数って
表題の通り、私的な哲学についてわずかばかり溜まった思考及び思想を吐き出そうと思います。
このような言葉の綴り方をするとまるでブログ(やったことはないですけどね)のようだと、それが今の率直な気持ちです。
さて私的哲学と名付けたのは、この哲学が私の主観に基づいた知識(記号)で構成され、なおかつ哲学書なんか一つとしてまともに読んでない(倫理学を講義でかじった程度、あとWikipediaと立ち読みの独学)。ただ考える(妄想)ことだけで推し進めてきた恐ろしい産物だからで。
ようはアマチュア哲学になるんでしょうか。iPhoneのメモアプリにちまちま保存してるだけでは寂しくなってきたのでそろそろ投稿してみるかといった次第です。
まあ何回かしょうもない短編は投稿してるんですけどね(消しました)
いい加減思考の整理がついてきたので連載形式でぼちぼちエッセイというよりエセーを書こうと思います。
前置きはこのぐらいで、早速「数」について。
科学的根拠として数値(統計とも言いますか)は重要なものですが、相対性理論やら量子力学なんかの物理学はもちろん、数学あるいは幾何学とかも全部数という概念を前提にしています。
では数それ自体は人間の認識でどのような意義を持つかというと、比喩であったりします。
まずは簡潔に1は何かがあることは示しても、何かそれ自体を表現はしないですよね。なので究極的に数は比喩と呼べます。
では次に数自体が持つ情報として何が挙げられるかというと、それは何かが在るということ、ずばり存在です。
ただし存在そのものを指しているわけではなく、数は特定の間を意味します。
イメージとしてはセンチだったり、秒だったり、あるいは音の高低だとか。
そんなわけで数は人間にとって、1があるとはならず、1の間だけ何かがあるのだ、と理解させます。
もう少し現実的にすれば、人間が1を個数ではなく間(空間に占める割合)で把握するとは、例えば林檎が一つありまして、林檎は半分に切ると物理的に二つに割れます、しかしこれを通常林檎が二個あるとは言いません(半分の林檎が二個あるという)。この状態であっても私達は林檎を一つとして認識します。
というのはそもそもこの場合は林檎が空間に置いて占める割合つまり間を1と例えたからです。ただ言及しておくと概念において数に例えられた間はアバウトです。(物差しのようにかっちりしてません、林檎は一つ一つ形も色も違いますよね)
結論としてはこの間を指定(数に例えること)することで人間は比率を操作して、様々な比較を行い、物事を判別する基盤とします。
さらに数を使えば、存在しないものを概念に内包できる。なぜなら数とは間そのものであって、必ずしも存在そのものは示さなくてもいいんです。
要するに数は人間が知覚する(存在を認識できる)ものだけでなく、知覚できなくともその間だけ存在すると仮定することを容易にしたのです。
このことから数は人間が知覚できない存在の概念化に貢献したと言えますね。
というわけで数は比喩であり、個数ではなく、間であることを示しているということで。
それでこんなどうでもいいことが、役に立つのかと言われると、役立つかどうかは人それぞれですよね。
数が個ではなく、間を意味すると考えるなら数式は比率の整合性を保つツールだと思えるようになります。
数学を頭っから存在するものとして教えられても、実際多くの人がその存在を知覚できません。それは数を個(比喩的でない存在)として捉えたままだからです。間と考えれば、多くの記号は比率を表し、万物を比較するためにあるのだと知り、存在意義に疑念を抱く余地がなくなるでしょう。
というわけで今回はこの辺で私的哲学終わらせておきます。
次回は……また暇な時に書きます。