葉の比喩によってある事実を知覚してもらうために。
言葉が主題でしたが、結局世界が人間ごとに内在するものだというのが本質的なことなのです。
この内在するものだと確信するまでの過程が哲学にとって、極めて必然的な意義を持ち、他人の妄想から会得した知識が確立され、自分の中で存在感を増す要素として不可欠でしょう。
さらにこのことが素朴実在論(興味のある人はWikipediaで)を脱し、哲学のスタート地点に立つ最初のきっかけになると私は考えています。
私の哲学に対する切り口で納得いただければ幸いですが、もちろん反論も心待ちしています。まあ残念ながらエポケーになるでしょうが。そこまで論証する教養はありませんので。
哲学に興味を持っていただけましたか?