【4】
思い出したことがある。
鹿島勇大。
それがあの男の名前だ。
確か、あれはオレがまだ中二の時だ。金がなくて困っていたときに、オレは通りすがった男をひっ捕まえて、脅して金を奪ったことがある。でも、そいつは奪われたことに黙っていなくて襲い掛かってきたから、オレはそいつを返り討ちにし川へと突き落とした。そして、オレは傍にいた女を、危ない趣味を持った男に売ったんだった。
そのおかげでオレは一か月くらい何もせずに遊べた。そのことを覚えている。
覚えていて――激しく後悔すると同時に、ひどく恐怖を駆り立てられた。勇大は今でもそのことを根に持っている。まぁ、それだけの仕打ちをされれば誰だって根に持つし、憎悪だって抱くはずだ。昔のオレならすぐにでも復讐したはずだ。だって、その時はまだオレも荒れていたし、他人はしょせん他人でありオレの目からすればはっきりいってごみも当然だった。ごみをどう扱おうがかまいやしないし、誰も何も思わないだろうと思っていた。
でも、それも昔――それこそ数日前のオレの話だ。
今のオレは、違う。
思い出してしまったから。
琴音先輩に助けられ、琴音先輩の優しさに憧れを持っていたのを思い出してしまったから。
オレはそのことを思い返しながら、目の前の光景を見て、恐怖で体が凍り付いた。一人で帰る琴音先輩の背後に、あいつがいた。琴音先輩はのんきにも鼻歌を歌っていて、背後の存在に気付いた様子はない。あと少しで琴音先輩にあいつの手が届くところで、琴音先輩が駆けだした。そこにいたのは、自転車を見ている二人組の女子生徒。タイヤを見ていることから、どうやらパンクしたらしい。琴音先輩はそこへ駆け寄って、彼女たちに話しかけていた。
男――鹿野勇大は、その手を引っ込めて、すぐに物陰に隠れる。三人の女子たちのやり取りを遠くから見つめていた。でも、去る気配は一向にない。おそらく、琴音先輩が一人になった瞬間に、彼女に何かをするつもりなのだろう。
そして、視てしまった。
勇大の首に男の子がしがみついているのを。十代くらいで、おそらく中学生くらいの男の子だ。ふんわりとした髪に、人懐っこい笑みを浮かべている。そこだけなら明るい雰囲気の男の子で済んだのだろうけれど、男の首にしがみいついている姿が普通とはかけ離れていた。
ふゆくん。
琴音先輩がそう呼んでいた、幽霊の男の子だ。
そのふゆくんがどうしてか、勇大の首にしがみつくように腕を回している。顔はとてもにこにこしていて、楽しそうだった。まるで無邪気そのもので、でも、その無邪気さが異常性をより際立たせている。
思い出すのは、琴音先輩の言葉だ。
ふゆくんは人の強い感情に呼び寄せられて、憑りついてしまうことがある。憑かれた人間は抑え込んでいた感情のタガが外れて、感情のままに暴走する、と。
実際、オレも憑りつかれた時は、もう何が何だかわからなくて、琴音先輩をあろうことかカッターで刺そうとしていた。それがふゆくんに憑りつかれた者の行動だ。その時は、琴音先輩にふゆくんを祓ってもらい、事なきを得たのだけれど。
「最悪だ……」
あろうことか、鹿野勇大に憑りついている。
強い感情というのはおそらくオレへの復讐心だろう。そして、暴走している感情は、オレへの憎悪。そして、勇大は今、自分が何をしようとしているのか、おそらくわかっていないはずだ。
オレはふゆくんを祓えない。琴音先輩の影響か、忌み嫌うものが少し視えてしまう時があるだけであって、そんな力はない。ここは琴音先輩に力を借りたほうがいいのだろうけれど、オレはもう、琴音先輩を巻き込むことはしないと決めた。それに、過去に犯した罪を見られるのが――一番怖かった。皆島綾人は人を陥れながらここまで生きてきたのだと。人に憎まれながらここまで歩んできたのだと。それを琴音先輩に見られるのが、一番嫌だった。
勇大は影から、動き出した琴音先輩たちの行動を見つめている。琴音先輩たちが歩き出して、勇大も歩き出そうとした。
「おい」
そんな勇大の背中に、オレは声をかけた。勇大は振り返る。深くかぶった帽子の下から、血走った目がオレを見た。明らかに正常ではない状態に、オレはぞわり、と背筋に悪寒が走った。
「あんたは……、皆島綾人」
「そうだけど。女を影から盗み見るお前の姿は変質者そのものだったぞ?」
く、と喉で笑ってやれば、勇大の意識は琴音先輩からオレへと焦点を変えた。
「どうして、あんたがここにいる?」
「そりゃ、ここは通学路だ。オレは下校中の身なんだけど? 見ればわからないか?」
「……」
勇大の息が荒くなる。目も次第にうつろになっていった。オレはふゆくんを見る。ふゆくんはにこにことオレに呑気にも手を振っていた。オレはそこから視線を外して、勇大へと向ける。
「お前は、本当に昔から馬鹿だな。あの女の先輩がどうなろうとオレの知ったことじゃない。お前だって、オレの性格はよく知ってるだろ? それに気づかないで、仲間がいるとか嘘をついて、のこのこと女の尻を追いかけて、ストーカーみたく陰から覗いて、お前は本物のバカかよ?」
ぎり、と勇大が歯ぎしりした。勇大の中で、憎悪が膨れ上がっていくのがわかる。
「あんたは、悪魔か……」
その言葉に笑ってしまう。人間ではなく悪魔だったら、どれほどよかったんだろう。悪魔であったなら、こんな思いをすることはなく、もっと、楽に生きていけただろうに。
そんなふうに自嘲していると、勇大がす、とオレの腹に何かを突きつけてきた。見ればナイフだった。制服にナイフの先端が軽く触れている。
「一緒に来てもらおうか?」
「オレ、これから用があるから、お前に付き合うほど暇じゃないんだけど?」
「強がりを言って……刺されても知らないぞ?」
「お前こそ。自分が何をしているのかわかるのか? オレを刺せば、すぐ近くにいるあの女子たちに目撃されるぞ?」
「そうしたら、殺すまでだ」
「へぇ? 一つだけ言っておくが、ここの通学路は麓まで一本道だ。こうしている間にもぞくぞくと生徒たちが下校する。お前は通りかかった生徒たちをいちいち殺すのか?」
そう言っている間にも、自転車に乗った生徒たちがオレたちを横切っていく。勇大は舌打ちをした。
「――さて、どうするかな?」
オレはもったいぶった口調で、肩をすくめる。
「オレはお前にこれ以上、付きまとわられるのは嫌だし。何よりも安穏とした学校生活を送りたい。対して、お前はオレに復讐したい」
ナイフは引っ込まない。それどころか、より、制服へと沈んでいった。きっと、あと少しでも勇大が手を押せばナイフの刃はオレの腹を貫くはずだ。刺されてもいないのに、そこがチリチリと痛くて、冷えていく。でも、オレはそんな様子を、絶対に表には出さなかった。
「それなら対決しようか?」
「対決?」
「そうだ。明日の夜、ここの山で対決しよう。そこで、オレが負けたらお前の好きなようにしていい。代わりに、オレが勝ったらお前は金輪際オレの前に姿を現すな」
「……」
勇大は考えているようだった。意識が混沌としている頭でも、考える力が残っているのか、しばらく黙考する。そして、
「わかった。明日の夜な」
勇大は頷いて、ナイフをしまうと、さっさとどこかへと行ってしまう。オレは知らずのうちに、息を吐きだしていた。どうやら、自分でも思っていた以上に、張りつめていたようだった。
オレはスマホを取り出して、警察へと連絡しようとした。
そうすれば勇大は警察に逮捕されるだろう。ナイフを振り回して、高校生を殺そうとした――そんな罪で。
でも、と、オレはスマホをしまう。
今の勇大はふゆくんが憑りついているため、何をするかわからなかった。それに、これはオレがまいた種でもあるし、勇大が逮捕されても勇大の中にある憎悪は消えない。警察に厄介になったとしても、ずっと、付きまとわられる可能性があった。
すべてを終わりにするのなら、オレがやるしかない。
心臓の鼓動がうるさいし、手足が震えそうにもなった。それを叱咤して、抑える。そして、心の中に、言い知れない感情が浮かんできて、オレは内心首を傾げた。
「何だ、これ……?」
恐怖にも似ているけれど、でも、質が違う。縋りつきたいと思っているのか、でも、それともまた質が違う。そんな変な感情を抱えながら、オレはもう見えなくなってしまった琴音先輩の後ろ姿を見ようとした。でも、もちろん、そこには誰もいない。
カラスが頭上で一声鳴くのを聞き届けてから、オレは頭を振って歩き出した。
* * *
土曜日になった。
今日は、待ちに待った春祭りの日だ。夜になると、神社には出店が開き、多くの人で賑わう――そんな光景を脳裏に描きながら、私はベッドでごろん、と寝転がっていた。
今は昼間。空は晴天。曇り空になる気配がゼロの陽気だった。天気予報だって、今日は雨も曇りにもならないと言っていた。
でも、私の気分は曇天模様だった。
まさかの自分の卑劣さを垣間見てしまい、気分が落ち込んでしまう。
――私は自己満足のために、人を助けていた事実に。
「私の性格、最悪じゃん」
天井に向かって呟けば、放たれた言葉が私に降り注ぐようだった。それくらいに私の気分は沈んでいる。
「あー……、やだなぁ」
せっかくお祭りに行って、塞ぎ込んでいた自分自身に元気を注入しようかと思っていたのに。その前に撃沈するとは思っていなかった。このままじゃ、お祭りを楽しむどころじゃないよ。
ごろん、と寝返りを打てば、壁に備え付けてある姿見が目に入った。
「……」
私はベッドから起き上がって、姿見の前に立つ。そこには、私が映っていた。
明日山琴音。
それが、私。
人を助けて、自己満足を得ている――それが、私。
姿見に映る私は陰鬱とした顔をしていた。私の周囲の空気もどこかどんよりと重く見える。気分一つで、こんなにも見方が変わるなんて思ってもみなかった。
でも、どうして、私はこんな〝私〟になったんだろう?
いつから、こんなふうになってしまった?
自覚がないから、わからない。
そもそも、〝私〟は、〝琴音〟とはどういう人間――妖狐の血も入っているから人間とは言えないけど――なのかな?
私は明日山琴音。文系コースの高校二年生。半分人間で、半分妖狐という、半端な存在だ。でも、その半端さに囚われずに、私は私の生きたいように生きてきた。
でも、その生きたいように生きてきた――は、人助けを多くしていた。だって、困っている人がいたら、助けたいと思うのが当然であって、でも、それは自分自身を満たすものだという。
じゃあ、何で、私は助けたいと思うのが当然となったんだろう?
思い返せば、私が他人に関わるようになったのは、私が初恋の人に、「化け物」と言われてフラれてしまったからだった。
私は「化け物」。人間じゃない。そのことが、すごいショックだったのを覚えている。私だって人間の血が流れているから人間だ。人間だから人間の世界で生きていける。それが当然だと思っていた。
でも、それは人間の世界においては、とても異端だということが分かった。
「化け物」と言われて落ち込んで、部屋に引きこもって、お父さんやお母さんのおかげで、私は「私は私だ」と、割り切れることができたけれど……でも、私の中に、恐怖が今も根付いていた。
私は、周囲の目がとても怖かった。
「化け物」として見られる目が――違う。周囲に、みんなに、置いていかれるのが――仲間外れにされるのが怖かったんだ。
いつまた私の正体がバレて、「化け物」と蔑まされるかもしれない。「化け物」と避けられるかもしれない。
そう考えると、恐怖で頭が真っ黒になったのを、覚えている。
二度目にばれたとき――綾人くんにばれた時もそうだった。その日の夜は恐怖と不安で頭がいっぱいになって、全然、眠れなかった。今は綾人くんが黙認してくれているから平気なんだけれど。
それでも私の中にある〝一人になるかもしれない〟恐怖は、心にこびりついたままだった。
だから、人と関わりを持とうとした。
人が困っているのを見て、自分と他人の縁を結ぶために助けようとした。私自身が一人にならないように。
私はうずくまる。姿見に映る私もうずくまって、その表情は一層暗くなってしまった。
「私、本当に最悪だ……」
自分という本質を垣間見てしまった今、どうも、〝私〟という存在がわからなくなってくる。私はいったい日常で何を思っていた? どう行動していた? でも、それはすべて自分のための行動であって、その思考も結局、自己中心的なもので回っていた。
嫌だなぁ、こんな私。
「はぁ……」
溜め息がもれる。とりあえず、今日はお祭りの日。辛いことは何もかも忘れて、お祭りに没頭してしまおう。
ふと、私の部屋の窓に何かが横切った。
何だろう、と窓へと近づけば、カラスさんが電線に止まっている。そのカラスさんは丸い黒い目で私を認めると、少し小首を傾げた。
「こんにちは」
私がそう挨拶をすれば、
『こんにちは』
と、返ってきた。
普通の人からだとカラスの鳴き声にしか聞こえない。私が人間としての言葉が聞こえるのは、ひとえに妖狐の血のおかげだった。
「私に近寄らないでね」
動物嫌いな私が唯一、このカラスさんとだけは何とか話ができる。このカラスさんもまた普通のカラスじゃなくて、妖の血が流れているからだ。でも、動物は動物だから、近寄りがたいけれど。
『相変わらず、琴音はひどいなぁ』
声は幼い子供の声に似ている。女の子とも、男の子とも区別がつかない、幼い声だ。けれど、私よりも賢いから、その幼い雰囲気と老獪さはアンバランスだった。
「カラスさん。それで、どうしたの?」
『琴音、最近、人間の男の子を追いかけまわしてたでしょ?』
「う。やっぱり見てたんだね」
『まぁね。面白いことを見つけるのは、誰よりも早いからね』
「……さすがだね、カラスさん。それで、何の用?」
『情報を持ってきたよ』
「情報?」
このカラスさんは時々、こうして私に情報を持ってくる。内容は様々だけれど、主に私に関しての話を持ってくるから、それだけにこの情報というのはとても貴重だった。
『男の子が危険だよ』